カレーライス
『あなたってきっと心臓に流れてる血液まで冷たい人間なんだわ』
理由を訊ねると、彼女はキツく美しい顔立ちを更にキツくして答えた。
『だって、あなたの作品ってそんなものばかりじゃないの』
そうじゃないと言えば嘘だった。寧ろ、当然に思えた。彼女の言うとおり、僕は冷たい人間なのかもしれなかった。
街全体が山の中にあるためか、僕が暮らす街は坂ばかりだ。それでもこの街に決めたのは、昔住んでいた懐かしさとか、友達がいるからとか、そんな理由じゃなくて、街のどこからでも海が見えるからだ。
街に点在するどこの郵便ポストからも、並ぶ屋根の向こうに海が見えた。その、とりわけ見晴らしが良く、この街で一番海が見える場所のポストに茶封筒を入れる。今回も何とか間に合ったようだ。……溜め息が出た。彼女の言葉が反芻される。傷ついてなどいない。でもなぜかこの場所に来ると思い返してしまう。そして必ず長居してしまう。
「梛木沢、また遅刻か?」
「すみません」
学校に来る途中であの場所に立ち寄ったから、また遅刻してしまった。担任の浜田はそれを快く思っていないようだ。
「わかったから行け。どうせ徹夜明けなんだろ?」
「すみません」
「わかったよ、謝んな! 俺だってお前のファンなんだから」
転校してきてから、僕の仕事の事を知るのは、浜田のみになった。
「……ありがとうございます」
「で、いつでるんだ?」
「え?」
浜田は、転校初日に自分が好きな小説家と僕の名が、同じであることに気づいたらしい。
普通の人間はそこでまさか本人だとは気づかずに終わるが、この国語教師はあろうことか、僕に小説家本人ではないかとたずねてきたのである。
「ナキザワハルの最新作だよ!」
「まだ原稿上がったばかりなので」
僕達小説家は、編集者の求める期日に間に合うように原稿を書き上げる。僕の場合書き上げた後の修正や大幅な内容変更は殆ど無く、突然短編がシリーズ化したりと言うことは無いに等しい。
更に、僕と言う小説家は、書き上がった原稿に全く興味がなくなってしまい、自分が書いた本が発売されたらたまに目を通す位だ。だから、上がった原稿がその後どの位の期間で発売されるかは良くわからなかった。
以前そのことを浜田に話す機会があった。
「そう考えると、お前って凄い奴なんだよな。なぁ、お前勉強しに学校に来てる訳じゃないだろう」
僕は前の学校を中退していた。理由は、仕事を既に持っていたし、学校に行く必要性を見いだせなかったからだ。
ではなぜ、また学校に通うのだろう。僕自身その答えをまだ見つけていない。友達と呼べる存在は前の学校でもいなかったし、特に学校と言う集団の中で暮らすのが、僕は苦手だ。
帰りにもう一度、あの場所を通った。夕方の海は朝とは違う。色だけが暖かく、実際はとても冷たいのだ。幼い頃、橙に輝く水面が温かい気がして、僕は真冬の海に飛び込んだ。とにかく冷たくて、気づいた時には浜辺でタオルにくるまれていた。両親はそれ以来、僕を海に連れて行くことはなかった。
ナキザワハルと言う人気作家が誕生したのは、その十年後だった。そのデビュー作は開催第一回目のある賞を受賞し、世間ではナキザワハルをデビューさせるためにつくられた賞だと歌われた。
実際はそうじゃない。元々読書好き同士として意気投合したていた父の友人が、たまたた秘密裏に書いていた僕の作品を気に入り、勝手に応募したのだ。そのため本名での応募になった。出版時にカタカナに改名したものの、僕の周りは好奇の目で僕を見た。耐えきれずに僕は集団の中で自ら孤立した。
海が夕日を飲み込み、辺りが暗くなり始める頃、僕は携帯にメールが届いていることに気づいた。
『晴くん今日はカレーだよ! 今日はちゃんと帰って寝てね。香』
香ちゃんは最近僕の部屋に居ついている中学生だ。隣に住んでいて、彼女が姉の玲さんと喧嘩をして冬の冷え込む廊下に佇んでいるのを拾ったのがきっかけである。
彼女の寂しそうな顔を想像すると、メールを無視するわけには行かない。
『コウちゃん、ごめん。今日は眠れそうにないんだ。シャワーだけ浴びたらまた出ようとおもう』
我ながら凄い内容だ、と突っ込んでいると、打っている側から、追加でメールが来る。
「……」
『晴くんゴメン! カレーに入れるジャガイモ忘れちゃったよ! 悪いけど買ってきてくれないかなぁ? 私まってるよ!』
ジャガイモがないのではカレーが作れないじゃないか。僕は渋々ジャガイモを買うことにした。
「晴くんおかえりー!」
香ちゃんは、普段はのばしている真っ直ぐで綺麗な髪を束ね、エプロンをしていた。カレーの匂いで、食欲中枢が刺激される。
「お腹空いてるんだねっ」
香ちゃんは嬉しそうに笑う。彼女は玲さんと二人暮らしをしていて、家事もしている。
「今日はどうして喧嘩したの?」
普段は仲の良い姉妹だが、喧嘩してバツが悪いときには、香ちゃんは必ず僕の部屋に来るようになった。
「……してないもん。それよりさ、また本くれない? ナキザワハル」
香ちゃんは僕の部屋に来たとき、たまたま本棚にあった僕の本を見つけた。それ以来彼女は時々ナキザワハルの作品を読むようになった。
「いいよ、これとか」
僕は手頃なものを数冊渡した。
「晴くん、この人の作品本当に好きだよね。いっぱい本があるけど、ナキザワハルだけ割高だもん」
本当は出版のたびに貰ったものがたまっているだけだ。
「香ちゃんも好きなんじゃないの?」
作者として聞いてみると、意外な答えが返って来た。
「面白いと思う。でも、それ以上に、このナキザワハルって人に会ってみたいの」
「どうして?」
聞かずにはいれなかった。好きな小説家に一目会いたいと願うファンは沢山いる。サイン会や握手会と言うのはファンの切実なる願いに応えるためにある。僕は両者に、読者として参加したことがある。 香ちゃんが言うそれはファンのものとは違ったニュアンスに聞こえたのだ。
「会って、カレーを食べさせるの」
満面の笑顔に、拍子抜けした。確かに彼女カレーは絶品だ。だが、それは一流作家に味を見てもらわないと納得できないと言うことだろうか。
「あっ、晴くんバカにしてるでしょ? 味付けがどうとかじゃないんだよ!」
そう言われてもいまいちわからない。なぜカレーを食べさせるのか。
しかし、次の言葉で、その疑問は吹き飛んだ。
「ナキザワハルはね、いつも泣きながら文を書いてる気がするんだよ」
「な、んで」
僕は自分が動揺しているのを感じた。実際、泣きながら原稿を書いたことはない。それでも、僕の心は動揺していた。
幸い、香ちゃんは僕の様子に全く気づかずに優しい笑顔をして、窓から見える海を見ていた。
「だからね、ナキザワハルの本はいつでもチェックしているんだよ! いつか笑って原稿を書ける日が来るといいなって」
香ちゃんのカレーは、冷え切った体を温めて、僕の中に新しい暖かな血液を送り出すようだった。
中途半端に終わってしまったこの話ですが、いかがだったでしょうか。いつもギャグに走りがちの僕ですが、今回はさいしんの注意を払いました。もちろん、続きます。シリーズです。梛木沢くんと違い、自分劣等生なので。次回作がいつになるかもわからない作品ですが、どうぞよろしくお願いします。