6.バイト帰りは要注意
私は学習塾でバイトをしている。これは、幼いころからの憧れからだ。「塾」というもの自体への。うちにはお金がなかったから、塾へ通わせてもらえなかった。妹は成績が危なかったらしく、高校受験のときに通っていたらしいが。私は嫌味なほどに成績が良かった。頭自体は良くないのだろうが、点数だけは取れていた。だからお金がない状況で私が塾へ行くことは許されることではなかったのだ。大学生になって、バイトを探しているときに、あの頃の憧れを昇華できるのではないかと思って応募した。働き始めて一年が経つが、毎日発見と反省ばかりである。
今日は金曜日だから、小学生からか。徒歩での出勤中はイメトレをしている。誰はどの範囲まで終わって次はどこからか。宿題はどの教科のどの範囲をどの教材から出そうか。準備しなきゃいけないものは。採点しなきゃいけないものは。考えることは尽きない。
「こんにちはー」
シフトの40分前には到着して、授業の材料や宿題の準備をする。早すぎかもしれないが、受け持ちの生徒10人分の教材を準備するのはなかなかに時間がかかるのだ。まぁ、私の容量の悪さも否めないが。
「宮野先生こんにちは」
このバイト先の有難いところは、人間関係の良好さである。上司である塾長も教室長も、めちゃくちゃ優しい。この塾の方針が「褒めて伸ばす」だからか、一度も怒られたことがない。
「今日はこの子たちの授業をお願いします」
「わかりました」
時間割を確認して、必要な教材の準備を始める。今日使う分と宿題に出す分のコピー。それが終わったら、前回回収した宿題の採点。生徒が来る前に終わらせておく。
「こんにちはー!」
ドアが勢いよく開いて飛び込んできたのは、この塾生の中で最年少の小学二年生の男の子。
「こんにちはー」
とにかく元気なこの子は、自分の席にランドセルを置くなりマシンガントークを始める。今日学校であったこと、ゲームの話。一生懸命に話す姿が可愛らしい。授業が始まるまでの十分間、彼の話を聞いて、ベルと同時に授業開始。といきたいところなんだが。
「先生おれ自分で曲つくったんだよ。ちょっと聞いててね」
元気が有り余ってて、大抵すぐには始められない。今でこそ授業に注意を持っていくことがそこそこできるようになったが、バイトし始めのころはランドセルから筆箱を取り出してもらうのに十五分かかった。
「今、学校ではどこら辺やってるの?」
目次のコピーを見せながら彼の注意を紙に促す。
「34ページくらい!」
「ここかぁ。もうこんなところまでいってるんだねー。よっしゃ、じゃあ今日はプリント何枚終わらせる?」
この子は学力的にはほとんど問題なく、いわゆる優秀な子である。ただ、まだ二年生というのもあって、自分で勉強モードに切り替えることができないので、ゲーム感覚で、時には私も一緒に問題を解いて勝負形式にしたりする。
「前はおれ何枚終わらせたんだっけ」
「四枚半だね。今日は記録更新を目指そう」
できない、無理、やりたくないモードに入ったらひたすら褒める。褒めて「おれできるじゃん」という気持ちに持っていく、まずは気持ちをつくることから。塾長に教わった通りに生徒たちを褒めていくうちに、人の良いところを見つけるのが前より得意になったと思う。この塾でバイトしててよかったなと、これもまた良縁だと思う。
21時半までの最後のコマが終わり、塾長と教室長に報告を済ませる。
「お疲れ様でしたー」
塾を出るのは大体22時になる。家までは歩いて40分。そこそこ長いが、歩くのは嫌いじゃないから苦でもない。今日のバイトの反省を頭の中でしながら歩く。信号待ちをしていると、後ろに男性が立っている。こちらを見ているような気がして、なんか不気味だ。
――早く帰ろう。
少し速度を上げる。男性は少し離れた距離にはいるがついてきている。
――いや、帰り道が一緒なだけだ。気にしすぎだ。
心臓がうるさくて、指先が冷えていく。
もっと速度を上げ、ほとんど小走りになると、男性の歩くスピードが上がった。
――これ、ついてきてる。どうしよう……。
追いつかれたら、と考えると抑えつけていた恐怖心が湧き出してきた。
――怖い。逃げないと。大通りに出るまであと一キロはある。駄目だ追いつかれる。せめて人がいる場所に行かなければ。あのコンビニまで。
すぐ先のコンビニがひどく遠く感じられる。道向かいのコンビニに入るには横断しなければいけない。信号は赤。
――早く。早く青になれ。
信号を待っている間、男性との距離がだんだん縮まっていく。
――やばい。追いつかれる……!
男性がすぐ後ろに来て手を伸ばすのが視界の端に見えた。その時、信号が変わった。
「……っ!」
すぐさま駆け出した。幸い、コンビニは横断歩道の真ん前にあったので追いつかれる前に中に入ることができた。入口から遠いパンのコーナーまで一直線に進む。
これからどうすればいいのか。家までまだ遠いのに。コンビニを出て、あの人が待ち伏せていたら? 考えろ、考えろ。震える手でスマホを出して、連絡先をスクロールする。
そもそも掛けられる相手がほぼいないことに絶望する。母は今日は飲みに行くって言ってたし、父は当てにならない。由芽は? 駄目だ由芽まで危険にさらせない。
――どうしよう。どうしよう……。
ふと視線にとまったのは、最近登録したばかりの名前。
――でも。迷惑だよな。こんな時間に。
その名前をタップするのは躊躇われた。けれど、いつまでもここにいるわけにもいかない。
申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、震える指先で通話ボタンを押した。