ジェシカ王女の後悔
なんだかお城の中がバタバタとしている。
ジェシカが最初に感じたのはそんな些細な異変だった。
「え?今、なんて……?」
「はい、どうやらセイブス王国との外交再開のお話が上がっているそうで、本日この城に外交官として1名、セイブス王国の人間が訪問しています」
侍女の一人に聞いた話に信じられない思いだった。
小さな頃から学んできた「人間」について。
人間の国は恐ろしい場所だから、絶対に近づいてはいけないと教えられ、実際にジェシカはセイブス王国と繋がる国境の森にすら近づいたことがなかった。
ジェシカは分からなかったのだ。彼女は素直で純粋で、だけどだからこそ真っ直ぐすぎてなかなか分別のつかない部分があったから、「まだ早い」と教えられてなかったから。
人間にもいい人がいるなんて分からなかった。いつか聞いた、兄のリアムの命を救った恩人が実は人間の女の子だなんて、リアムがときどき姿を見せなくなる時がある、その理由なんて、知らなかったのだ。
セイブス王国からの外交官、イーデンが城に来るようになっても、ジェシカが顔を合わせることはなかった。
(お父様やお兄様たちは何を考えているの?)
人間の出入りを許した他の王族の神経を疑った。
ジェシカに早く事情を説明し、理解させなかった国王やハディス、リアムにも責任はあっただろう。ジェシカは思い込みの激しいところもあったけれど、決して話を理解できない王女ではなかった。
大切だから、大切すぎて、守られていた。
実際、小さな頃から「いい人間もいる」と教えられていたならば、きっとジェシカは国境の森に行きたがったし、なにかのはずみで人間の国に足を踏み入れようとしたかもしれない。
ジェシカは心が綺麗すぎて、人間にもいい人がいるならば、どんな人とでも話せばわかりあえるのではないかと考えただろう。彼女の特性を分かった上で、段階を追って説明をする手はずになっていたのだ。
ただ、城の中にも「良くない獣人」がいた。
「ジェシカ王女殿下、リアム殿下がアーカンドに入りこんだ不審な人間の女を城に連れ帰りました」
「え……?」
苦々しい顔でジェシカに告げたのは彼女によく声をかけてくれる優しい大臣だった。
「全く……処罰がくだされるまで牢にでも入れておけば良いのに、リアム殿下は優しすぎるのです!人間の犯罪者を客間などに通してやって……思いあがった人間が調子に乗ってこの国に仇を為す前にどうにかしなければ……」
この大臣はいつも優しくジェシカを気遣ってくれた。その人が不安がっている。
(どうにかしたくとも、王族の決定になかなか手を加えられないのだわ)
セイブス王国の外交官が訪れるようになった頃から、お兄様たちは何かおかしい。ジェシカはそう感じていた。
(まさか、人間の策略はとっくに始まっていたのでは……お兄様たちは騙されている……?)
寒くもないのに、体がぶるりと震えた。
そんなジェシカの様子に、大臣が見たこともないような顔で笑みを浮かべていることにも気づかずに。
「お兄様……何が何だか……ここはどこですか?」
急ぎ向かった客間の前で、聞こえてきた言葉に思わず笑いが出た。
しらじらしい!そう思った。
怒りのままに、使ったこともないような激しい言葉を吐き捨てる。
「罪人はいつだってそうやってとぼける!いいか、分からないと言うなら教えてやろう!お前は許可証もなく我が国に侵入した犯罪者である!……楽に死なせてもらえればいいな!」
口調は悪いことをした臣下を叱る父や兄のそれを真似した。
自分は王族。兄ができないのであれば、自分がこの恐ろしい人間の心を折らねば。獣人の国を守るのは王族である自分の勤めなんだから。
(私は守られるだけの弱い王女じゃないわ!)
◆◇◆◇
(嘘よ……!)
自分のしたことの罪深さに気付かされたのはそれからすぐだった。
「ジェシカ。僕の客人が城からいなくなってしまった。残った彼女の兄は僕に首を差し出そうとしたよ。――お前はあの時、彼女たちに何を言ったんだい?」
優しい口調だったけれど、明らかに怒った兄リアム。
(出ていったのね!よかった!)
お兄様はまだおかしいままのようだけど、きっとすぐに目を覚ましてくれるだろう。そう思って自分の思いと行動を説明したのに。
「メルディーナ……!」
焦燥をにじませて部屋から出ていく兄の背中を呆然と見送った。
(何?どうしてそんなに慌てるの?何が起こっているっていうの?)
事態を理解できないジェシカに、入れ替わりにやってきたハディスが謝った。
「お前にはまだ早いと、きちんと説明しなかった私の罪だ」
やっと聞かされた事実にジェシカは背筋が凍る思いだった。
自分が追い出したあの人間こそが、兄リアムの命の恩人だった。そして、何よりも大切にしていた人……。兄にそういう人がいるというのはなんとなく気付いていたけれど、まさか人間だったなんて。
兄が命の危険にありながらも交流を持ち続け、命がけでその命を救い出した人。そんな人に自分は――。
それでもどこか信じられない自分もいて、混乱したジェシカは自室に引きこもる。
(お兄様たちは騙されているだけかもしれない。自分だけが正常なのかも……でも、もしもそうじゃなかったら?本当に、あの人間が良い人で、間違いなく兄が大切にするに値するような人だったら……?)
事実、城に残った外交官のイーデンが、何か問題をもたらす気配は何もなかった。
「彼女が見つかったよ。守りの森で聖獣様に守られていたそうだ」
部屋のドア越しに兄ハディスから聞かされたその言葉に、ジェシカは今度こそ本当に打ちのめされた。
(守りの森なんて……私でも入れるか分からない)
守りの森は心が綺麗なものにしか見れない。その清浄すぎる空気は、少しでも瘴気を生む存在にはほんの少し毒になる。
瘴気を全くその身に持たない者は獣人でもごくわずかだ。精霊のルーチェがそばにいるリアムは入れるが、ハディスはあの森に入れるだろうか。聞いたことはないからどうか分からない。ジェシカはどうだろうか。自信はあまりない。
そんな守りの森で、聖獣様に守られた存在。そんな人が自分が思っていたような人であるわけがない。
事実、後悔にまみれ、泣きながら謝り続けるジェシカのことを、メルディーナと呼ばれるその人は怒りも咎めもせず、優しく抱き留めてくれた。
(私は……酷いことを言ったのに……殺すと言ったようなものだったのに!)
さらに彼女の側にくっついてこちらを見ている精霊の姿に、全てを悟った。
(この人はきっと、このアーカンドにとっても特別な人なんだわ)
許されても、後悔はなくならない。自分のしたことが恐ろしかった。
「ごめんなさい、ご、ごめんなさい!うわああん!」
泣き続けるジェシカを慰めようと、抱きしめてくれたメルディーナが慌てるのに合わせて彼女の魔力が少し溢れるのを肌に感じる。
(これが、この人の持つ、聖なる魔力……なんて優しい人なんだろう)
信じられない程、温かい魔力だった。




