娘道成寺
その夜、僕は母に連れられ、市電に乗り、新装なった歌舞伎座に向かった。正面に巨大な丸窓がある七階建てのそのモダンな建物は、神を冒涜するがごとく、夜空を目指していた。このあたりは街の灯りで、満点の星は望めないが、一際白く光るのはスピカ、赤みを帯びたアルクトゥールスくらいは視認できるようだった。
「おかあちゃん! 明るいなぁ〜! おひぃさん出てるみたいや」
「シー! 信、静かにしいやぁ」
こけら落としの演目は娘道成寺。当世一との呼び声も高い、歌舞伎役者が主演していた。
「あの釣鐘。人が入ってるちゅーことか? えらい大っきいなぁ。ああ、蛇? 蛇や」
いよいよ、道成寺もクライマックス。鐘が引き上げられ、後ジテ姿となった清姫が現れる。
「あ!、あの、女の人、きれいやなぁ〜」
「ちゃう。ちゃう。あれは、女形、男の人やで」
「え。男の人? 女形? へぇ〜。そうなんや。そやけど、綺麗やなぁ〜 なんや。あの人のところだけ輝いてるわ」
「そやなぁ。あの役者さん、えらい人気らしいからなぁ」
《気のせいか? いや、あの人の体から気ぃみたいなもん? あれ? 見える? 見える気がする》
歌舞伎というものを観るのは初めてだったし、観客を圧する舞台の雰囲気に呑まれたとも言えなくもない。だけど、僕は、その美しい? そんな月並みな言葉では言い尽くせまい。「女装の麗人」の事が、頭から離れなくなってしまった。
その日、どうやって家まで帰ったのかも思い出せない。街の灯り、行き交う車の音は記憶の切片となって、霞がかかった海馬の中にかろうじて留まってはいた。歯車が飛んだ、オートマタのような状態で、僕は帰宅した。
「だだいまぁ〜」
改めて、今夜の出来事を反芻してみる。艶やかな舞台、衣装、そして、あの人……。憧れ。この時はまだ、僕は子どもらしい無邪気さも持ち合わせていたのだろう。
《学校でみんなに自慢しょうか?》
ダメだ絶対にダメだ。女形。「綺麗な男の人」などという言葉を出してしまったら……。学級の皆の好奇の顔が浮かぶ。
人というものは、生得的に残虐性を持っている。常に、いつも、そのどす黒い心根によって、他者を傷つける機会を虎視眈々と狙っている。「彼ら」が楽園を追われたのは、リンゴを食したからではない。必然だったのだ。
《あの人のことは僕の心の中にだけおいとこ。そやけど、あの役者さん、もう一回会いたいなぁ》
その時、僕の心に確信めいた何か? が生まれた。きっと、あの人に、また会えると……。そう。僕とあの人は繋がっている。タロットカードの運命の輪。幼い頃、絵本で見たローマ神話の女神の導きに。
《って、何考えてるの?》
まるで、僕は異端と呼ばれるカルトの教義を盲信するがごとく、高熱に浮かされていた。