序幕
★不定期更新になる連載作品。タイトルの「月天人」とは造語です。主人公を表す言葉。
◆とある山岳地帯に隔てられた悠久の異郷にて
「うそお!? 辞めちゃうのお!??」
「決心は揺るがぬ。盲目に例えられるほどの行為とは真実だったのだ。友が辛くとも我は行く」
軽薄な高音質の声に対して、黒衣の男が深く落ち着き払った声で応えた。灰色の巻き毛に縁取られた彫り深い端整な顔は、逡巡の跡を眉間に刻みつけつつも、明快な決意に締まって静穏に相手を見返している。
「到達してから一世紀しか経ってないのに……。勿体ないよ……。あとちょっとで天仙になれたのに……。僕だって地仙を抜けてからまだ三十年の短さなんだ……。半端な段階で諦めるのかい?」
「美しい人間と生きるために選んだ道だ……。愛を実らせるためならば、還俗にさえ何の躊躇があろうや」
秀麗さの中に厳めしさを滲ませた眉毛と厚めに膨らんだ唇の突出する容貌には、恥じらうような負の感情は一切浮かんでいなかった。ただただ真剣な覚悟に固められている。
「そんな濃い顔で濃い宣言をされてもねえ……。君は男前だけど、流石に暑苦しくて胃もたれしそうだよ」
「ほほっ。よいではないか。面白い。妾は男が情の営みに生きる様を天上から眺める機会が増えて楽しゅうなるわ」
溜息交じりの呆れた声に対して、軽やかな微笑と共に賛同の意を示した声がある。鈴を震わせるような音程で雅な口調を手繰りながらうっそりと唇を綻ばせる、長い緑髪を双髻(※)にした小柄な女性である。矮躯から少女のようにも見えるが、悟りを極めたように大人びて艶然としている。
軽薄な風の男は、彼が腰掛けている椅子の手前にある帳簿台に行儀悪く頬杖を右肘で突きつつ、洋長椅子の上で猫のように寝そべる彼女を横流しにじと目で軽く睨んだ。
「カミさんはそうやってまた簡単に転身を促す……。かつて絆された僕は、まんまと妖魔を究めるのを諦めたってのに……」
不満を唱えていた男は、自分が喋っている間ずっと弄くり回していた手元の帳簿を合掌するように畳んだ。店舗の経営時間中のアイテムとしている、洒落た絵柄を施した箸ほどの長さを持つ己が鉤爪を頬から側頭部にかけて押し当てながら、吹っ切れたように呟いた。
「まあ、いいさ。逆に言えば、妖魔を諦めた僕は別の高尚な道を切り開いた。だから、君もまた有益となる新たな道を見つけたと考えるなら、大いに結構なことだね」
「有益、無益の物差しではあらぬ。金儲けを好むそなたとて、損得勘定で今の伴侶を選び取ったわけではあるまい?」
黒衣の男が粛々と問い掛けを放つと同時、洋長椅子の美女が帳簿台の男と視線を合わせた。化粧に彩られた切れ長い瞳が、してやったりと言わんばかりにほくそ笑んでいる。
帳簿台の男は、鷹揚とした風情はそのままに、観念したと言うように黒衣の者に向けて言葉を継いだ。
「ははは、お手上げだよ、もう。君はどこまでも堅物だな。そして、そんな君が頼もしかったさ。侘しい感じはするが仕様がない、断固として決めた物事を蒸し返す方が野暮ってもんだろうさ」
そこで一度口を噤むと男は、自らの纏う道服の豊かな裾を翻して、舞台の身振りの如く両手を大きく両脇へ広げ掲げた。瞬間、まるで動作に合わせたようなタイミングで高窓が開いた。緩やかに外側に向ける形で左右へ動き、矩形に切り取られた空が室内と連結される。
ぶわりと花吹雪が舞った。可憐な大群は、大空からの風に運ばれて内部にもたれされ、向き合う者達の合間を過ぎ行く。
「行っておいで……。最後くらい、未練を引っ提げず笑って見送りたいもの。成功の証でも授かったら、必ず知らせておくれ。――それでは友よ、よき春を」
(※)…奈良時代等に見られた女性の髪型の一種。長く伸ばした髪を頭上で二つ輪っか型にしたもの。