7.連絡してくれてありがとう
震える指先でタップしたのは、神薙麗佳の文字。
コール音はわずか2回。神薙君はすぐに電話に出た。
『もしもし、宮野さん。どうしたの?』
少し驚いた様子の神薙君。
「ごめん神薙君。こんな時間に。色々考えたんだけど神薙君しかいなく、て」
全身に力を込めても、声が震えてしまう。
『宮野さん? どうしたの? 何があったの?』
私の声に違和感を持ったのか、いつものんびりしている神薙君の声に緊張が走る。
「今、バイト帰りなんだけど。後つけられてて。今コンビニで、それで――」
『どこのコンビニ? すぐ行くから絶対に出ちゃだめだよ。店員さんに声かけて、なるべく一人にならないで』
できる? という神薙君の問いかけに小さく答えた。
通話を切って、神薙の言う通り店員さんに声を掛けるべくレジへ向かう。心細くなって、スマホを握りしめながら。
「あの、お仕事中にすみません。実は知らない人につけられてて。今知人に迎えに来てもらうのですが……」
そのあとの言葉が出てこない。スマホを握りしめる手が震える。
声を掛けた女性の店員さんは、私の様子をみてすぐに状況を飲み込んだようだ。
「外から見えるといけないので、事務所で待ってましょうか」
店員さんは震えが止まらない私の背中をずっとさすってくれていた。
『~~♪』
スマホが鳴る。液晶には神薙麗佳の文字。
『もしもし、宮野さん。大丈夫? 今着いたよ』
「うん、大丈夫。今、事務所に入れてもらってて」
付き添ってくれていた店員さんが、「私が呼んできますね」と言って出ていった。
まだ、手も口もカタカタ震えている。
「宮野さん!」
神薙君が事務所に飛び込んできた。
震えている私を見て、辛そうに顔を歪める。
「怖かったね。どこか痛いところある?」
神薙君は椅子に座る私に目線を合わせてしゃがんだ。
「ない。大丈、夫」
震えててうまく喋れない。
神薙君は事務所内に誰もいないことを確認して口を開いた。
「あのね、宮野さん。今から大事なことを聞くからね。頷くか、首を振って答えてね」
深く息を吸って神薙君が言った。
「宮野さんは今、病院に行くべきかな」
薄茶の瞳と目が合う。
一瞬の間を置いて、聞かれたことを理解した。そして首を横に振る。
「大丈夫。なにもされてない」
神薙君は私の目を見て、「わかった」と頷いた。
それから、店員さんにお礼を言って神薙君に家まで送ってもらった。
「ありがとう。今日はごめんね」
「宮野さんが謝ることじゃないよ。連絡してくれて、ありがとう。間に合って、良かった」
なぜか泣きそうな顔で、神薙君は大きく息を吐いた。
「じゃあまた月曜日。おやすみなさい、宮野さん」
「おやすみなさい」
神薙君は私が家に入るのを確認してから帰っていった。
その日は疲れ果てて、泥のように眠った。
月曜、大学へ向かう道のり。後ろに誰かいるんじゃないか、金曜の出来事が頭をよぎって午前中の人通りの多い道ですら怖い。
――早く建物の中に入りたい。
大学の構内にたどり着くころには、恐怖がピークに達して眩暈と吐き気に襲われていた。
「おはよ……って椋、真っ青じゃない! 何かあったの?」
気持ち悪くて外のベンチに座っていたら、由芽が慌てて駆け寄って来た。
「おはよう由芽」
「ちょっと待ってて」
由芽は私の様子を見るなり駆け出して行った。
――嫌だ。こんな弱い自分は、嫌だ。何もなかったじゃないか。それなのになんでこんな……。
「はい、これ」
いつの間にか戻ってきた由芽が差し出したのは、私が好んで飲んでいる緑茶だった。自販機で買ってきてくれたのだろう。
「ごめん由芽。ありがとう」
緑茶は温かく、冷え切った指先からじんわりと熱を伝えてくれる。
「何があったか、聞いてもいい?」
由芽は隣に座って、静かに言った。
「金曜日、バイト帰りに知らない人につけられて。コンビニに逃げたけど出るに出られなくなって。神薙君に連絡して迎えに来てもらってどうにかなったけど。あれから外出るの今日が初めてで、ちょっと怖くなったんだ」
由芽は驚いた後、私の頭をくしゃりと撫でた。
「怖かったね。よく大学まで頑張った。椋は強いよ」
由芽は泣いていた。
「由芽、泣いてんじゃん」
照れ隠しにおどけて言うと、
「あんたが泣かないから、代わりに泣いてあげてんのよ」
と言いながら私の髪の毛をわしゃわしゃと撫でた。
代わりに泣いてくれる友達がいる。一人で勝手に強がっても、隣にいてくれる友達がいる。心強いってこのことだな、と思った。
「あ、神薙じゃん。おはよー」
由芽の視線の先には神薙君がこちらを向いて立ち止まっていて、周りの友人たちが不思議そうに神薙を見ていた。
「ごめん、皆先行ってて」
そう断って神薙君はこちらへ歩いてくる。
由芽が泣いているのを見て、状況を察したのだろう。
「おはよう、神薙君。金曜はありがとう」
「ううん、宮野さんも連絡してくれてありがとう」
金曜日、別れる前も言っていた。連絡してくれてありがとうとはどういうことなのだろうか。
「由芽、神薙君も。そろそろ行こう。私のせいで二人とも遅刻になっちゃう」
立ち上がると少しふらついて、由芽が支えてくれた。神薙君は咄嗟に手を伸ばして、すぐに引っ込めた。気を遣わせてしまったな。
「椋、この時間だけでも休んだほうがいいんじゃない?」
由芽がそういうのも無理もない。今の私は生気の抜けた抜け殻状態だ。
「大丈夫。授業、受けたいから」
「ま、あんたならそう言うわよね」
仕方ない、と呆れた溜息を吐いて由芽は笑った。
神薙君は難しそうな顔をして私たちの後に続いた。
講義はどうにか乗り切った。昼食をとるために由芽といつもの空き教室へ向かう。
「本当に、椋の勉強好きには脱帽するわ」
席について弁当を広げる由芽が言った。
「高い学費払ってて勉強も楽しいのに、あんな傍迷惑な知らないやつのせいで不利益被りたくない」
これ以上、邪魔をされるなんて許さない。
「確かにそうね。滅べばいいのに」
由芽が吐き捨てた。同感である。
「宮野さん、ちょっといいかな」
私たちしかいない空き教室に神薙君がやってきた。
「珍しいわね、昼休みは速攻で人に取り囲まれてるのに」
「頑張って巻いてきたんだ」
いつものようにまったりと笑う。
そして、私の前にやってきて、意を決した様子で言った。
「あのね、宮野さん。バイト終わり、迎えに行かせてくれないかなぁ」