スルスルバタン
元ネタは子供の頃、父親に聞かされた怪談話をアレンジいたしました。
それは戦後間もないころの話、戦傷病者が入院している、山の中に建てられた病院。
未明を過ぎた時間、夜勤の看護婦が懐中電灯を片手に、病院を見回り。
静まり返った真夜中の病院の中、カツーンカツーンと廊下を打つ靴の音の他、スルスルバタンスルスルバタンという奇妙な音が聞こえてくるではないか。
あの音は何だろう? 看護婦は奇妙な音が聞こえてくる場所に向かう。
全身を包帯で巻かれた戦傷病者の男が廊下を這いずる、廊下に衣服の布が擦れ、スルスルと音を鳴らす。
力尽き、バタンと倒れるが、再び這いずり廊下を進む、スルスル。
奇妙な音を追って看護婦が辿り着いた場所、そこは輸血用の血液を保管している部屋。
暗闇の中、男が床にうずまって何かをしている。
「あなた、そこで何をしているの」
看護士が懐中電灯の明かりを男に向けた。
そこに映し出されたのは、輸血用の血液を啜っている男の姿。
口元の包帯を血でべっとりと染めた男は看護士を見上げ、こう言った。
「見たな~」
「きゃあああああああっ」
助手席にいた映太の同棲中の恋人、律子が悲鳴を上げた。
「その話、本当か?」
後部座席の親友、貞行が聞いてくる。
「本当の話だと、聞いてはいるよ」
映太はハンドルを握りながら、そう答える。
暇を持て余していた映太、律子、貞行の3人は、話に出てくる山の中の病院に行くことにした、肝試しがてらに。
山中に作られた道路。映太の運転する車以外の車は一台も走っておらず、場所が場所だけに街灯一つなく、ヘッドライトの明かり一つを頼りに進んでいく。
真夜中の時間に、くだんの病院に到着。
月明かりの中に建つ廃墟の病院。壁には植物が絡みつき、全ての窓が割れ、そこにあるのは黒い穴。
先ほどの怪談も手伝い、不気味さを3人に感じさせた。そう言えば、誰もいるはずの無い廃病院の窓全部に、顔が現れ、こちらを見ている――そんな怪談を映太は思い出し、恐怖感が増すが、この時は緊張感と高揚感の方が勝っていた、それは律子と貞行も同じ。
いつまでも突っ立っているわけにもいかないので、
「行こうか」
映太は懐中電灯を右手に持ち、廃墟の病院に入る。
後を続く律子と貞行の口数は少ない。
映太、律子、貞行の3人しかいない廃墟の病院の廊下を歩いて行く。
懐中電灯の明かりに照らし出される床、崩れた漆喰、転がる薬瓶、ラベルが色あせ、名前は読めず。外から飛ばされ来た小枝や枯れ葉が転がる。
閉まったままのドアもあれば、開けばなっしのドアや壊れたドアもあり、ボロボロになった病室が見える。勿論、誰も寝ていない、寝ていれば、それはそれで怖いけど。
あの怪談のように、カツーンカツーンと廊下を歩く3人の足音しか聞こえてこない。
「これでスルスルバタンって聞こえてきたら、怪談そのものね」
「よせよ」
まだ律子も貞行も軽口叩く余裕あり。
静まり返った真夜中の廃墟の病院に、カツーンカツーンと響き渡る足音。
いきなり、映太は歩くのを止めた。
「どうしたの映くん」
話し掛けてきた律子をしーぃと黙らせ、耳を澄ませる。
「何か、変な音が聞こえてくる」
小さな声で言う。
「もう、こんな時に冗談は止めてよ」
最初、場を盛り上げようとして言ったネタと思った律子は突っ込みを入れたが、映太の顔は冗談を言っている顔では無かった。
そこで律子も、恐る恐る耳を澄ましてみる。
静まり返った廃墟の病院の中、微かながらスルスルバタンと音が聞こえてくる。
「!」
スルスルバタンの音は、貞行の耳にも届く。
スルスルバタンスルスルバタン、音は大きくなり、確実にこちらに近づいて来ている!
廊下の先、懐中電灯の明かりの中、全身包帯を巻かれた男が床を這いずりながらこちに向かってきていた。
廊下に衣服の布が擦れ、スルスルと音を鳴らし、力尽きてバタンと倒れ、再び這いずりスルスルと近づいて来る。
包帯だらけの男は1人だけではなかった、病室、廊下、階段、廃墟の病院のあちらこちらから現れ、廊下を這いずり映太たちに向かってきた。中には傷口が開いたのか、血の滲んだいる包帯も。
スルスルバタンスルスルバタン。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
悲鳴を上げ、最初に逃げ出したのは貞行。それに引きずられる形で、映太も律子も逃げ出す。
廃墟の病院の廊下を映太、律子、貞行は走って走って走って走って走って逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げる。
怖くてとても振り返る余裕などないが、どこまで音が追いかけてくる気がしてならない、スルスルバタンスルスルバタンと。
廃墟の病院を飛び出し、スマートキーでロックを解除、一目散に車に飛び乗る3人。
日頃の習慣でこんな時にもシートベルトを装着、車を急発進させる。
映太は無我夢中で車を運転、カーブの多い山の中の道路を事故を起こさず抜け出せたことに、奇跡さえ感じられた。
街の明かりが見えてきたとき、映太も律子も貞行も、これまで感じたことの無いほどの安堵感を得た。
取り敢えずは落ち着くため、たまたま眼に入ったファミリーレストランに入ることにした。
注文したコーヒーの味も解らない気分。
誰一人、何も言わないが何を言いたいのかは解っていた。
“アレは何だったのか”である。
しかし、その答えは誰にも出せなかった……。
廃墟の病院の一夜から、4日後の夜。
同棲している映太と律子。
夜中、何となく目か覚めた映太、となりに寝ているはずの律子の姿が見えない、トイレにでも行っているのか?
そんなことを思っていたら、何か物音が聞こえてきた。
スルスルバタンスルスルバタン。
『そんな、馬鹿な』飛び起きた映太は、しっかりと物音を確かめてみる。
スルスルバタンスルスルバタンスルスルバタンスルスルバタン。
込み上げてくる恐怖、それ以上に込み上げてくるのは律子の安否。
枕元のリモコンを手に取り、電気を灯す。
明るくなる室内、見回せば律子がフローリングの床を這いずり、何かをしている。
律子の手に抱かれているのはペットの室内犬マルチーズ。ぐったりとして、その首筋からはポトリポトリと、床に血が滴り落ちる。
「律子!」
呼びかけられ、振り返った律子、その口元は血でべっとり染めている。
映太を見上げ、女性とは思えない、しわがれた声でこう言った。
「見たな~」
冒頭のスルスルバタンの話、子供の頃にはトラウマになってしまいました。