8.喧嘩
「あのね、宮野さん。バイト終わり、迎えに行かせてくれないかなぁ」
神薙君の薄茶の瞳はいつになくまっすぐこちらに向けられている。
「そうしてもらいな、椋。バイト、休めないんでしょう?」
「休めないし、神薙君の厚意もありがたいんだけど、私大丈夫だよ」
自分が、非力なんだということを認めたくない。私は大丈夫。私は「女」なんかじゃない。
「でも宮野さん、震えてた」
神薙君が、苦しそうに絞り出した。
「それはっ……そうだけど。でも走れるようにスニーカーで行くし、そもそもあんな事そうそう起きないし。今までだって何もなかったし」
だから今日も何も起こらない。起こるはずがない。
「そうそう起きないことが、起きたんだよ。何も起きないないなんて、言えないでしょう?」
「私は大丈夫だって、言ってるでしょう!」
初めに神薙君に助けを求めたのは自分だ。滅茶苦茶なことを言っているのはわかっている。でも、心が否定する。自分が誰かの庇護を受けなきゃいけないってことを、受け入れたくない。
「宮野さんが強い人だってことは知ってるよ。でも、力じゃ敵わないでしょう!」
いつも穏やかに話す神薙君の大声を、初めて聞いた。
「椋、神薙も。喧嘩も大事だから、思う存分にやりな。私は席外すから、二人で話し合いなさい」
由芽はなぜか嬉しそうに、空き教室から出ていった。
「力じゃ敵わないって、そんなの……っ。女が夜道を歩いてるのがいけないの? 力が弱い〈女〉だからいけないの!? そんなの間違ってる!」
私が大学で学んできたことは、現実の前じゃ意味がないというのか。女性の権利や尊厳は、まだ弱いというのか。
「宮野さんに落ち度は一つもないよ。 でも、何かあってからじゃ遅いって言ってるの!」
何故わかってくれないのか、という様子で神薙君は叫んだ。
「〈何か〉ってなによ! 何で……何でそんな得体のないものに怯えなきゃなんないわけ!? 何で〈女〉ってだけで……っ」
悔しくて悔しくて、涙がこぼれる。
心配してくれている神薙君に怒鳴るなんて、お門違いだってわかってる。でも、学んできたことと現実のギャップに、自分に今突き付けられている「女という性別」に、抗いたい。性別なんて枠に入れられたくない。そんなことで危害を加えられたり、行動を制限されたくない。私は、そんなにわがままなことを望んでいるのか。私が間違っているというのか。
頭の中でチャットで出会った男たちの声がこだまする。
――それは理想論だよね。
――自分の権利ばっかり主張してんなよ。
――それはわがままなんじゃない?
違う、そうじゃない、私は間違ってない! 頭の中の声に叫び返す。
歯を食いしばって耐えるけれど、悔し涙は止まらない。
泣けばいいって思ってるのか、これだから女は。そんなことをまた、言われるのか。神薙君も、言うのだろうか。
神薙君を見ると、泣いている私を見てハッとした顔をしている。
「宮野さん、そうだよね。起こるかもしれない〈何か〉に怯える必要なんて本当はあっちゃいけないよね」
神薙君はしゃがんで私に目線を合わせた。
「だからね、これは僕のわがまま。何も起きないってことを確かめたいのは僕。お願い、宮野さん。僕に協力してくれないかなぁ」
そう言って神薙君は泣きそうな顔で微笑んだ。
なんだろう、この人間は。泣いたのに、怒らない。理屈をこねたのに、面倒くさがらない。それどころか、私の主張を理解して聞き入れてくれた。
「……なんで、怒らないの」
私が泣いたら、皆怒った。私が理屈をこねたら、皆面倒がって馬鹿にして蔑んだ。
「どうして? 怒るところなんて、なかったよ」
神薙君は不思議そうに首を傾げる。
そうか。私はまた「当たり前」に毒されていたのか。子供が泣けば怒鳴り散らす親、下に見ていた女に知識があることを許せない男。そんなもの「当たり前」なんかじゃなかった。またひとつ、解毒した。
「ありがとう、神薙君。神薙君は、凄いね」
感情的になっても、相手の話をちゃんと聞く。自分の考えとは別の意見を受け入れる。私の苦手なことだ。だから視野が狭くなりがちになる。
「そうかなぁ。宮野さんに褒められるとうれしいなぁ」
神薙君はいつものゆったり口調でニコニコと笑っている。
「私も、神薙君みたいな人間になれるように頑張んなきゃな」
自分の考えばっかりではなく。色んな方向から物事を見なければ。
私の呟きに神薙君は目を丸くして、
「僕も、宮野さんみたいな人間になれるように頑張る」
そう言ってふわりと微笑んだ。
「そういえば、神薙君。迎えに来てくれるって、時間とか大丈夫なの? バイトとか」
22時なんて、バイトしてたり遊んだりしている時間なのではないか。
「大丈夫だよ。仕事は家でできるし、僕学校以外は基本的にずっと家にいるから」
いつも人に囲まれていて友人の多い神薙君にしては意外だ。
「仕事って?」
在宅の採点のバイトとかだろうか。
何の気なしに聞いたのだが、神薙君の目が泳いでいる。
「あ、ええと」
慌てている姿は珍しい。
「ごめん、言い難いなら言わなくて大丈夫だよ」
踏み込みすぎた。いつもならこんなミスはしないのに。距離感間違えた。
「宮野さんが謝ることないよ! あのね、実は僕小説書いてて。恥ずかしくて家族以外には言ってなかったんだ」
神薙君の耳が赤い。
「私に言って良かったの?」
「前に公園で、宮野さんが教えてくれたから」
神薙君は立ち上がって隣に座った。
「高2の時にデビューさせてもらったんだけどね。学校で馬鹿にされて、あぁ恥ずかしいことなんだって思ってたんだけど。公園で詩を書いている宮野さんは、とっても楽しそうで、自由で、こうなりたいなぁって思ったんだ。だから、宮野さんには聞いてもらいたかったんだ」
容姿端麗で才能もあって、でもそのせいで望まない注目や嫉妬に曝される。自分じゃどうしようもないことで不利益被ることは、性別以外にもあるのだな。
神薙君と話していると、今まで見えなかったものが見えてくる。考えもしなかったことに気づく。
「神薙君、ありがとう」
「宮野さんも、ありがとう」
神薙君はへらりと笑った。
もらうばかりじゃ嫌だ。同じ分、返せるようにならなければ。この人と、対等で在りたいから。