34
子供だましの手だとは思った。
しかし、彼を弁護してやるならば、あの卑しい女しか知らぬから本能に訴えるご機嫌取りしか出来なかったのであろう。
ここはひとつ自分が大人になって寛大に見てやろう。
そう決めて、エッジワース伯妃は夫の腕を掴みながら舗装されていない田舎道を注意深く進んだ。
彼女が何度か足の裏に鈍い痛みを感じた後、湖が見え始めた。
更に近づくと、凪いだ水面に青々として木々の葉が映っているのが見え、その葉を水鳥が揺らしていた。
「あひるがいるわ」
「白鳥ではないのか」
「いいえ、あの首とくちばしはあひるよ。私、飼っていたからわかるわ」
「飼っていたのか?」
エッジワース伯は彼女の日常や昔話といった細々したことに関心を持とうともしていなかった自分に気が付いた。
「兄がね、私の九歳の誕生日にくれたの。いきなり雛を抱いて出てきて、誕生日おめでとうって言いながら渡したのよ」
「何でセリルはあひるなんて渡したんだ?」
すると彼女は唇をちょっと突き出し、拗ねた表情を浮かべて言った。
「口元と足が短いのが似てるから、親近感が湧くだろうって」
エッジワース伯はそれを聞いてけらけら笑った。
たしかに彼女は元々口角が上がり気味で、唇が僅かに突き出ている。今はわざと突き出しているから余計に似て見えてしまう。
「父も父よね、兄の提案に乗ったのだから。でも私が確かに飼いたいって言ってたのよ」
そう話しながら、よたよたと歩く妻にエッジワース伯は目をやった。
「もっと強く掴んでも良いから、転ぶなよ」
湖のほとりに下りると、春の陽射しが一層柔らかに降り注いだ。
そこに簡易テーブルと椅子を置いてもらい、ピクニック・バスケットを開いた。
エッジワース伯妃は自分でパンをちぎり、その上にスプーンで黒スグリのジャムを落とした。
一方、エッジワース伯は少し戸惑っていたが、やがて彼女と同じようにパンを手でちぎってラズベリージャムを塗った。
その時突然、彼の脳裏に懐かしい記憶が蘇った。
「なぁ、雨の昼餐会を覚えているか?」
「あら、あれを忘れることなんてできないわ」
彼女はくすくす笑いながらパンを置いた。
「あの日の損害額は甚大でしたわ、殿下」
「メイディは、あれが初めての昼餐会だったのか?」
「二回目でした」
紅葉が色づき始める頃に、国王夫妻は貴族たちを招いて宮殿の庭で昼餐会を行う。
ロッド家は毎年招待を受けていたが、十歳に満たない子供は出席できない決まりなので、それまではセリルも彼女も留守番だった。
そして彼女にとっては二回目の、十一歳の時に出席した昼餐会で事件は起こった。
開始されて一時間ほど経ったあとに、それまで晴れていたにも係わらず突然強い雨が襲ってきたのである。
その日は皆、一等良い服でやって来るので大混乱になってしまった。
エッジワース伯妃も母に腕を引っ張られて宮殿の広間へ逃げ込んだことを覚えている。
「俺も忘れられない。兄上より早く宮殿に行こうとして転んだおかげで新しく誂えられた上着を駄目にした」
「私は少し喜んだわ。母が選んだ、ぞっとするほど趣味の悪いドレスを当分着なくていいのだと」
彼女は珍しく意地の悪い笑みを浮かべながらそのドレスの醜悪さを説明した。
鮮やかな檸檬色は良かった。だが、襞の中から覗く濃い鉄錆色を見た瞬間、このドレスを着ることを断固拒否したらしい。
せめて鉄錆色だけのドレスだったならば許せたものを、檸檬の黄色に鉄錆色とは今思い出してもぞっとする。しかし、母には逆らえず、結局赤く腫れた目で当日を迎えたのだ、と。
「良く言えば向日葵の色といえなくもないぞ」
「何と言われても、もう二度とごめんだわ」
「単にお前の好みではなかったという話だろう?」
「本当に嫌だったのよ」
彼女は強く目を閉じて唇を噛んだ。
その表情を見て、そんなに嫌われるドレスを却って見たくなってきた、と彼が大きく笑うので彼女もつられて笑い出した。
二人はその時、幼友達のメイディとクロエルドに戻って無邪気な声を響かせた。




