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メイディとは対照的に、ウィステリア・マリーソワン・クライスはもう自身が辿る運命を悟って静寂の中にいた。
衛生設備のない牢の中では悪臭が立ち込め、また容赦ない隙間風と罵詈雑言が彼女の体を突き刺していたが、彼女は意に介さない様子でただじっと天井を見上げていた。
遠くないうちに自分の魂はこの肉体を離れ、この世ではない何処かへ行くのだろう。
もしも最後の望みを尋ねられたならば、自分でも奇妙なことにあの女と最期に言葉を交わしたいと答えるだろう。幸福を共有する相手よりも不幸を共有できる人間を欲するとき、人は大抵諦めと絶望の中にいる。
彼女は卑猥な言葉を投げかけてくる牢番たちに対して無視を貫いていた。それに腹を立てた牢番が悪態をつきながら床を踏み鳴らす。
「お前みたいなやつは八つ裂きにしてやる、もうすぐ皆が帰ってくる。そうしたらお前はもう終わりさ」
ウィステリアは首を傾げた。
自らの生に対して何の希望も期待もなく、些細な日々の仕事も放棄している人間。
精神の灯は消え、身体の機能にのみ縋ってただ存在しているだけの無気力で空っぽな存在に成り果てた自分はもう終わっているのではなかろうか?
何故彼は生命の灯を消すことだけを死と決めつけているのだろうか?
あれだけ自身を美しく飾ることに執着していたのに、今や身体を清潔にしておくことさえも億劫になってしまった。
何かを頼んでも戻ってくるのは怒鳴り声だけなのだ。それがお湯や石鹸といった、自身の尊厳を守る為に彼女が必要とするものであっても。
自慢にしていた長い巻き毛も牢に入れられる時にばっさりと切られてしまった。それなのに、つい癖で指先に髪を巻き付けようとしてしまう。その時に彼女はふと悲しさを覚えるのであった。
メイディの方がこの点ではずっと強く、しぶとかった。打ちのめされてはいたが、打ち砕かれてはいなかった。
単純な生への執着が全てをおざなりにすることを拒んだのである。
無視されようと嘲りの言葉をかけられようと愛想良く牢番に挨拶をし、粗末な食事をゆっくりと味わって食べ、慣れないながらも寝台を整え、石鹸がなくとも湯を浸したタオルで身体を念入りに拭いた。
その当たり前の行為がどれだけ周囲の目を欺かせられるかを彼女は知っていた。臆病で愚鈍な自分でも宮廷に長くいたのだ、それくらいは心得ていると彼女は自分を奮い立たせた。
まず情報が欲しい。近衛隊はどうなった?義姉は無事に故国にたどり着けただろうか。兄はまだ生きているだろうか。
とにもかくにもここにいる時間を無駄には出来ない。例え何の成果もあげられなかったとしても、もがくことを諦めてはいけない。
そう決めて一週間が経った。相変わらず牢番の態度は変わらなかった。挨拶は無視され、頼み事はことごとく却下された。しかし、その中にはあえて粗暴な振る舞いをしている者もいるのではないかと彼女は疑い始めていた。
小間使い達のように同情的な視線を向ける者はいないが、注意深く思いやりを示す者たちがいることに気が付いたのだ。
例えばロジャンと呼ばれている男は大衆小説のあらすじを大きな声で長々と仲間に聞かせる。最初は気にもしていなかったが、話すときにちらちらとこちらを見るのである。
延々と続く退屈を紛らわそうとしてくれているのだろうか?
また、名前はわからなかったが一人の牢番は彼女が臭うと鼻をつまんだ。メイディは真っ赤になって俯いたが、それから石鹸が差し入れられるようになった。
また、皆が酷い臭いに参っているからという理由で安物の香水を一瓶貰うことが出来た。
これは非常に有難かった。彼女も参っていたからだ。
無論、これらの行為を自分への好意だと判断するのには注意が必要だ。相手を侮辱する為にわざと親切に振る舞う残忍な者達もいる。相手が示す喜びや悲しみ、怒りを娯楽として消費する者達だ。
こういった人々に気をつけねばならないということは経験から学んでいる。誰かを陥れる為ならば労力を惜しまないのだ。親切は疑わねばならない。
「嫌な人間になった。宮廷に入ってから私は本当に嫌な人間になった!」
彼女が嘆いて声を上げると牢番が一斉にこちらを見た。彼女はその視線に気が付いて、思わずだらしない笑いを浮かべた。静寂が辛かった。
一方、ジャネット・ワトスンは嫌な仕事に出かけねばならなかった。あの女に死刑を言い渡すのだ。ジャネットはウィステリアを含む王家の面々に嫌悪感を抱いていたが、血を好む残酷な殺戮者ではなかった。だから喜々として彼女に死を告げる気にはならなかったのだ。その判決が当然のものだとはしても。
「何日後?」
「一か月後だ」
「そう、結構先なのね」
ジャネットはこの言葉に眉を顰めた。まだ怒りや悲しみをぶちまけて騒いでくれた方がましだ。その方がずっといい。ジャネットはまるで自分が死刑判決を告げられた罪人であるかのようにその場で石のように固まってしまった。
しかし、ウィステリアはそんなことはお構いなしに言葉を続ける。
「いくつか頼みがあるのだけれど」
「言ってみろ」
「まず教えて欲しい。私の処刑とあの人の処刑はどちらが先なの。元国王陛下と私」
「私の口からは言えない。それが決まりだ。でも、そんなことを聞いてどうする?」
ウィステリアが遠慮がちに微笑んだ。頬はこけ、顔は汚れ放題で髪は脂でべっとりと額に張り付いていたが、彼女の持って生まれた美しさはこの酷い環境をもってしても奪えなかったらしい。濃い青い瞳が僅かながらに煌めいた。
「あの人は私がいないと生きていけないだろうから」
愚かで憎むべき特権階級の怪物共が自分達と同じ人間であることを突き付けられる度にジャネットの胸はざわざわする。自分達が殺すのは同じ色の血を持つ人間たちなのだ。
そしてこいつらが踏みつけにしてきた民衆たちも。
「最後まで安っぽい台詞を吐く女だ。他の望みを聞こうか」
「お風呂に入りたい。後はそうね、紙とペンが欲しい。そして手紙を検閲なしに私が望む人の元へ届けてほしい」
「約束はできないが、交渉してみよう」
ジャネットは牢を出るなり激しい苦痛に苛まれた。こんなに嫌な仕事はないと思った。あの女が処刑台に上がるときには他の者たちと同じように憎悪の目を向け、罵声を浴びせるだろう。
しかし、今の自分は素面なのだ。熱狂の渦の中にいる時の奇妙な高揚感はない。
彼女の死を望んでいた筈なのにずしんと罪の意識がのしかかってくるのはなぜだろう?
「ああ、そうか。共犯者が見えないからだな」
彼女は足元に転がっていた小石を思い切り蹴飛ばしながらそう独語した。




