黒い狼との秘密の交流
小さな黒い狼を助けた時のことは、今でもよく覚えている。
あの時、怪我の癒えた狼はすぐに身を翻し去っていった。その後私はもちろん護衛やサリーにうんと叱られたけど、それでもあの美しい獣を助けられたことに大満足だった。
ボロボロの体を抱きしめ血濡れになっていた自分の服やストールは、路地裏から出る前に浄化魔法で綺麗にしておくのも忘れなかった。おかげで何をしていたのかはバレずに済んだのよね。
その日の夜、空に浮かんだ大きな大きな黄金色の満月を見てあの綺麗な狼の瞳を思い出していたっけ。
黒い狼が人目を忍んで会いに来るようになったのは、それから少ししてのこと。
((メル、この間助けた黒い狼がお前に会いに来ているぞ))
初めてロキにそう教えられた時は本当にびっくりした。
このセイブス王国では、家畜以外の動物は基本的に嫌われる。もしも誰かに姿を見られてしまえばきっと無事ではいられない。国に対して許可申請していない動物は全て駆除対象なのだ。私はもちろん、もう来ないようにと何度も言い聞かせた。それでも狼は数日すると現れる。仕方ないから強硬手段!ロキに訪問を教えられても会いに行かなかった。
それでも黒い狼は会いに来た。狼が諦めるより、私が折れる方が先だった。
それからずっと、こっそりと、不思議な交流は何年にも渡って続いている。
「わっ!ふふふ!くすぐったいわ」
数年で小さかった狼もすっかり大きくなった。今では私が全身で抱き着いても余るくらいすっごく大きい!その大きな体がすりすりと擦り寄り、もふもふとした毛並みが手や頬をくすぐる。
ああ~!もふもふだわ……本当にもっふもふ!
いつも通り全身で抱き着き、ふわふわの体を撫でまわした。前世を思い出して初めての触れ合い。もふもふは尊いという感覚を思い出してこの大きな体に包まれると、より強く幸せを感じる。ここは天国ですか?
「はあ、癒し。本当に癒し。たまらない。幸せ」
((メル、すっげーだらしない顔してるぞ))
ロキの呆れた声は無視。どうせ誰にも見られない。
抱き着かれ、撫でまわされている狼は心地よさそうに目を細め、されるがままに身をゆだねてくれる。一応バレることを恐れているのか、声はほとんど出さない。
こんなに可愛くてもふもふは幸せを与えてくれるのに、どうしてこの国はこれほど動物を嫌うのかしらね?
――隣国、アーカンド。そこは獣人たちが暮らし、治める国。獣人たちは動物たちと密接に暮らしていると聞く。セイブス王国が動物を嫌うようになったのは古く昔のこと、アーカンドとの関係が悪化してからのことらしい。
政治的な理由からアーカンドのものやアーカンドと縁の深いものを拒絶するようになり、いつしかそれが国民全体の「当たり前」の価値観として刷り込まれていった。
はっきりそうだと教えられたわけではない。だけど、妃教育で学んだことを自分なりにつなぎ合わせていくとそういう事実に辿り着いた。ちなみに直接的に教えられる内容はもっと単純で偏っている。
『獣人は野蛮で卑怯で悪意にまみれた亜人種であり、友好を築くことは不可能。獣人に追従する獣と共存することもまた、人間としての尊厳を捨てることと同義である』
王家が、家族が、家庭教師が、そして人々が神の慈愛を求めて通う教会がそう教えるのだ。
「だけど私は、そんなことはないって知ってるよ……」
私の呟きに、側に座り、大人しく頭を撫でられていた黒い狼さんが不思議そうに顔を上げる。金色の瞳が瞬いていてとっても綺麗だ。……こんなに綺麗で優しい生き物との共存が、人間としての尊厳を捨てることになるなんてありえない。
「獣人さんって、どんな人達なんだろう……」
狼が大きく体を起こす。小さな声で優しく鳴いて、頭を擦りつけてくる。これは「そろそろ帰るね」の合図だ。私はもう1度その大きな体を、両腕を目一杯広げて抱きしめた。
「優しい狼さん、またね」
狼は森の中にすぐに消えた。
これは推測だけれど、あの子はアーカンドから来ているのではないかと思う。
一見恐ろしくも見えるあの大きな狼がこんなにも優しいのだ。あの子と共に暮らす獣人族が、教えられている通りの種族であるとはどうしても思えない。
おまけに……攻略対象にも獣人がいる。そのルートはプレイしていないから、内容は全く知らない。私はサブエピソードなどを楽しむタイプでもなくて、淡々とメインルートをこなすだけだったからなあ。
でも多分、将来は聖女様が獣人と人間の懸け橋になるんだろう。現実的に獣人や動物たちと共に生きていく未来がすぐそばにある。
その時に……ゲームではすでに死んでいた私は、どこでどう生きているだろうか?
「いつか、アーカンドに行ってみたいな」
狼と会っていたなんて万が一にもバレないように、全身に浄化魔法をかける。治癒魔法はうんともすんとも発動できなくなったけど、実は簡単な魔法くらいならば今でも使えるのだ。
というか1度は全然使えなくなったものの、必死で練習したらまた使えるようになった。
無能無能と言われる中、そんなことはなんの意味もないので誰にも言っていないけど。それに黙っているとこういうときに便利なのだ。証拠隠滅にもってこい。絶対にバレないってこと。ふふふ!
((……お前はそのうち、嫌でもアーカンドに行くことになるよ))
「えっ?何か言った?」
((いーや、なんでもないよ!そろそろ戻らないと、迎えの馬車が来るんじゃないのか?))
そうだった!頭の中でロキにありがとうと伝え、そっと王宮の方に戻る。さりげなく人目につかない辺りで認識阻害の魔法を解いて馬車に向かった。
◆◇◆◇
「兄上、どうして兄上はメルディーナ様に冷たく当たるのですか?」
クラウスの執務室で、第二王子のカイルが不満そうに兄に尋ねていた。
「お前の心配することではないよ」
「でも、メルディーナ様がおかわいそうです!いつもすごく寂しそうなお顔をしています」
カイルはクラウスの年の離れた弟であり現在10歳の少年だ。カイルはメルディーナを姉の様に慕い、よく懐いていた。婚約者であるクラウスよりよほど仲良くしている。
「噂の様に、メルディーナ様が治癒能力を失われたからですか?そんなものなくともメルディーナ様は聡明で優しく、素晴らしいご令嬢なのに……」
言っていることは大人ぶっているが、カイルは口を尖らせ子供らしく不満を全開にさせている。そんなカイルの様子にクラウスは苦笑し、ため息をついた。
「そういうことじゃないよ……カイル。私だって、彼女ともっと仲良くしたいとは思っている」
「でも、それならどうして……」
カイルはそれ以上言葉を続けられなかった。兄の顔があまりにも寂しそうに見えたからだ。
「だって、メルディーナは……きっとこの婚約を――」
「???」
クラウスの独り言は、カイルの耳に届く前に空気に溶けて消えた。