プロローグ:運命の分岐点
5歳の私はその日、侍女のサリーと一緒に街に遊びに出かけていた。
ずっと行きたいと思っていたお店の少し手前で馬車を降り、さあ店の中に入ろうかと思ったその時。悲痛な鳴き声が耳に飛び込んできたのだ。
「キャンキャン――……!」
「おわっ!きたねえな!この忌まわしい獣めっ!」
「どこから入り込んだんだか……おーい、誰か、衛兵を呼んで来い!」
「チッ!せっかく美しい広場の石畳が……汚れた血がついてしまってるじゃないか……」
思わず視線を向けると、そこにはボロボロになった小さな犬のような生き物。血で汚れていて、はっきり何の生き物なのか分からない、ひどい有様だった。
「お母さーん、何か転がってるよー?」
「しっ!見てはダメよ、あれは不浄の生き物だからね」
「不浄ってなあに?」
「とっても汚くて悪いものという意味よ」
「ふうん……?」
その時、人に避けられ、歪んだ表情を向けられているその生き物が、1人の少女の足元に縋りつこうとした。とても身なりの良い少女だ。商家の娘のような恰好をしているけれど、私と同じ、貴族のお忍びだったのかもしれない。
「お嬢様……?」
サリーの怪訝な声も聞こえない程、私はなぜかその光景から目が離せなかった。
『ああ、あの子はあの女の子に助けられるんだ、よかった』
そう思い、ほっとしたのも束の間――。
「やだ~止めて触らないで!」
「キャンッ!」
あろうことかその少女は、汚れ、ボロボロになったその生き物を強く蹴り飛ばしたのだった。咄嗟だったのかもしれない。それを咎める者は誰もおらず、むしろ誰もがその少女に同情するような視線を向けていた。
「お嬢様!大変です!早く屋敷に戻り今すぐ全てのお召し物を焼きましょう!」
「きゃー!ブーツに血が付いたわ?やだやだっ!替えの靴を早く用意してっ」
その言葉に側に控えていた従者らしき少年がすぐに走り出す。
「あのお嬢ちゃん、かわいそうに……」
「誰か早くアレを始末してくれないかしら」
「誰も不浄のものに触れたくないからなあ」
「衛兵はまだなのか?」
「クゥーン……」
悲しい声でひと鳴きして、その生き物はぐったりと体を横たえた。誰もが遠巻きにし、興味を失ったかのように目を逸らす。
この国で、怪我をした獣は厄災を呼び込む不浄の生き物として忌み嫌われる。そもそも食用や家畜以外の動物は基本的に受け入れられない国なのだ。そのためこの国に、人に管理されている以外の動物が入り込むことはほとんどないのだけど……。
距離もあって、間に溢れんばかりの人の波。ここは王都の中心街でありたくさんのお店が立ち並ぶ人気の通りだから。それなのに、そんな人、人、人の合間を縫うように、覗き見えたその生き物と目が合った。
遠くからでもよく分かった。綺麗な金色の瞳……。
その瞬間、心臓がドクンと大きな音を立てた。
「お嬢さまっ!?」
サリーの叫びを背中に、私は瞬間的に走り出していた。どこかで冷静な自分もいて、持っていたストールをフードの様に頭からかぶる。自分の立場とこれからしようとしていることを考えると、幼心に私が誰であるかを知られるのは良くないと思ったのだ。
周りの声はもう聞こえなかった。
まるでぼろ雑巾のように転がるその生き物を抱え、そのままその場を走り抜ける。護衛は慌てているだろうけれど、心の中で「ごめんなさい」しながら認識阻害の魔法を自分にかけた。
そうしてひっそりとした人気のない路地裏までたどり着くと、そっと治癒の魔法をかける。
荒い息が徐々に落ち着き、瞼がゆっくりと持ち上がる。綺麗になったら分かった。この子は狼だ。
じっと見つめるその瞳。
綺麗な綺麗な金色の瞳から、しばらく目が離せなかった。
私は知らなかった。
この出会いが私の運命をすっかり変えてしまうことも。
それにより、信じられないような悪意を向けられることも。
自分が特別であり、数年後に王宮で予言される『精霊王の代替わり』に大きく関係していることも。
この時の私はまだ、何も知らなかったのだ。
◆◇◆◇
「もう!これで何日目?この時期にこの辺りで攻略対象の1人と出会うはずなのに……どうしてどこにもいないの?このままじゃ回想で語られる『思い出の出会いイベント』がこなせないじゃない~!」
すぐ近くで1人の女の子が訳の分からないことを捲し立てていたことも、私は知らない。