3
次の日、部屋の行き来が許される時間になると、王妃はすぐに近衛隊長の元に行った。
近衛隊長は王妃を見るとにっこり笑って出迎えた。彼は王より年上で三十六歳だったがどちらかと言えば童顔で、それが彼の持つ厳格な雰囲気を些か和らげていた。
王妃は彼の褐色の髪と瞳が好きだった。優しい色だと王妃はいつも思っていた。皆が美しいと称賛する王の目は切れ長で涼しい瞼、瞳の色は黒く、睫毛は長い。
しかし王妃はそんな整った夫の目より、丸く子供のように爛爛とした彼の目が好きだった。そして額にかかる瞳と同じ色の彼の髪も彼女は非常に気に入っていた。
屈託のない彼の雰囲気に非常に似合っているような気がするからだ。
もしも彼の髪がセリルのような輝くばかりの金髪や、ソレイユ夫人の燃えるような赤毛、また王のような銀鼠色の髪であったならば彼の幼さを残した瞳にはどこかちぐはぐであったに違いない。
王妃は勧められるままに椅子に腰かけた。机には読みかけの本が置かれていた。
「まるで、連休をいただいたかのようにゆったりと時間が過ぎていますよ」
シャールは皮肉か正直な感想なのかわからない口調で言った。そして立ったまま、盆に載せられていたクッキーを一つ摘まんだ。彼は甘いものには目がない。
王妃もクッキーを齧った。真ん中に飾られたストロベリィジャムが砂糖の塊のように思えた。咀嚼するたびに喉に甘さが纏わりつく。
「王妃様、自分の生まれ育った屋敷は此処よりもっと田舎でした」
いきなり彼はそう言いだした。王妃は紅茶を飲んでいる最中だった。しかし構わず彼は話を続けた。
「子供が遊ぶといえば外に出るよりほかないような田舎です。小洒落た玩具なんてなかなか手に入りませんからね。庭に出れば野兎やイタチなんかが顔を出しました。よく捕まえて飼ってやろうと追っかけたりしたもんです」
「捕まった?」
「いいえ、すばしっこくてなかなか追いつけない。そしてすぐに穴ぐらなんかに逃げてしまうんです。それに姉たちが可哀想だからやめてやれとうるさかったから七つくらいになるとやめましたしね」
「お姉さまがいたの」
「ええ。私は六人兄弟なのですよ。上に姉が二人と兄が一人。下に弟が二人。でもその内二番目の姉は八歳で、五番目の弟は二歳の頃に死にました」
彼は淡々と言った。王妃が自分に同情する隙を与えるまいとするような言い草だった。
そして彼は、またクッキーを掴むと口に放り込んだ。
「私、宜しければあなたのお家、いつか見てみたいわ」
「いつかご覧にいれましょう」
シャールは優しい声で王妃に返事をしながら、もう生きて帰ることは叶わないかもしれない我が家を思った。
「あんたは兄上と同じ考えなんだろう」
「ええ、大方は」
一方その頃、ソレイユ夫人は王と向かい合って座っていた。
夫人がこの気位の高い義弟と話すのは久々のことだった。そもそも自分の良人が生きていたころでさえ、あまり言葉を交わさなかった。
良人と弟はあまり仲が良くなかった。それは一重に気質の違いだろう。良人は内気で優しく、弟の方は活発で鼻っ柱が強い。
自然と皆の視線は弟の方に注がれた。皆、心の底で、兄弟の順が逆であったならと考えたものだった。
つまり弟の方が王太子であったならばと!そして十数年後に不幸によってその願いが叶うと誰が考えたであろうか……
「兄上は、優しかった」
「ええ」
「さぁ、本来の性分が優しかったのか、己の保身を考えた上での優しさか」
王がそこまで言った時に、ソレイユ夫人が突然立ち上がった。夫人は義弟に軽蔑するようなまなざしを向けて言い放った。
「貴方の兄上は立派でしたわ。兄上は」
夫人は冷たく言い放つと、くるりと背を向けて部屋を出た。王は舌打ちしてコーヒーを啜った。酷く苦い味がした。
「王妃は?」
「近衛隊長のところに」
「ロッドは?」
「ご夫妻で部屋におられますが」
自分から監視兵に尋ねてみたものの、ますます不愉快な気持ちになった。こんなに時間を持て余すのは生まれて初めてだ。
職務もなければ、宮廷儀式も、華やかな晩餐会や舞踏会もない。苛々としながら立ち上がり、今度は近衛隊長の部屋を訪ねた。今は何となく、一人でいる気にもなれなかった。
そうなると、この暇から抜け出すには誰かに会って話すより他ないのだ。
王が部屋をのぞくと、王妃が近衛隊長に自らの子供時代の思い出を熱っぽく話している最中だった。
「それで、兄様と私はよく屋敷でかくれんぼして、物置部屋に入り込んだときにはランプやら花瓶やらをひっくり返して大騒ぎ……」
「随分と楽しそうだな」
「まぁ、陛下」
王妃が驚いて声を上げた。近衛隊長は立ちあがって王に椅子を勧めた。彼は無言でシャールの差し出した椅子に座った。
王妃は明らかに困惑した表情を浮かべていた。今迄自分のしていた楽しい話が打ち切られて残念そうにも見えた。
シャールも何を言って良いのか戸惑っているようだった。沈黙が場を支配した。数分してから、口を開いたのは王妃だった。
「あの、今迄私の子供の頃の話をしていたのです。遠い日を懐かしく思い出して感慨にふけるなんて私も年かしら」
「バルテ」
場を取り繕うように言った王妃の言葉を無視して王はシャールに話しかけた。彼は眉を顰めたが、王君は構わず言った。
「お前となら、随分王妃はお喋りだな」
シャールは呆気にとられた。普段から王妃を避けて会話をしないのは彼の方だ。そして今もまさにそうではないか。
「王妃様は、陛下とお話されたいと常日頃からお考えになっていますよ」
やっとのことで彼は言葉を絞り出した。
彼は怒りで震えていた。王妃様の何が憎くてこの男はこんなに辛くあたるのだ?愛妾と引き離されたからか?
しかしそんなことは王妃様のせいではないというのに。
「俺と王妃に共通の話題がないのが原因かもしれないね」
王はせせら笑った。シャールはこの男が国王でなかったならば、頬を張り飛ばしていただろう。
一方、王妃は慣れた顔つきで座っていた。夫が自分を良く思っていないことなどわかりきった事実であり、むしろ打って変って優しくされる方が気味悪いとさえ思っていた。
「ええ、そうかもしれませんね。だから陛下とあまり話せない分、兄やシャールやソレイユ夫人を前にすると、私、お喋りになるのですわ。貴方があの女以外と楽しくおしゃべりに興じたことがございまして?」
それを聞いた瞬間、王は王妃を打とうとした。咄嗟にシャールは王妃を庇ったが、すんでのところで思い留まったらしい。
監視兵たちは何事かと思ったのか、その場に居合わせなかった者たちも部屋を覗いてきていた。
シャールは一層王への怒りを露わにした。
王はその夜、王妃を気味悪がせることはしなかったが、誓って暴力だけは振るわないと宣言するとすぐに寝入ってしまった。