蝉時雨
正午。片方に広がる畑と民家。もう片方を道なりに続く土手が壁のように視界を遮る、よくある田舎道。もくもくと空へと伸びる入道雲を見上げながら、頬を伝う汗を手の甲で拭う。
盆を過ぎ、残暑の残る八月も半ば。俺は都心に程近い下宿先から、新幹線で半日も掛かる田舎へと帰郷した。去年は結局一度も帰らなかったから、実に一年半ぶりの帰省となる。
一年半。去年帰らなかった理由は……別に無い。何も無い田舎町よりは、まあ、あっちの方が自分の性に合っていた。というだけの話。
……いや。本当は、単に帰りたくなかっただけだ。
この町に……というよりも、多分この町に居るであろう、一人の少女に、会いたくなかったから。
だから、去年は帰らなかった。帰る勇気が無かった。こっちに帰ってきたら、どうしてもアイツに会わざるをえない。あの日何も言えなかった俺に、アイツに会う資格なんて、きっと、無い。
それが理由。我ながらどうしようもないヘタレではあるのだけれど、だけどやっぱりどうしようもなくて。
「熱いな……くそ」
土手沿いの道を歩きながら、再び垂れる汗を拭う。都会の夏は暑いと言うが、結局夏なら何処に居ても熱い。多少の温度差はあるだろうが、三十度を越えるなら、体感的にはさして変わりはない。
視界の先は陽炎で揺れている。真上からの日光は容赦無く肌を焼いていく。おまけに耳には、蝉時雨。有名な俳諧さまが、閑かだの岩に染み入るだのと唄ったが、この大合唱の何処が静かなんだと言ってやりたい。
少し濁ったような、濁音混じりの音の連鎖は、ただでさえ滅入りそうな俺の体感温度を更に上げていく。
何も無い町。休む間もなく鳴き続ける蝉の声。もう少し休めばいいのに。蝉が鳴くのは、雌の気を引く為らしいが、だとしたらがっつき過ぎだろう。幾ら七日間の命とはいえ。
別に良いじゃんか。人生なんて何も残せない事の方が多い。長い少年期を与えられた所で、何も見つけられない――そもそも、何も持っていないなら、それは脱皮した所で同じことだ。
我が人生は無価値なり。土の下で冴えない輩は、空に上がっても同じ事。丁度、今年成人を迎えた俺が、大人になったからと言って、何が変わったわけではないように。
人間は、脱皮して劇的に変わる事なんて、無い。
アイツみたいに、はじめから、光るような何かを。自分という存在を表わす何かを持っていないのなら、そいつは結局、曖昧なまま成長して、曖昧なまま死んでいく。
人生なんて――そういうもんだろう。
「あっつ……」
空を仰ぐ。
入道雲が浮かぶ青空。遮るものが無い田舎の空は、何処までも続いている。
何処までも続いているが――何処にも行けない、自分。
だって、知っていたのだ。広い空へと昇る前から、その美しい羽の輪郭を見せていたアイツを、俺はずっと見ていたんだから。
……そう。ずっと。ずっと、その隣で見つめ続けて。
俺に空は飛べないと、土を出る前から、思い知らされていた。
「――――」
――不意に。
綺麗な旋律が、聴こえた。
蝉の合唱に混じって聞こえる、透明な歌声。
その声は、本当に微かで、儚く、今にも消え入りそうで――多分、普通だったら空耳だと思うくらいに小さい声で。
視線を降ろす。入道雲よりも下。だけど俺はよりはずっと上。片手に続く土手の上で、そいつは、俺に背を向けるようにして立っていた。
「――あ」
白いパーカーに、ベージュ色のハーフパンツとサンダル。
飾り気のない服装は、一年半経っても変わらない。ただ、髪型だけは、最後に記憶していたようなショートでは無く、首筋までのセミロングになっている。
……人違いだと、思った。
何しろこの距離だ。おまけに後姿だけ。服装や背丈が似ているだけで、全くの人違いという可能性もある。むしろ、その可能性の方が高い。
――人違いだと、思いたかった。
……それでも、俺には分かる。分かってしまう。
だって、ずっと聞き続けていたから。アイツの隣で、ずっと、見せつけられていたから。
この歌声は――
「みつ――き?」
呟いた声は、蝉の声に紛れて何処にも届かない。ましてや、土手の上に居るアイツの所になんて、届く筈もない。
――なのに。
アイツは、風で靡く髪を抑えながらゆっくりと振り返ると、その場に立ちつくす俺の方を向く。
何も無い田舎町。見上げる俺と見下ろす彼女。目があう――あった気がした。距離があるから分からない。アイツの口が動く。勿論、その声は聞こえない――でも、その唇は、
「――明人?」
確かに俺の名を、呼んだ気がした。
『蝉時雨』
俺の幼なじみの事を、少しだけ紹介したいと思う。
名前は宮坂美月。俺よりも一つ年下で、今は確か十八歳。二件隣のお宅の一人娘で、俺とはそれこそ生まれた時からの付き合いだ。
身長は平均より少し高いくらい。スレンダーな体系をしていて、吊り目がちな瞳と中性的な顔立ち。短い髪と、ボーイッシュな容姿が魅力的な少女。
学校の成績もそれなりに良く、クールな容姿の割に気さくで洒落の分かる、付き合いやすい性格。
そんな彼女を、更に魅力的に見せたのは、歌だった。
子供の頃から歌うのが好きだった美月。小学生の頃、習い事でピアノを習った時にでも目覚めたのか、中学生になると近くの幼なじみ――俺だけど――が一カ月で放りだしたギターを勝手に持ち出し、またもや勝手に弾きはじめた。
元々歌の素質があった所に、ひとつの事に熱中すると他に目が行かなくなる性格も後押しして、美月の技術はぐんぐん上昇。中学の文化祭ではライブで学校を盛り上げ、高校生になるとライブハウスに出入りしたり、駅前でストリートライブなんてやり始める。
こんな田舎でそんな事する奴は珍しく。おまけにそいつがプロ顔負けの歌唱力を持っているってんで、一時期はローカルテレビが取材に来るくらい、地元ではちょっとした有名人だった。
……それが、俺がこの町を出る直前の話。それから一年半、俺はコイツが何をしていたのか、知らない。
最後にコイツと交わした会話では、テレビ局の全面バックアップの下、メジャーデビューを目指して頑張る。という話だったのだけど……。
「なにボーっとしてんの?」
ぼんやり思考を巡らせていると、隣を歩いていた美月が、ひょこりと俺の顔を覗き込んでくる。
「んや。なんでもない。つうか、ちゃんと前見て歩け」
首を振ってこたえると、美月は不思議そうに首を傾げて、再び前を向いた。
土手沿いの道を、さっきまで俺が向かっていた方向とは逆方向に二人並んで歩いていく。
「帰ったきたなら、すぐに言ってくれたらよかったのに。いつの間に戻ってたの?」
「何でお前に言わにゃならん。……昨日の夜中。新幹線で半日。で、昼まで爆睡ってとこ」
なるほどと呟いて頷く美月。さして興味が無いのか、相変わらず無表情なままだ。
「……相変わらず淡泊ですね」
「え? 何か言った?」
わざとなのか、それとも素なのか。美月はこちらを向いて首を傾げる。
「クールビューティーだねって言ったんだよ」
「……ビューティーだけ聞きとれた」
随分と都合の良い耳をお持ちなようで。以前からそうだったが、どうやらこういうとぼけた所は相変わらず……というよりも悪化しているようだ。こいつ、これでやっていけるのだろうか。お兄さんちょっと心配。
やれやれと首を振ると、美月は眉根を寄せると不満そうな顔で俺を睨んだ。
「……なに?」
「なんでもない――ところで、どうして明人があんな所に居たのさ?あの先、別に何もないと思うけど」
「あー。お前んとこのおばさんに頼まれたんだよ。どうせ娘がその辺ほっつき歩いてるだろうから、捕まえて連れ帰ってくれって」
帰って早々、挨拶もそこそこにそんな命令を余所の息子に出す辺り、相変わらず押しの強いおばさんだった。
「……というか、聞きたいのはこっちのほうだ。お前、あんなとこで何やってたんだよ」
こいつがさっき言った通り、土手沿いを歩いて行った所で別に何があるわけでもない。そのまま延々と歩き続ければ、その内河口に辿り着くが、だからといってそれだけだ。
なので、結構半信半疑だった分、本当にコイツがいた時にはちょっとだけ驚いた。
「……別に。散歩してただけだよ。あんまり理由なんてない」
さっきまでと同じ淡泊な。でも、ちょっとだけ拗ねたような声色で呟く美月。
「散歩するにしても、どうせなら町の方に行けばいいのに。何でわざわざ何も無い方に行くんだお前は」
普段通りの言葉を返しつつも、美月の唇を尖らせた顔なんて、俺くらいしか見たことが無いんじゃないか。とか、どうでも良い事を考えた。
「だって、街中ってうるさいじゃん」
「……そうかぁ?」
お前のギターの方がうるさい。とは言わなかった。
でも、対して車が通っているわけでもなく、喧しい店があるわけでもない、この田舎町は、そこまでやかましいだろうか。寧ろ町を外れたところの方が、蝉の合唱が延々と鳴り続けていて耳障りだと思うのだが。
「良いじゃん。別にアタシはこっちの方が落ち付けんの。そんだけ」
「さいですか」
まあ確かに、一人になれるという点では、知り合いと出会う確率の高い市街よりも殆ど人が来ない町外れの方が最適かもしれない。狭い町だし。ただでさえ美月は有名人だし。
思う所が無い訳じゃ無かったが、結局何も言わずに、俺は肩をすくめるに留めた。
「あ」
そうしてしばらく道なりに歩いていると、不意に美月が声を上げる。
「なんぞ」
「もう着いちゃった」
視線を美月から、前に向ける。そこには、勝手知ったる美月の実家。そこから二軒ほど先に、もはや感慨すら湧かない我が家が建っている。
俺の隣を歩いていた美月が、大股に二三歩前に出る。そして、勢いを付けて俺に振りかえった。
「んじゃ、アタシはもう帰るね」
「おう。寄り道すんなよ」
俺の軽口に、美月は「アホか」と笑いながら応えると、踵を返して家の敷居を跨いで行った。それを見送ってから、俺も踵を返して家へと向かう。
「……ふう」
実家まで残り数メートル。距離とも言えない距離を歩きながら、俺はため息を吐く。
「……案外、普通に話せたな」
それが、我ながら意外だった。
結局アイツとは、あの日から今日まで、全く会話をしていなかった。俺から連絡を取ることは無かったし、家を出てから初めの頃は良く届いていたメールも、無視を続けていたらその内届かなくなった。
「怒ってると思ったんだけどねぇ……」
或いは、怒っていて欲しかったのか。だけども、幸か不幸か、再開したアイツは、今まで通りで。本当に何時もどおりで。……まるで、あの日の事なんて無かったみたいに。
「……まったく。どうなるやら」
玄関の前に立ち、改めてため息を吐く。
……そもそも、美月と会うつもりなんて無かったんだ。俺よりも一つ年下の美月は、今年の春に高校を卒業している。普通ならば進学か、就職か、もしくはあの日言っていたように、夢を追って歌い続けていた筈で。どの道を選んだにせよ、俺なんかよりもよっぽど要領の良い美月なら、進学したとしても都会の良い大学を狙えたし。夢を追ったなら尚更、こんな田舎町にとどまることなく、外に飛び出していた筈だ。
で、だからこそ、今年は田舎に帰っても、美月と顔を会わせないで済むかもしれないなんて、変に楽観的な希望を持っていた。
それが、一体どうして、こんな事になってしまったのか。
……やっぱり、帰って来たのは失敗だったのかもしれない。そんな気持ちを抱きつつ、俺は扉を開いた。
♪
「あ」
「うわ……」
こっちに帰ってから数日後。久々に町でもまわってみようかと自転車なんて持ち出して外に出た所、丁度家の前を歩いている美月とはち合わせた。
「そんな、あからさまに嫌な顔なんてしないでよ。傷付くなぁ」
「……悪い」
顔を顰める美月に、俺は視線を逸らして答える。
マズった。ここ数日、なるべく顔を会わせないようにしていたのに。
美月は、暫くの間ジト目で俺を睨んでいたが、視線を俺の顔から自転車へと落とすと、口を開いた。
「……どっか行くの?」
「おう。ちょっと本屋まで行こうと思って……お前は、また散歩か?」
「うん。まあね」
頷く美月の服装は前に見た時とあまり変わらず、荷物も抱えていない。何処かに用事があるわけでもなく、本当にただの散歩なのだろう。
「……お前、そんなに散歩好きだったっけ?」
俺の記憶では、そんな暇があるなら歌うかギターの練習をしているような奴だと思っていたが。何時の間にそんなおばあちゃんみたいな趣味を獲得したのだろう。
「……まあいいや。じゃあな。俺はこっちだから」
「うん」
美月と言葉を交わし、そのまますれ違った。ちょっと歩いてから自転車にまたがり、いざこぎ出そうとした途端、自転車が軽く軋んでペダルが重くなる。
「…………」
無言で後ろを振り返ると、美月が荷台に座っていた。漫画とかでよくあるような女の子座りじゃ無くて、普通に跨っている。
「……なにやってんの」
「町の方に行くんでしょ? 乗せてってよ」
「なんで」
「なんでも」
表情も変えず平然と答える美月に、深く息を吐く。そういえば、コイツはこんな奴だった。ボケっとしていて何を考えているのかよく分からない癖に、妙な所で押しが強い。気まぐれに突拍子の無い事をやり始めるから、何時だって俺は振り回されていて。
「……分かったよ」
「へへっ」
顔をほころばせる美月から視線を逸らして、俺は前を向いた。
「いいかー?」
「おうよー」
ペダルを踏みだす前に聞くと、美月が白い手を俺の腰に回す。シャツ越しに身体を感じつつ、俺は自転車をこぎ始めた。
二十歳にもなって何を青春してんだと思わなくもないが、片や民家が並び、片や田んぼが広がる、そんな良くある田舎道。当然、人通りなんて殆ど無い。過疎地域万歳。
「で、何処に行くんだ」
「なんだってー?」
何処となく不謹慎な事を考えながら問うと、美月は間の抜けた声を発しながら俺の背中に頬を押し付ける。
「……何処に行くんだって聞いたんだけど」
「ああ。うん。そうだなー。学校に行こうぜ学校」
「えー……」
学校というのは、恐らく俺が一年半前までと、コイツが数か月前まで通っていた高校の事だろう。市街からは少し離れた山の上に建てられていて、俺や美月の家がある土手沿いからだと、丁度町の端と端になる。
「俺、本屋に行きたかっただけなんだけど……」
「通るじゃん。途中で」
いや、確かにそうなのだけど。しかし、どうしてわざわざ元の目的地よりも遠くへと行かねばならないのか。
「ぐだぐだ言わない。良いじゃん。どうせ自転車なんだから、三十分も掛からないよ」
「仕方ねぇな……」
相変わらずの態度に呆れつつ、自転車を漕ぐ力を少し強める。美月の腕が、ますます俺の身体を締め付ける。
「……あれ」
と、そのまま顔を俺の背中に付けていた美月が、怪訝そうな声を上げた。
「明人、タバコ吸ってる?」
「ああ……うん」
振り返って頷くと、美月は八の字に曲げた眉をますます顰める。
「あんなもの、なにが良いの」
「なんだろうな。……よう分からん」
これでも真面目に答えたつもりだが、美月は納得がいかないらしく、唇を尖らせて俺を睨む。
「……そういや、お前タバコって嫌いだったね」
「そりゃそうだよ。あんなの、身体にも悪いし、周りにも被害が及ぶし、声だって――」
「…………?」
責めるような口調でまくし立てる美月が、急に言葉に詰まった。
「どうした?」
「……何でもない」
さっきまでの勢いは何処へやら。唐突に大人しくなった美月は、そのまま顔を俺の背中に埋める。
……何だってんだ。
声、とか言っていたか。まあ、タバコで声が擦れるというのはよく聞く話だし、一応ミュージシャン志望の美月が気にするのは分かる。コイツの周りでタバコを吸おうものなら、二つの意味で煙たがられる上に、思いっきりお説教をくらうくらいだ。人の良い美月のおじさんが、申し訳なさそうに苦笑いを浮かべながら娘の説教を聞いていた場面を思い出した。
……ああ。だから、吸い始めたのかね。
「……ねえ」
「ん?」
「タバコ、今も持ってんの?」
「……んにゃ。持って無い」
「なんでさ」
そりゃあ……ほら。持ち歩いた所で、最近は喫煙スペースなんて限られてるし。そこまでして吸おうと思う程、ヘビーなスモーカーじゃないし。
「ふうん。……そっか」
俺の背中に顔を埋めたまま、ぼそりと呟く美月。
その声は、何故か、残念そうだった。
山へと向かって市街を横切り十数分。高校に繋がる坂の下で、俺は自転車を止める。
「漕いで登らないの?」
「いや、無理だから……」
荷台に座ったまま首を傾げる美月に、顔を顰めながら突っ込みを入れた。ただでさえ急勾配で、現役の高校生ですら押して上がるのがデフォな地獄坂だと言うのに、二人乗りでなんてとてもじゃないが無理だ。
「なっさけないなぁ。アタシ一人くらい担いで登れ」
「無茶言うな。ほら、いいから降りろ。いい加減室内にでも入らないと熱くてならん」
「ちぇっ……この坂登るの辛いんだよね。熱いし」
美月は舌打ちをして荷台から降りると、愚痴を言いつつも歩きはじめた。
「そんなん俺だって知っとるわ」
自転車を押しながら、早足でその後を追う。美月は俺に見向きもせず、校舎を見上げたまま歩き続ける。
「……聞こえてないのかよ」
これも無視。納得のいかない気分で、その後ろ姿を見つめる。背格好は、一年半前と変わっていない。でも、あの頃と違うのは、肩口まで髪の毛が伸びていることとか。
……そんな、耳が隠れるくらいまで髪の毛を伸ばしてなんているから、声が良く聞こえないんだ。きっと。
夏休みということもあってか、校舎に生徒は殆ど残っていなかった。自転車を駐輪場に止めてから、校舎の前に立つ美月に駆け寄る。
「おし。んじゃ、行こうか」
美月は俺を一瞥すると、踵を返して昇降口に向かう。
「いや、待て待て」
扉に手を掛けた美月の襟を掴む。首根っこを掴まれた美月は、不満そうな顔で振りむいた。
「なんだよ」
「いや、昇降口から入っても上履きねぇだろ。在校生でもないんだから。俺達はこっち」
言いながら校舎の角を……正確には、その先にある客員用の玄関を指差した。
「あー。そっか。もう客なのかアタシ達は」
忘れてた。と呟く美月。あのなぁと呆れつつ、その気持ちはなんとなくわかる気もする。全く変わり映えのしない校舎を前にすると、感慨とかより何よりも、そのまま自分があの頃へタイムスリップしたような感覚に陥る。卒業から一年以上経った俺ですらこうなのだから、ついこの間まで通っていた美月はよっぽどだろう。
「そういえばさ」
客員用の玄関へと歩を向けつつ、俺はふと頭に浮かんだ疑問を、隣を歩く美月に尋ねる。
「お前、今日は何の用があるの?」
「ん? ああ。恩師に会いに来たんだよ。ほら、軽音部の顧問だった……」
「ああ、あの……」
……誰だっけ。
「……山本先生」
「そう、山本先生」
咎めるような美月の視線に、苦笑いを浮かべる。だって仕方が無いだろう。軽音部でも無ければ、音楽を取っていたわけでもない。自分と関わりあいの無かった教師の名前なんて、普通覚えてないし。
「それ、先に連絡入れてあるのか?」
客員用玄関の下駄箱からスリッパを出して美月の前に並べる。美月はありがとうと呟くと、靴を脱いで履き替える。
「うん。一応ね。だから、そんなに心配しなくても大丈夫だってば」
苦笑する美月から視線を逸らし、自分もスリッパを履いた。事務員の人に軽く会釈をして、二人並んで廊下を歩く。
「懐かしいな。全然変わってないや」
リノリウムの床をスリッパの底で叩きながら、美月が感慨深げに呟いた。
「そりゃ、お前は未だ卒業してから数カ月しか経ってないしな。そう簡単に変わらないだろ」
「へぇ。じゃあ、明人から見て変わった所、ある?」
「……無いね」
仏頂面で呟く俺に、美月は歩きながらぷっと吹き出した。
「だろうねぇ。……あ、着いたよ」
美月は職員室の前で足を止めると、その戸を二三度ノックしてから開く。
「失礼しまーす」
「……しまーす」
美月の後に続いて職員室に入ると、クーラーの冷たい風が俺を迎えた。
流石に夏休みで、部活にでも出ているのか、職員は少ない。
美月が職員室の奥へと歩いて行くと、何人かの先生が俺達の近くに寄ってくる。見覚えのある先生もいれば、全然知らない先生の姿もあった。
「山本先生はおられますか?」
美月が愛想笑いを浮かべながら尋ねると、見覚えのないオッサンの教師は妙にオーバーな身振りで行き先を教えてくれた。美月は笑いながらお礼を言って踵を返すと、入口の前で立ちつくしていた俺の前までやってくる。
「山本先生、音楽室だってさ。行こう」
ああと頷くと、美月は俺の横を通り抜けて職員室を出ていく。俺も続いて外に出ると、一度職員室の中へと目を向けて、会釈をしてから戸を閉めた。
「じゃ、行こうか」
音楽室はこの棟の三階の突き当たりにある。さっきまで歩いてきた廊下を、二人で再び戻る。
「……にしても、蝉がうるさいな。毎年そうだけど、こいつらの声を聞いてると、熱さが増す気がする」
美月の後ろを歩きながら何となしに呟くが、美月は気にした様子もなく、すたすたと歩いて行く。
「……おーい」
「え、なに?」
呼ぶと、美月はキョトンとした顔で振り返った。どうやら聞いて無かったらしい。
「いや。蝉がうるさいなって」
「ああ。……そう?」
階段を一段ずつ登りながら、美月は不思議そうに首を傾げる。
「そうだよ……ま、こういう声って意識してないと気にならないものではあるけどさ。……にしても、お前」
前からぼんやりしてる奴だとは思っていたが、ここ最近、特にボーっとしてる気がする。
「……大丈夫か?」
「何が?」
「いや……」
……そう聞かれると、返答に困るけど。
「変な奴」
そういって美月は苦笑すると、再び前を向いて階段を上る。
「お、着いたね」
美月は音楽室の前で一度足を止めると、一度息を吐いてから、戸に手を掛けた。
「失礼します」
戸をあけるが、そこには誰も居ない。美月に続いて部屋に入り、一度室内を見渡すが、やっぱり誰も居なかった。
「……居ないな」
「居るよ。多分、準備室の方だと思う」
そう言うと、美月はずんずんと歩いて行き、部屋の奥にある戸に手を掛ける。
「失礼します」
再び、挨拶と共に扉を開く美月。慌てて俺もその後に続く。四畳程度の小さな教室には、窓に向けられたデスク。その前に向かう、髪の長い妙齢の女性が、椅子をこちらに向けて微笑んだ。
「あ、宮坂さん。こんにちは。それと……桐浦くんだっけ?久しぶり」
「あ、はい。お久しぶりです」
まさか覚えられているとは思わなかったので、微笑みかけられて、ちょっとだけ面食らう。
「覚えているよ。何時も宮坂さんと一緒に居たもんね。それに、宮坂さんが良く話をしていたし」
「先生っ!」
珍しく、美月が声を荒げた。山本先生は苦笑しながら美月を宥めると、再び俺の方を向く。
「それで、今日は桐浦くんが付き添い?」
「付き添いっつうか、無理やり付き合わされたんです」
「信頼されてるんだね」
にこりと笑う山本先生。なんでさ。
俺が何かを言う前に、美月が先生に耳打ちをする。先生はああと呟いて数回頷くと、何も聞こえていない俺の方に目を向けて、再びにこりと微笑む。
「桐浦くん。悪いけど、ちょっと席を外してくれるかな」
「ああ。良いですけど……」
何故に?
「ここからはガールズトークなんだよ、明人」
美月が意地の悪い笑みを浮かべながら答えると、先生もそれに苦笑しながら続く。
「ごめんね、桐浦くん。そうそう、さっきまで福島くんも来ていたから、探せば未だそこら辺に居るかもよ。久しぶりにあってみたら?」
「……福島?」
……って、誰だっけ。
俺が首を傾げていると、美月は呆れたように肩をすくめながら口を開いた。
「駄目ですよ、先生。コイツ、先生の事も忘れてたくらいだから。名前を言っても思い出しません」
「……先生については、名前を忘れてただけだろ。そこまで記憶力落ちてねぇよ。福島ってのはアレだろ……えっと」
「一応言っておくと、福島くんは、軽音部でベースをやっていた男の子だよ」
「ああ……」
苦笑いを浮かべた先生の補足でようやく思い出す。
そう言えば、そんな奴も居たなぁ……。俺よりも一つ年下……要するに美月と同い年で。結構良い奴だった後輩の男を。
……でもなぁ。俺、そんなにアイツと仲が良かったわけでもないし。
礼儀正しい奴だったので、他のバンドのメンバーよりは記憶に残ってはいるけれど。
「……まあ、適当に屋上にでも行ってきます」
苦笑を浮かべながら見送ってくれる先生と、見向きもせずに手を振る美月から踵を返し、俺は部屋を出た。
屋上の扉を開けると、蝉の声がより大きく聞こえてくる。
「あっつ……」
日の光から逃げるように、いそいそと建物の陰に向かう。直射日光にさえ当たらなければ、風が吹いている分、建物の中よりは少しだけ涼しかった。
「……ふう」
一度息を吐いて、俺はジーンズの尻ポケットから、タバコの箱とライターを取り出す。
……うん。アイツには持っていないと答えたが、本当は持っていたわけで。
どうしてそんな嘘を吐いたのかというと……何となく、本当の事を答えることで、アイツに非難されるんじゃないか。と考えたら、自然と嘘を吐いていた。
タバコを咥え、ライターで火を付ける。一度ゆっくりと吸ってから息を吐くと、陽炎の揺れる屋上に、白い煙がもくもくと浮かび上がる。
「……ふう」
……何となく、ようやく落ち着いた気がした。卒業したとはいっても、職員室のような場所は何時になっても緊張してしまう。あの場所で落ち付けるようになるには、それこそ教員にでもなるしかないのではないのだろうか。
「………はぁ」
ジーンズのポケットから携帯灰皿を出して、吸いがらを落とす。そのままぼんやりと空を見上げていると、唐突に屋上の扉を開く音がした。美月か先生が、話が終わったので呼びに来たのかと思ったが、それにしては早過ぎる。視線を向けると、何処かで見たことのある短髪の男が、屋上に出た所で固まっていた。
「……桐浦先輩?」
「あぁ……えっと、」
清潔さのある短髪に、精悍な顔立ち。すらっとした長身と、物腰の柔らかな雰囲気。確か、彼は――
「福島……だっけ? お久しぶり」
「久しぶりです。……あの、何やってんすか」
福島は軽く会釈をすると、後ろ手に屋上の戸を閉めて、怪訝そうな表情で近寄って来た。
「見ての通り、タバコを吹かしてる」
「禁煙ですよ、ここ」
「え、そうなの?」
「というか、学校は大体全館禁煙です」
知らなかった。
眉を顰めつつ、仕方無しに未だ残っているタバコを携帯灰皿に突っ込んだ。蓋を閉め、再びポケットにしまうと、「それにしても」と福島が口を開く。
「先輩、こっちに帰ってきてたんですね」
「おう……ま、一応」
「去年は……帰ってきませんでしたよね?」
「……そうだな」
どうしてコイツがそんな事を知っているのだろうと少し疑問に思いつつも、一応素直に頷いた。
福島は俯いたまま、暫くの間黙り込む。……微妙に気まずい沈黙だ。どうして大して親交があるわけでもない後輩と二人っきりで、会話をしなければならないのか。
「……先輩は」
俺が、いい加減何か話題を振った方が良いのだろうか。なんて思った頃、福島が静かに口を開く。
「先輩は、知っているんですか?」
「何を」
「その――宮坂が、」
福島が、何かを言おうと、口を開いた瞬間。
「あきとー。話終わったぞー」
間の抜けた少女の声が、屋上に響いた。
声のした方に目を向けると、扉の前に立つ美月が、俺の方を見ながら片手を振っている。俺はそれに手を上げて答えると、もう一度福島の方に目を向ける。
「悪い。もう帰るわ俺。それとも、美月と何か話す?」
「……いや、良いです。……その、宮坂にも、よろしく言っといてください」
顔馴染みなのだし、少しくらい話でもすれば良いのにと思いつつも、こいつにはコイツで何か理由があるのだろう。俺は返事を返す代わりに片手を上げて、早足に美月の元に駆け寄った。
「話は終わったのか?」
「うん。山本先生に用事があるらしくてさ。あ、先生がよろしくだって」
はいはいと適当に返事を返しつつ、室内に入る。先ほどまでとは違い、先に歩く俺の後を、美月が早足に着いてきて、隣に並んだ。
「そう言えばさ」
「んー?」
来た時と同じく、自転車に二人乗りで田舎道を走りながら、俺はふと、屋上での事を思い出す。
「屋上でさ、福島に会った」
「あ、あそこに居たの、やっぱ福島だったんだ」
やはり美月は気付いていたらしい。まあ、普通に相対して話をしていたんだから、当然か。
「よろしくだってさ。……ったく、お前にしてもアイツにしても、少しくらい話でもすれば良いのに」
「はは……まあ、仕方ないよ」
失笑気味に美月が呟く。
「……なに。何かワケあり? 恋愛沙汰でもあったの」
「そんなんじゃないよ。……まあ、明人には関係の無いことだよ」
自虐的な声で答える美月。その声には、何処か諦めのようなものが混じっている気がする。
何か理由があるのだろうが、今も美月に言われた通り、俺には関係の無い事で。ふぅん。なんて生返事を返すだけで、他は何も言えなかった。
美月の自宅の前で、自転車を止める。美月は荷台から降りて自転車の前に回り込むと、俺の顔を見て言った。
「んじゃ。今日は助かったよ。また何処かに行く用があったら、よろしく」
「断る」
俺が即答すると、美月は苦笑を浮かべながら自宅へと帰っていった。それを見送ってから、俺は再びペダルをこぎ出す。
このまま家に帰って、部屋でだらだらするとしよう。
「……あ」
そこまで考えて、そう言えば今日の目的であった本屋に結局行っていない事を思い出し、思わず間の抜けた声を上げる。
「…………良いや。帰るか」
……もう、今日は疲れた。
とりあえず、帰って眠ってしまいたい……。
♪
学校に行った日から、大体一週間。前に行けなかった書店に、今日こそ一人で自転車を漕ぎながら向かった帰り。意外な所で美月の姿を見かけた。
「……何だ、アイツ」
扉を開けて出てきた美月は、そのまま駐車場を横切って、こちらに気付くこともなく俺の前を歩いて行く。まだ、午後も初めといった時間だが、どうやらこのまま帰るつもりらしい。
「なんでまた、こんな所から」
視線を美月の背中から、出てきた所へと向ける。白を基調にした外観。学校と同じくらい人の出入りは多いが、出来るならあまりお世話になりたくない建物。……まあ、要するに病院なのだけど。
……アイツ、どこか悪いのかね。
俺の記憶じゃ、少し体調を崩す事はあっても、大きな病気や怪我を負ったことは無かった筈だ。
「何かあったんかな……」
……まあ、俺には関係ないか。
妙な心配や好奇心で顔を突っ込むのは、出来るなら避けておきたい。ので、俺はそのまま家に向かって、自転車を漕ぎ始め、
「……おい」
たまたま前を歩く幼なじみの背中に、声を掛けた。
「…………」
はい、無視でございます。美月は俯いたまま、足を止めることなく歩き続ける。
「おい、美月」
「あ、明人」
ペダルを踏む力をもう少し込めて、美月の隣に並ぶ。名前を呼ぶと、ようやく気づいたらしく、顔を上げてこちらを見た。
「丁度良かった。また乗せてよ」
美月が足を止めて、俺の自転車の荷台に飛び乗る。
「……っと。せめて自転車を止めてからにしろよ。あぶねぇな」
「んー?」
美月は俺の腰に手を回すと、この前と同じように頬を俺の背中に付けた。
「お前さぁ……」
「なに?」
「……何でもない。ところで」
不満を言う代わりに、呆れ混じりのため息を吐いて、話題を切り替える。
「お前、何処か悪いの?」
「……見てた?」
「出てくる所だけな」
……これは、まあ。心配しているわけでも、気にしているわけでも無くて。ただの世間話だ。
そっかぁ。と、美月は呟いて、額を俺の背中に押し付ける。
「……別に。大丈夫。なんでもないからさ」
「そうかい」
「そうだよ」
何となく気になったが、追求はしない。だって、ただの世間話だから。生返事を返して、自転車を漕ぐ。
「……ね、明人」
「んー……?」
美月が俺の背中に額を付けたまま、呟いた。
「明人、大学は楽しい?」
「……何でそんなこと?」
「明人さ、去年、一度も帰って来なかったじゃんか。だから、そんなに楽しいのかなって、思って」
「……まあ、そこそこ」
……答えはしたが。実際、そこまで楽しいとは思わなかった。それなりに話す奴は居るが、サークルに入っているわけでもないし。
何より、疲れる。コイツみたいに、何も考えずに話せるような、気の許せる奴が、居ないから。
……まあ、そこから逃げ出した俺が言うのもなんだけど。
「というか、お前はどうなんだよ」
「アタシ?」
……そういやコイツ、高校を卒業してからどうしたんだろう。進路とか、全然聞いていない。
「そういえばお前……」
「楽しくないよ。アンタが居ないからね」
……ハンドルを切り損ね、自転車がバランスを崩した。
「おっと。危なー……。ちゃんと前見て漕いでよ。危ないじゃんか」
「悪い……」
謝りつつも、胸の内の動揺を抑え込む。落ち付くために息を吐くと、後ろから美月の含み笑いが聞こえた。
「冗談だよ。何動揺してんの、バカ」
「……テメェ」
美月の笑い声を背に聞きながら、俺はため息を吐く。
「……あ」
「ん、どうしたの?」
そういえば、コイツが何処に行ったのか、結局聞けていない。
「んや……」
なんでもないと首を振って、前を向いて自転車を漕ぎ続ける。コイツの進路、少しだけ気にはなったが、なんとなく機会を逃した気がして、結局、聞き直す事は出来なかった。
♪
「――耳が聞こえないんですよ。宮坂」
「…………は?」
よくあるファミレス。窓際の席。俺の前に座る福島は、何でもない事のように言った。
「だから、耳。ちょうど一年くらい前からかな。まあ、全然聞こえないってわけじゃないみたいですけど。いわゆる難聴ってやつです」
「ちょ、ちょっと待て」
コーヒーを飲みながら平然と話を続ける福島に、俺は思わず手のひらを向ける。
「唐突に何を言い出すんだ、お前」
「唐突ですか」
というか、脈絡がなさすぎる。福島が昼前にいきなり家を訪ねてきて、昼食に誘われたんで着いて来たというのに、席に着くなりこんな話だ。
「でも、こちらとしては唐突でも突然でもないんですよ。むしろ遅すぎたんです。……というか、やっぱり知らなかったんですね、先輩」
「まあ……」
……全然知らなかった。
本人はもちろん、両親や美月のおじさんやおばさんからも、そんな話は一度も聞かされたことが無い。
……そもそも、美月自身が、そんなそぶりを見せたことが無くて。
「……でしょうね。宮坂本人が、口止めしてたみたいですし。でも事実ですよ。アイツ、前よりも髪を伸ばしてるじゃないですか。前は耳が見えてたのに、耳が隠れるくらいまで。あれ、補聴器を隠すためですから」
言われてみると、確かに。最近のアイツは、人の台詞を聞いてないことが、たまにあった。
ただ単にボーっとしているだけなのだと思っていたのだけれど……本当に聞こえていなかったのか。
「というか、えらくあっさりとバラしてくれたけどさ、口止めされてるんじゃないのかよ……」
「俺は口止めされてませんから」
サラッと答える福島。……ああいえばこういう。その態度にどことなく棘があるのは、多分気のせいじゃないのだろう。
「それとも、知らないままが良かったですか?」
「いや……」
そんな事は……ない。
そんな事はないけれど、なにしろ突然だったせいで混乱している。情報と気持ちの整理が追いつかない。
「……どうして」
「理由までは……知りません。俺も、単に部活が同じだから、聞いていただけで。……その辺は、むしろ山本先生の方がよく知ってると思います」
「あ……」
そうか、耳が聞こえなくなったということは……。
「……ギター、弾いてないわけだ」
……思わず、頭を抱えた。俺、知らない間に、アイツに辛い事を言ってはいなかっただろうか。
「……俺はですね、先輩。この一年、宮坂の近くに居たわけですよ」
「…………おう」
「先輩が宮坂から離れている間、宮坂の傍にいたんです。アイツの耳が聴こえ辛くなり始めてからも、ずっとアイツの隣にいたんです」
「……ああ、だから、それで?」
「……俺じゃあ駄目なんですよ」
福島が手に持っていたカップを机の上に置いて、その水面を眺めながら呟く。
「……アイツの耳が聞こえなくなりはじめて。俺は、それでも、アイツを支えるつもりだったんだ。……でも、駄目だった。その時アイツが求めたのは、俺じゃなくて、他の誰かだったから。俺は、その人の代わりにはなれなかった。なのに……」
そこで、福島は一度言葉を切ると、ふうと息を吐いて、言った。
「アイツが待ち望んでいた人は、アイツが一番大変だった時に、帰って来なかった」
「……………………」
沈黙。それが一体誰かなんて、問うことは出来なかった。巡りの悪い俺でも、ここまで聞かされれば、流石に分かる。
……何時だってアイツの傍にいたくせに。アイツが、何時よりも誰よりも助けを求めたその時、傍に居てやれなかった大馬鹿者。
「俺はですね、先輩」
福島は顔を上げると、恐らくは誰よりも憎たらしいであろう相手の顔を真っ直ぐに見つめて、
「――アイツが辛そうなのは、見ていたくないんですよ」
「……同感だよ」
……つくづく男前なやつだ。逃げてばかりだった何処かの誰かさんとは、大違い。
「……ああもう。まったく同感だよ」
一度大きく息を吐いて、俺は机に頭を突っ伏した。
「……そういうわけです。先輩も知っておいた方が良いと思いまして」
「ああ……いや、それは良いんだけどさ……でも、なんだ」
どうしてわざわざ教えてくれたのだろう。自分が口止めされてないとはいえ、美月が俺に知られたくないことくらい、一目瞭然だろうに。
「ああ、それはですね。多分、ただの嫌がらせですよ」
『宮坂に』じゃなくて、『先輩に』ですけどね。なんて言いながら、自虐的に微笑む福島。
「宮坂が口止めをしてた所で、違和感は拭えない。遅かれ早かれ、先輩は宮坂が何かを隠していることに、気付いていたでしょう」
どうだろう。確かに何度かおかしいと思ったことはあったが、それでも全然気付かなかった。
……いや、そういえば。ついこの間、アイツが病院から出てくる所を見ていたっけ。
「そうしたら、宮坂もそれ以上隠す事は……多分、しない。アイツは先輩に気付いて貰いたがっていたみたいですからね」
「……回りくどいな」
「だけど、脈絡はありますよ。……少なくとも、唐突ではありませんよね」
福島は一度カップに口を付けると、再び顔を上げた。
「だから、そういう段取り通りの劇的な展開というやつを、ぶち壊してやりたくなりまして。……だから、これは嫌がらせで。選ばれなかった俺の、ささやかな抵抗なわけです」
「……そうかい」
そう言って笑う、性格の悪い優しい後輩から視線を逸らし、俺は呟く。
「そうなんですよ」
福島もまた、同じように呟いて、すっかり空になったカップを机に置いた。
福島と別れた後、俺はその足で学校に向かった。美月の症状に付いて詳しい話を聞くためだ。
……勿論、美月本人に聞くのが一番なのだろうけど、本人に聞くには、色々と覚悟が足りない。おじさんやおばさんに聞くのも同様。なので、福島曰くそれなりに詳しそうな先生に話を聞こう。というわけだ。
職員室を訪ねると、また音楽室に居るという話だったので、俺は音楽室へと向かう。
「…………」
階段を登りながら、福島の話を思い出す。
……耳が聴こえない、か。聞かされても、実感は湧かない。
正直なところ、どう対応すればいいのか、まだ良く分かっていなかった。
それが、どんな感じなのか。
どんな気分なのか。
アイツがこの一年、どんな気分で居たのか。
……逃げていたんだから当たり前か。
気が付けば、音楽室の前まで来ていた。ふう。と一度息を吐いて、俺は戸に手を掛けた。
「失礼します……」
戸を開く。音楽室の中には誰も居ない。多分、この前と同じく準備室の方だろう。
教室の奥の方へと歩いて行き、準備室の戸を開け、俺は思わず硬直した。
「あ…………」
「あら、こんにちは。桐浦くん」
この前と変わらない笑顔で、俺を迎える山本先生。
そして、俺に背を向ける、白いパーカーをはおった……。
「あ、明人」
「美月……」
俺に気付いた美月が振り返る。髪の毛が揺れて、一瞬、耳に掛けるイヤホンの様なものが、目に入った。
「どうしたの、明人? またアタシを連れ戻しに来たとか?」
「いや…………」
冗談交じりの美月の声に、目を逸らして答える。そんな俺の態度が気になったのか、こちらに目を向けた美月は、眉を八の字に顰めた。
「なに。言いたいことがあるならハッキリ良いなよ。変な所でとめないでさ」
「えっと……」
ここで美月だけを追いだして、先生に話を聞く……というのは、流石に無理だろう。だからと行って、このまま何もせず立ち去ったら……多分、怪しまれる。
……覚悟、決めるか。どちらにせよ、こいつとは一度話をしなければならなかったわけだし。呼ぶ手間が省けたと思えば、丁度良い。
「美月」
「ん?」
「ちょっと、屋上行かないか」
そう言うと、美月は首を傾げる。
「なに、告白?」
「ま、似たようなもんだ。どうよ」
美月はむうと唸り声を上げると、一度後ろを振り返り、先生の方を見る。先生は、美月と俺を交互に見やり、苦笑を洩らした。
……俺にはよくわからなかったが、二人の間では、これで意思疎通が完了したらしい。美月は俺の方へと振り返ると、「わかった」と言って頷く。
「んじゃ、ちょっとこいつ借りますね。先生」
「はいはい。それじゃあ行ってらっしゃい」
――頑張ってね。と、山本先生は笑いながら見送ってくれた。大体、察してくれているようだった。
屋上に着くや否や、俺の後ろを歩いていた美月は早足でフェンスの方へと歩いて行く。
「相変わらず、眺めだけは良いよね。ここ」
「見るものも無いけどな」
美月の背中から、その先の景色に目を向ける。見渡す限りの平野。田んぼ。転々と建つ民家に、背景の様な山脈……とか。
……本当に、何も無い。
今日はもう、部活も無いのか、学校の外は静まっていて。
音を無くしたように静かな世界に、延々と鳴き続ける蝉の声だけが、うるさいくらいに鳴り響いていた。
「それで、何の用?」
風になびく髪を抑えながら、美月は俺の方を振り返る。今の彼女には、この蝉の声も聞こえていないのだろうか。
「ちょっと、聞きたいことがあってさ」
「なに?」
首を傾げる美月。距離は、大体五メートル。……俺の声は、未だ届くらしい。
「お前さ……耳、聴こえないんだって?」
「…………」
一瞬、その顔が、こわばった気がした。
「……矛盾してるよ、今の言葉」
苦笑いを浮かべて、美月が口を開く。
「……誰に聞いたの?」
「福島」
「ああ……やっぱり。口止めしてなかったもんね」
マズったなぁ。なんて言って、美月は苦笑いを浮かべながら頬を掻く。
「まあ、いいか。どちらにせよ、隠しきれるなんて思って無かったし。そうだよ。正確には聴こえないじゃなくて、聞こえにくい。だけど」
美月が頬を掻いていた手で、横髪を掻きわけた。形の良い耳と同時に、耳に掛けるイヤホンのような機械があらわになる。
「どう?」
「…………」
……何も、答えられなかった。
そんな物を見せられても、やっぱり、当事者ではない俺には、実感が湧かなくて。
「……ま、そんなもんだろうね」
美月は髪から手を放すと、何処となく自嘲気味に微笑み、降ろした手を上着のポケットに入れる。そこから手帳を取り出すと、俺の方へと突き付けた。
「ほら、障害者手帳。六級だけどね」
六級というのが良く分からなかったが、なんでも、聴覚障害としては一番軽度の等級らしい。症状が酷くなるほど、数字が小さくなっていくそうだ。
説明し終えると、美月は手帳を閉じて、再びポケットへとしまう。
「分かった?」
「……おう」
福島の話を、信じていなかったわけではない。事実だと、思ってはいたけれど……。
……でも。ああ、本当なんだなぁ……。
「うん……今はまだ、どうにか聞こえているけれど。……今でも症状は進行しているし」
その内、何も聞こえなくなる。と、何でもない事のように、美月は呟いた。
「どうして……そんな」
「どうしてなんだろうね……ストレスとか、色々と理由はあるらしいけど。……でも、原因不明の事が多いんだって。少なくともアタシの場合は、そう」
「…………じゃあ、お前は、もう」
……聞きたい事が、ある。本当は、一番に聞きたいことが。
だけど、それをこいつに聞くのは、残酷なんじゃないだろうか。
ここまで聞いておいて、今更躊躇うのもおかしい話だと思うけど。
でも……。
「――もうアタシは、歌なんて歌えない。ギターも、弾けない。……そう言いたいんでしょ?」
俺の心を読んだかのように。美月は、その残酷な真実を、口にした。
「……アタシは、音を無くした」
何も言えなくなる俺に、美月はスラスラと言葉を続ける。
「もう、夢は追えない」
何の感情もこもっていない声で。
「……アタシにはもう、何も出来ない。何も残ってない。……アタシはもう、どうしようもなくなっちゃったのさ」
そう言って、美月は悲しげに頬笑むと、再び踵を返し、フェンスに手を掛けて。
「……そういや知ってる? 蝉ってさ」
ふと、思い出したように口を開いた。
「蝉って聴覚、無いらしいよ」
「そうなのか……?」
美月は、俺の言葉なんて聞こえていないかのように、振り返ることなく言葉を続ける。
「それでも、奴らは鳴き続ける」
ぼそりと。
誰にも聞こえないくらい、蝉の声にかき消されそうなほど小さな声で呟く美月。
そこに何の感情が込められているのか、俺には良く分からなかった。
「――んでさぁ」
背を向けたまま、呟く美月。
「それで、明人はどうするの?」
美月が、こちらに耳を向けるように、右の髪の毛だけを掻きあげて、首だけで振り返る。
「どうって」
「だからさ。これを聞いて、アタシの幼なじみの明人さんは、一体どうしてくれるのかって話」
風が、美月の髪の毛を揺らす。表情は良く見えない。感情の無い……だけど、何かを期待しているような瞳だけが、俺を真っ直ぐに、見つめていて。
俺は……。
「……どうするもなにもないだろ。だって、今更そんな事を聞かされても――」
もう、遅い。
どんな同情も、どんな励ましも――この一年の間に、散々聞かされて来た筈だろう。
これで、コイツが聴覚を失った直後なら、俺にも何か、出来ることがあったのかもしれないけれど……。
でも、これはもう、終わった物語だ。
起承転結はとっくの昔に済ませていて……多分今は、エピローグの途中。
だから、今更俺が言える事なんて何もないし、俺が出来ることも無い。
今更だ。
……本当に、今更だ。
「……………………」
はあ。と息を吐いて、美月は振り返る。そのまま早足で俺の前までやってくると、右手を大きく振り上げて、
「…………っ!」
乾いた音と共に、左頬が熱くなる。美月は失望の視線を俺に向けると、そのまま俺の横を通り抜けて、屋上を去って言った。
「…………………」
……一人屋上に残され、そのまま立ちつくす俺。左頬に手を当てると、ジンとした痛みが、やんわりと広がっていく。
「……なっさけねぇですねぇ、明人さん」
思わず呟いた声は、蝉の声にまぎれて、良く聞こえなかった。
音楽準備室の扉を開けると、この前と同じ椅子に座っていた先生が笑顔で迎えてくれた。
「桐浦くん。どうしたの、それ」
苦笑いを浮かべながら、頬を指差す先生に、俺はああと呟いて答える。
「フラれてしまいました」
「そっかぁ……残念だったね」
言いながら、山本先生は隣にあった椅子を、そっと俺の方へと滑らせる。座れと言う事らしい。遠慮なく座らせてもらう事にする。
「駄目だよ、女の子を怒らせたら」
「……はあ」
「女の子は繊細なんだから」
……いや、まったく。
項垂れる俺を見て、先生ははあと息を吐くと、しょうがないなぁといった感じの頬笑みを浮かべた。
「仕方が無いなぁ……どれ、何があったのか、先生に説明してみなさいっ」
「……もう先生じゃないのですけど」
「いいの。人生の先生なんだから。それで、何があったの?」
妙に瞳を輝かせて顔を覗き込んでくる先生に、俺は大きく肩を落とす。
……まあ良いか。俺はさっき屋上であったことを、かいつまんで先生に説明した。
「……それはアレだねぇ」
初めの方こそ楽しげに聞いていた先生だったが、俺の話が進むたび、段々と形の良い眉毛が傾いて行き、俺が全部を語り終えた時には、見事な八の字になっていた。
「桐浦くんが悪いね」
「そうですかねぇ?」
そうだよ。と頷く先生。
「そこまで話をしたならさ。宮坂さんが君に何を求めたか、分かってるでしょ?それとも、君は宮坂さんの事、嫌いなの?」
「そんなことは……」
「だよね。どう見ても好きだもんね、彼女の事」
…………。
思わず先生を睨みつけると、動じた様子もなくくすりと笑う。意地の悪い人だ。
「……俺に、そんな資格、ありませんよ」
「どうして?」
「肝心な時に、居ませんでしたから」
俺がアイツに答えるには、一年遅かったわけで。
そもそも、アイツが一番大変な時、一緒に居れなかった俺が、どうしてアイツを支えることが出来るのだろう。
「ヒーローは遅れてくるものだよ?」
「遅れすぎですよ。大遅刻です」
「それじゃあ今から挽回しなきゃね」
「本気で言ってます?」
「もちろん」
変わらない笑顔で頷く先生にため息を吐いた。そんな俺を見て、先生は更に頬を緩ませる。
「大丈夫だよ。今も昔も、あの娘の王子様は君だけだから。君が居ない間も、彼女を支えていたのは君だし……今日まで彼女が待っていた相手も、君なんだよ。だからさ、桐浦くん」
一旦言葉を切って、先生が俺の右手を両手で包みこむ。思わず顔を上げた俺に、先生は真面目な表情で俺を見つめる。
「君が宮坂さんの事を好きじゃないならいい。強制はしない。君だって選ぶ権利があるし、人一人の人生が掛かっているというんだから、悩むのだって分かる。……でも、もしも君が、あの娘の事を好きで居てくれるなら。君があの娘を、大切に思っているなら――あの娘を、支えてあげてね」
真摯で、それでいて傲慢な……何処までも自分勝手な癖に、何処までも他人本位な発言。
この言葉だけで、先生がどれだけ美月の事を心配しているのか、どれだけ大切に思っているのかが、窺い知れた。
……でも、俺は。
「……………………」
「……何で、答えてくれないのかな」
先生が両手を俺の手から放し、困ったように眉を寄せる。
「それとも、本当に君は、宮坂さんの事とかどうでもいいの? 本当は好きじゃなかったとか?」
「まさか。今も昔も大好きです」
先生が、俺の目の前で思いっきり吹きだした。……自分で聞いといてそれは無いだろう。
俺は肩を落として椅子に座り直すと、改めて口を開く。
「……あのですね。知っての通り、俺は一年半、こっちに帰って来なかったわけですよ」
「うん。それは知ってる。……じゃあ知ってる? 君が帰って来ないせいで、宮坂さん、かなり荒れてたんだよ? 君の名前を呼んでさ」
…………。
「……というのも、まあ、一応理由がありまして」
先生の言葉を敢えて無視して、俺は話を続けた。
「一年半前。……俺が卒業してから、向こうの下宿先に移る前日。俺は、アイツを呼びだしたのですよ」
「へぇ?」
先生の表情が少し変わる。どうやら俺の話に興味を持ったらしい。
……と言っても、そんなに楽しい話でもないのだが。
というか、むしろこっぱずかしいような、未だに誰にも話したことが無い、そんな話。
その日の俺は凄く緊張していて、アイツが妙に嬉しそうだったことにも、気付くことが出来なかった。
……何しろ俺はあの日、アイツに告白するつもりだったのだから。
「なるほどー。離れ離れになってしまう前に、中途半端な関係にケリを付けようと考えたわけだ。それで?」
呼び出したのは、夜。会うのも最後と言う事を理由に、俺はアイツを散歩に誘った。場所は……家の裏手に広がる、土手。
確か……その日は朝から快晴で、光の無い土手からは、満天の星空が良く見えた。
……随分と緊張していた。恐れてもいた。もしも振られてしまったら、もう、今の関係にすら戻れないんじゃないかって。
どうでも良い話をした。それまでの思い出とか。その頃は、丁度アイツがテレビに注目され始めた時期で。図らずも有名人となったアイツの事をからかったりもしたと思う。
……そして、いい加減覚悟を決めて、俺が口を開こうとした、その時。
先に口を開いたのは、美月の方だった。
『――メジャーデビュー、出来るかもしれないんだ』
本当に楽しそうに、嬉しそうに。美月は、語る。
『未だ分からないんだけどね。でも、テレビ局も、全面バックアップしてくれるって。このまま全国デビューも夢じゃないって、言ってくれた』
……そんな言葉を聞かされて。俺に何が言えたと、言うのだろう。
「彼女の夢の為に身を引いたって?」
先生の言葉に、俺は首を横に振って答えた。
「違いますよ……。違います。全然そんなんじゃないんですよ……」
そんな綺麗な感情じゃ無い。
俺のは、ただの嫉妬で――絶望で。諦観だった。
「……才能って、周りの奴を傷付けるんですよ。どれだけそいつが良い奴でも、どれだけ……そいつの事が、好きでも」
いや……むしろ、好きだからこそ。誰よりも近くに居たいからこそ……その距離に、その遠さに絶望してしまう。
だから、逃げた。俺は結局何も言わずにアイツと別れて……そのまま、帰って来なかった。
……それが、一年半前の、事の顛末だ。
「なるほどねぇ……」
途中から足を組んで話を聞いていた山本先生が、納得したように何度も首を縦に振る。
「でもさ、今の彼女は、その才能を無くして……それどころか、全てを無くして、君っていう支えを求めてるんだよ? それの何が不満なの?」
「……何なんでしょうね」
自分でも良く分からない。……ただ、どうしてか、俺はそれを認めることが出来なくて。
「何で? 昔、君が絶望するしかなかった彼女と、今の彼女は違う。今の彼女は、自分に迫る不幸に絶望して、支えを求めることしかできない普通のか弱い少女なんだよ。なのにどうして、君はその手を掴んであげないの? どうして、好きだった相手が嘆いているのに、彼女の傍に居てあげないのよ」
「それは――」
――ああ。なるほど。
だから俺は――アイツを容認できなかったのか。
理解した。理解したからには、何時までもこんな場所には居られない。
「……すいません先生」
訝しげな瞳を向ける先生から視線を外して、俺は立ちあがる。
「俺、もう帰ります」
「あ、ちょっと――」
その言葉を最後まで聞かず、俺は踵を返すと、準備室を出た。
――さて。さすがに遅刻し過ぎた。
向かう先は決まっている。いい加減待たせすぎたから、急いで挽回に行くとしよう。
夕刻。片方に広がる畑と民家。もう片方を道なりに続く土手が壁のように視界を遮る、よくある田舎道。もくもくと空へと伸びる入道雲を見上げながら、頬を伝う汗を手の甲で拭う。
視界の先は陽炎で揺れている。真上からの日光は容赦無く肌を焼いていく。おまけに耳には、蝉時雨。
空を仰ぐ。視界には、夕焼けの空。そして――
「美月」
「……遅いよ、明人」
美月が、風で靡く髪を抑えながらゆっくりと振り返った。
「でもまあ、追いかけてくれただけ、マシかな。……去年は、来てもくれなかったから」
「…………悪い」
頭を下げる。他の事はともかく、それだけは、本当に悪かったと思っている。
自惚れかも知れないけれど……去年、俺が美月の傍に居られたなら。コイツはこんなにも、絶望して、捻くれてしまわなかったかもしれない。
「悪いと思ってくれるんだ」
美月が呟いて、唇の端を釣り上げる。それが、屈折した笑顔だと理解できるまでに、随分と掛かった。
「――それで、明人はどうしてくれる?」
屋上の時と全く同じ言葉で、俺に問い掛けてくる美月。
二人の間を風が吹き抜ける。距離は屋上の時と変わらず、五メートル。
「美月はどうしてほしい?」
「質問に質問で返すのは、ずるいんじゃない?」
「かもな。……でもさ。知っての通り、俺はアホだからな。言ってもらわないと、分からん」
視線を逸らす事なく、肩をすくめて答えると、美月は少しだけ眉を顰めた。
「……そんじゃあ、そんじゃあさ」
迷っているのだろうか。美月は、視線をふらふらと彷徨わせると、一度目を瞑り、息を吐いて、再び俺に目を向けた。
「明人、タバコ持ってる?」
「……ああ」
「ちょうだい」
言って、美月が右手を俺に差し出してくる。微かな期待と、ちょっとした恐怖が見え隠れする、美月の表情。
「……お前、まだ未成年だろ」
「そういう問題じゃないし、そういう話じゃない。分かってるでしょ?」
ああ……分かってる。
要するにこれは、決別なんだ。コイツが、夢を諦める為の。
「……………………」
俺は無言で、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。指先に、タバコの箱が当たる。
……これが。こんなものが、美月が俺に、求めているもので。
だから、俺は――
「――ダメ」
「どうして?」
ポケットから、何も掴んでいない手を出した。美月は、俺に伸ばしていた片手を降ろし、睨むように見つめてくる。
「どうしてって、お前だって言ってただろ? 身体にも悪いし、周りにも被害が及ぶし、それに――」
ふう。と、一度息を吐いて、
「声にだって、悪い」
「――――――――」
美月の顔が強張る。
……沈黙。こんな田舎の町外れの土手の上には、俺達以外に誰も居なくて。二人の間には、ただ蝉の声だけが鳴り響いている。
「……あのさ」
美月は俯くと、小さな、どうにかこちらに聞こえるくらいの声で、呟いた。
「……アタシ、耳が聞こえないんだよ」
「ああ。知ってる」
頷いて答える。
「自分の歌声も、あんまりわからないんだよ」
「うん」
頷く。
「そうだな」
「だから……」
「お前、何時まで逃げてるんだ」
「…………っ!」
顔を上げて俺を睨みつける美月に、俺は、視線を逸らす事なく、向かい合う。
……もう、逃げない。……だけどそれは、今のこいつを、認めるとか、そんなんじゃなくて。
「何時までも不貞腐れてんなよ。美月。お前、そういうの柄じゃないだろ」
「柄じゃないって……柄じゃないって何だよ! アンタ、アンタにアタシの何が分かるってのよ!」
「分かるわ。何年一緒に居たと思ってるんだ。何年お前の隣で、お前を見てきたと思ってるんだ」
「……! 一年間も置き去りにしたくせに! 一年間も逃げていたくせに!」
……ああ。だから、それだけは本当に、悪かったと思っている。
もし俺が一年前に帰って来ていたなら、コイツにこんな勘違いをさせなかった筈なのに。
「俺が知ってるお前は。俺が好きだったお前は、そんなか弱い乙女じゃない。黙って誰かの助けを待っているような、そんな奴じゃないんだよ」
「…………っ!」
「俺はお前のヒーローなんかじゃない」
言葉に詰まる美月に、俺は台詞を続ける。
「お前だって、悲劇のヒロインなんてキャラじゃないだろ」
「……………………」
黙って俯く美月。
……静かさ。ね。
「そのまま逃げ続けてもさ、絶対に後悔する。……俺がそうだったから」
言いながら、俺は少しずつ、俺と美月との距離を埋める。
「だから、頑張れ。絶望しても前向いて生きろ。今までだって、勝手に突き進んできたんじゃねぇか」
そんな奴だったから、俺は絶望して、逃げ出して。
……そんな奴だったから。俺は憧れて、好きになったんだ。
美月の前に立ち、何も持っていない右手で、美月の手を包み込む。
「……それなら、俺も支えてやる。何時までだって一緒に居てやる。お前の手を掴んで居てやる。……今度は、絶対に逃げないって約束する。……だからさ」
――だから、お前も逃げるなよ。
握る手に力を込める。そうして暫く見つめ続けていると、美月は顔を上げて、俺の瞳を見つめる。
「それって、プロポーズ?」
「お前がそれを望むなら」
顔を上げた美月は、それを聞いて、ぷっと吹き出した。
「似合わねー」
だろうなと答える。……我ながら、似合わない事を言っていると、つくづく思った。
「……でも。ま、仕方が無いから受けてやんよ」
俺の手の上に、もう片方の手を置いて、美月は呆れ気味に笑う。
「明人は、情けないなぁ」
「自覚してる。お前も、情けないぞ」
「自覚してるよ」
そうしてしばらく笑いあった後、ふう。と息を吐いて、美月が口を開いた。
「……良いのかな」
「ん?」
「……アタシは、歌って良いのかな」
「……そもそも、誰も歌うななんて言ってねーよ」
勝手に歌えないなんて思いこんで、悲劇のヒロインぶっていたのは、美月だ。
「歌おうと思えば、何時だって歌えるだろ」
厳しいな。と美月が苦笑する。もう片方の手を彼女の頭に置いて。
「――だから、好きにやれ。好きな事してる美月が、俺の好きな美月だからさ」
そう言うと、美月は少しだけ、照れたように微笑んだ。
♪
翌日。正午。俺と美月は、二人で音楽準備室を訪ねた。
「あら、こんにちは、宮坂さんと桐浦くん」
昨日と同じように、椅子をこちらに向ける先生に、俺と美月は挨拶を返す。
「仲直り、出来たみたいね。二人とも」
俺と美月を交互に見て微笑む先生。……そうか。この人は事の顛末を殆ど把握してるんだ。何となく気まずくなって、俺は苦笑いを浮かべながら視線をそらした。
「はい」
そんな俺の心境を知ってか知らずか、美月は返事と共に笑顔で頷く。その笑顔は最高に可愛いが、それだけに、山本先生が全てを把握するには、十分で。
「あらあら……」
「あー……その、先生、今日はお願いがありまして」
ますます良い笑顔で俺達を見つめる先生の顔を直視できず、俺は強引に話を変える。
「話?」
「はい。俺じゃなくて、コイツがですけど」
言って、美月の背中を押した。
「わっと」
美月は軽くバランスを崩しつつ、一歩前に出る。
「……宮坂さん?」
「…………えっと」
美月が、自信なさげに俺の顔を見上げた。俺はそれに頷くと、美月も頷き返し、再び先生の方へと目を向けた。
「……先生。アタシ――」
……さて。
新たな決意を語り始める美月から背を向けて、俺は準備室を出る。
山本先生は、一年間もの間、美月を心配してくれていたんだ。積もる話もあるだろう。だったら、俺は居ない方が良い。
「……明人?」
「心配するな。屋上に行ってくるだけだ」
不安げな表情を浮かべる美月に苦笑を洩らしながら、
「もう、何処にもいかねぇよ」
……答えてから、先生が見ていることに、気付いた。
「……じゃあ、行ってくるわ」
ニヤニヤと笑う先生の視線から逃れるように、俺は踵を返すと、早足で音楽室を去っていった。
屋上の扉を開けると、蝉の声がより大きく聞こえてくる。
「あっつ……」
一度息を吐いて、俺はジーンズの尻ポケットから、タバコの箱とライターを取り出す。
タバコを咥え、ライターで火を付ける。一度ゆっくりと吸ってから息を吐くと、陽炎の揺れる屋上に、白い煙がもくもくと浮かび上がった。
「……ふう」
ジーンズのポケットから携帯灰皿を出して、吸いがらを落とす。そのままぼんやりと空を見上げていると、唐突に屋上の扉を開く音がした。
「禁煙ですよ、ここ」
清潔さのある短髪に、精悍な顔立ち。すらっとした長身と、物腰の柔らかな雰囲気。屋上の扉の前に立つ福島が、俺の方にやってきた。
「おう、福島」
答えながら、タバコを携帯灰皿に突っ込んだ。蓋を閉め、再びポケットにしまう。
「今日は宮坂と一緒ですか?」
「おう」
「ふうん。じゃあ、上手くいったんですね」
福島の呟きに、俺は思わず眉を顰める。……コイツは一体どこまで知っているのだろう。
俺の視線に気づいた福島が、苦笑いを浮かべながら「ただの予想ですよ」なんて呟いた。
「……………………」
何となくそのまま、黙り込む。しばらくフェンス越しに町を見下ろしながら、思い出したように、俺は口を開いた。
「……お前さ」
本当に、これで良かったのか? お前は、これを望んだのか?
――お前、美月の事、好きだったんじゃないの。
聞きたいことが山ほどあった。コイツは結局、何を望んでいたのか。
でも、そんな俺の問い掛けは――
「――――」
――不意に聴こえる旋律に、かき消された。
「……この歌声」
蝉の合唱に混じって聞こえる、透明な歌声。
その声は、本当に微かで、儚く、今にも消え入りそうで――多分、普通だったら空耳だと思うくらいに小さい声で。
……でも、俺には分かる。
その歌声を、俺はずっと聞き続けていたから。
この歌声に……俺はずっと、憧れていたんだから。
「……俺はですね、先輩」
フェンスから町を見下ろしながら、福島は小さく呟く。
「この声をもう一度、聞きたかったんです」
「……………………」
そう言って福島は、力無い頬笑みを俺に向けた。
「それだけですよ……」
「そっか」
俺がそう呟くと、そうです。と福島が答える。
それっきり、俺達は何も言わず、歌声に聞き入っていた。
この声を――美月は、自分で聞こえているのだろうか。今は聞こえていても、その内聞こえなくなってしまうんだろうか。
……それでも、歌い続けて欲しいと、俺は思う。そこに意味なんて無くても。自分で聞くことが出来なくても。他の誰かが聞いてくれるなら、きっと、それは意味がある筈で。
蝉時雨をバックに、聴こえる歌声を耳にしながら、俺は空を仰いだ。
もう夏も終わりだというのに、図太く生き残っている蝉の声が、四方から響き渡っている。
自分ではその声は聞こえていない筈なのに。それでも、鳴き続けている。