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次の日、起床の儀で明らかにエッジワース伯は疲労を見せていた。エッジワース伯妃はあえて何も言わなかった。
―好きにすればいい。私も貴方と寝るのはごめんよ。
そう自分に言い聞かせながら彼女は部屋に戻った。オパールのことは口にしないことにした。そんなことをすれば私もあの女と同じになる、と考えたのだった。
彼女は午前中、散歩と読書をして余計なことを考えないように努めた。
昼食が終わった後にシャール・バルテが訪ねてきたとき、彼女はまず謝罪の言葉を口にした。
「突然お呼びたてしてしまい、すみませんでした」
「いえ、私こそすぐに伺えず申し訳ありませんでした。どうなさいましたか?」
彼はあの日以来、エッジワース伯妃と会ってはいなかった。今日の彼女は酔ってはいないが、苦しそうな表情は同じだった。勿論、酒を飲みすぎて苦しかったのと違う類の苦しさだと当然彼もわかってはいたが。
「夫が……」
それだけ言って彼女は目を伏せた。自分の都合で呼び立てた癖に、話さないのは失礼だ。そう思って彼女は声を上ずらせながらも必死で話そうとした。
「大丈夫ですよ。ゆっくりお話しになってください」
シャール・バルテは優しく言った。彼女が事あるごとに自分を呼び立てて愚痴をまき散らすような人間であったならば、彼もこんな言葉をかけずに適当な言い訳を述べ立ててさっさと部屋をあとにしたであろう。
しかし、エッジワース伯妃も流石にそこは弁えていた。例え自分の友人であっても侍従であっても、いい大人がそうむやみやたらに自分の都合で人を呼び立てるものではない。
まして彼は自分の友人でも侍従でもない近衛兵なのだから尚更だ。
それに、自分が呼んだことで彼にあらぬ噂が立てられても困るからだ。
「私は別に豪奢な宴が羨ましかったわけではなかったの……でも、夫がわざとではないかと思う時があるのです。こうして私を惨めにさせて、あの人と楽しむつもりではないか、と」
「妃殿下、失礼ながら申し上げますと、私は貴方ともご夫君とも親しくはありません。だから、本当のことはわかりません」
シャール・バルテは彼女の疑いに対して、安易に同調はしなかった。単純にエッジワース伯は妾の心を繋ぎとめる為にあの馬鹿馬鹿しい派手な宴会を開いたのだろう、そう思っていたからだ。
「妃殿下、皆がご夫君の振る舞いを目に余ると言いながら、本気で諫めないのは何故だと思いますか?」
「夫を怒らせると面倒だからじゃないかしら。あれでも一応第二王子だもの」
「そうです。その方が皆の都合がよいからです。貴方に苦しみを背負わせる方が」
部屋の隅にいる女官たちに聞こえているにも関わらず、彼は言い切った。
「貴方のお兄様は心から貴方を愛してらっしゃる。それでも、愛だけではどうにもならない立場というものがお兄様にもあります。妃殿下、貴方の勇気は今までご自分を律することに対して多く注がれていました。それが限界にきて苦しいのであれば、決断する勇気をお持ちください」
「決断する勇気」
彼女はぽつりと繰り返した。それは夫と別れることだろうか、それとも妥協の道を選ぶことだろうか、あの女を宮殿から追い出すことだろうか。それならば全て試みて失敗してきた。私にこれ以上何を決断する勇気を持てというのだろう。
「怒ってもいい、泣いて拗ねてもいい。ご自分の気持ちをご夫君だけでなく周りにも伝えてみてください。今までずっと遠慮していたのでしょう。ご自分の感情をさらけ出すことを決めるのも勇気がいりますから」
彼女は顔を上げた。シャール・バルテの言葉を聞いていたら、今までせき止めていた感情がわっと押し寄せてきて、震えながら彼女は言った。
「どうして皆クロエルドのことは責めないの?私には皆我慢しなさいと言ったり、同情したり慰めたりするのに、その原因である夫には何も言わないの?王妃様が我慢しているから私もしなければならないの?義務のことはわかってる、王家の人間として恩恵を受けているから、それはわかってる」
彼女はしゃくりあげながら続けた。もうシャール・バルテに呆れられても女官に咎められても良かった。
「私だけが悪いんじゃない。子供じみた意地を張り続けたのは私、それでも気づいて欲しかった。夫にも、皆にも。どうしてこんな意地を張ってしまうのか。あの女が憎らしい。せめて一年、二人だけの暮らしが欲しかったの」
彼女はわんわんと泣いた。こんなに人目を憚らず泣くのは久しぶりだった。熱いものが胸でつかえてせき込み、苦しくなって女官に背中をさすられても収まらなかった。
二枚目のハンカチも涙で重くなった頃に、ようやく彼女は落ち着きを取り戻した。
「お見苦しいところを見せてしまって……ごめんなさい」
彼女はふうふう言いながら皆に謝罪した。こんなに取り乱してしまって、仮にも第二王子の妃が恥ずかしい。彼女はそう思ってまともに彼の顔も女官の顔も見ることが出来なかった。
「こうあらねばと思うほど、自分の本当の気持ちから離れていくものです。我々は感情のままに生きることは出来ないけれど、感情を失くすことも出来ないから。妃殿下は今まで我慢しすぎていたのでしょう」
エッジワース伯妃は、最近は夫に対しての当たりを強くしていたことや、王妃への反抗については黙っておくことにして頷いた。
「私、お兄様や王太子様の立場を慮っているつもりで、何も言わないで、勝手に不満を募らせていたわ。浅はかだった」
ぶちまけて初めて冷静になれることもある。
彼女は背中を丸めて三枚目のハンカチで口を覆った。
その姿は、成熟した女性というよりもまだ少女の面影を引きずっていた。
それを見て、シャール・バルテは考えた。彼女はきっと、我儘で、そのくせ繊細で、それでいて孤独を嫌う少しひねくれた少女だったのだろう。しかしその一方で素直さとひたむきさも併せ持っている。
矛盾にも見えるが、人は成長に伴って自分の善い部分を恥じたり、悪い部分をひけらかしたりする。
そして更に時が流れると、今度は分別で、自分の欠点が存在するにも関わらず覆い隠そうとしてしまう。久々に彼女は何も余計なことを考えずにこんなにぶちまけたのだろう、エッジワース伯妃ではない、メイディ・ロッド嬢がシャール・バルテの前にいた。
「シャール・バルテ、またいつかお話してくれる?私、今度はもっと楽しいお話が出来るようにするわ。上手くいくかはわからないけれど。その時は突然呼び立てたりしない、何か行事の時にでも……」
「ええ。また」
遠慮がちにそう話すエッジワース伯妃に笑いかけながら彼は立ち上がった。彼女と話をするのは嫌ではないが、あまり長居して、周りに勘違いされると困る。女官たちはいたが、部屋の扉は閉められていた。
「あの、良ければ、貴方、私のお友達になってくれる?」
「私が?」
彼は不思議な心持がした。彼も貴族の出ではあったが、バルテ家の家格はロッド家とも王家とも遠く隔たりがあった。その証拠に、彼が近衛兵に合格するまで、バルテ家の中で宮殿に上がる者はいなかった。
田舎貴族のバルテ家出身の自分が彼女とその兄に友達になってくれと頼まれるなど、ほんの一年前まで予想もしなかった。
「ええ、私で宜しければ貴方のお友達に……」
彼が優しく言ったので、エッジワース伯妃はようやく笑顔を見せて、彼を扉の前まで見送った。




