プロローグ〜信という子
朝、それは繰り返し巡ってくる。そう思うのは、僕が、まだ「死」というものを理解していなかったからだ。しかし、生、このドブの香り芳しい虚実の世界に立てば、他者との会話が成立する。そこに、主体が出現する。すなわち、エロティシズムが減退してしまうということだ。
季節は春。校庭の桜の花はまもなくその儚い命を終えるのだろう。いつものことだが、スズメの囀りが騒がしい。
「おはよう! おかあちゃん」
「信、何を慌てて、もうご飯済んだんか?」
「うん? 済んだ。済んだ。おむすびやったら早よう食べれるから明日もおむすびがええなぁ」
僕は食事を済ませ、上がったばかりの高等小学校へ向かおうとした。珍しいこともあるものだ。母が今日は早く帰るよう念をおしてきた。
「千日前に、大きな歌舞伎座建ったやろ。券が手に入ったんや」
「え? お芝居?」
「そうや。今夜、こけら落としで、娘道成寺な。なんでも、有名な役者さんが出演するらしいで」
「え。そうなんや 行きたい! 行きたい! 演目? ど・う・じょ・う・じ?」
「『まだ足らぬ おどりおどりて あの世まで』言うてな。舞台装置もすごいらしいでぇ」
「踊りみたいなん? 楽しみやなぁ〜 今日は学校早めに帰ってくるなぁ〜」
「ああ、そうしいやぁ」
「ほな。いってきます!」
「いってらっしゃい。い・と・は・ん」
「おかあちゃんまで、てんご言わんといて。僕、男の子やから」
妙な迷信からなのだろう。生まれつき体が弱いという理由で、僕は、幼少のころは女の子として育てられた。尋常小学校に上がってから「男装」が許されたのだけれど、容姿もあいまって友人からは名前の「信」をもじって「信乃」とからかわれることが多かった。「八犬伝」じゃないんだから。
本来、虐めを受けるというのは「嫌」なことなのだろう。確かに僕はいじめっ子に怨嗟の念を抱いている。いや言葉を選ぶのはやめよう。「殺してやりたい」と率直に思う。ただ、どこか「女みたいだ」という言葉は僕を蠱惑する。そうだ。彼らが付けたスティグマからは乳香の香りがあふれ出て僕を聖なるものに押し上げるのだ。
イラスト:Aimee++さん
イラストは元となる音声作品を出した際に、作成いただいた物を、絵師さんの許可を得て再掲しています。(タイトル、サークルロゴを除いて、なろう用にトリミングしています)
なお、イラストはあくまでイメージで、このようなシーンがある訳ではありません。