ディナーを続けるだけなんだよ
次は、見捨てられた国。ルワンダ。この国の悲劇をお伝え致しましょう。
ルワンダは、ベルギーの植民地となっていた国で、植民地時代に「顔の形・鼻の高さ・額の広さ・肌の色」など外見で、「ツチ族」と「フツ族」とに、勝手に分けられた事から問題が発生します(ツチ族の方がヨーロッパの人好みの顔)。
ルワンダ国内の民族は、ツチ族10%・フツ族90%という内訳になっています。そして、ベルギーは、顔の良いツチ側(全体の一割)を支援しました。
ただ、今までお話したものとは根本的に違うところがあります。それは、「文化は、ツチもフツも同じ」という事です。
今までは、アルバニア系とセルビア系だったり、イスラム教とキリスト教だったり、朝鮮人と日本人だったりという文化や民族意識または言語が異なる集団の対立でした。
しかし、今回のツチ族とフツ族は、ベルギーに占領されるまで同一の言語を使う同じ民族として暮らしており、侵略者に外見のみで区分けされた民族に過ぎないという違いです。厳密に分けると牧畜民族と農耕民族という違いがあるそうですが、それも昔からではなく徐々に分化したに過ぎないと考えられていますし、少なくとも彼らの文化は同じでした。
また、ベルギーがこの民族分けを行ったのは1920年前後の事です。
これがどの程度の違いかというと、分かりやすく例を上げれば東京都民と埼玉県民みたいな違いです。そして、東京都民をツチ族、埼玉県民をフツ族と分けた。そんな状態です。
ここでベルギーがツチ族を優遇したと書きましたが、上の形に当てはめて差別を表すと
「ダサイタマ県民、お前らは顔が悪いから電車使用禁止」
「ダサイタマは、顔悪いから彼氏彼女つくっちゃダメ。都民は綺麗だから作っていいよ」
「ダサイタマは、顔悪いからお前ら働いちゃダメ。都民はカッコイイから大臣になっていいよ」
というような扱いでした。
大臣になっていいよなんて例えが凄すぎるなと思われた方は、甘いです。ベルギー政府は、フツ族を公職から追放し、ツチ族のみに統治させる形を取りました。
また、ベルギーは、血の優れ劣りというものを引き合いに出してツチ族とフツ族の対立を煽りました。牧畜民族であるツチは高貴で、農耕民族であるフツは野蛮な民族で支配されるためにあるのだという思想で、ハム仮説と呼ばれるものでした。これにより、一気に対立が深まります。日本でいう士農工商やエタ・ヒニンのような関係だと思って頂ければよいでしょう。
ちなみに、私は埼玉県民です。
そんな中、1974年、フツ族がクーデターを起こしフツ族の政権となります。しばらくの間、ツチ族は反体制勢力を作り抵抗しますが、1993年に和平合意され戦闘が終結します。これによって、アフリカの地に平和がもたらされました。
しかし、和平の喜びに湧くなか、1994年にフツ族の大統領が暗殺されます(フツ族による陰謀という説があります)。この事件により暴れたのが民兵「フツ・パワー」です。民兵とは、ヤクザのような、非政府で組織された武装集団のことです。
「高い木を切れ」をスローガンにラジオなどで全国民にツチ虐殺を強制し、100日間で100万人を殺害しました。中国やフランスから購入した50セントの"ナタ"や様々な銃火器で、フツ・パワーは、1日1万人近くを虐殺していきます。
きょ……恐怖ですよ。
「高い木を切れ」
ナタもった人間が、人間を切って殺していくんですよ。
そんなの、ありえない……。
また、肉親や隣人を庇えば処刑、殺せと命じられたのに殺せなければ処刑されます。家は焼き払われ、川は死体の山で覆い尽くされました。
ルワンダには、それを題材にした非常に有名な映画があります。『ホテルルワンダ』という作品です。この作品の中で、最も印象深かったワンシーンをご紹介致しましょう。
ルワンダの和平の取材に来て、虐殺の混乱に巻き込まれる形となった白人の記者ジャック。
ジャックは、この作品の主人公で、フツ族でありツチ族の妻を持つ、ミル・コリンホテルの副支配人であるポールのもとに避難していました。
虐殺は過激さを増し、ポールは、ツチ族やフツ族の難民をホテルに受け入れることを決心します。その様子を見ていたジャックは、危険だと上司から禁止されていた虐殺現場の隠し撮りを敢行し、そして無事に生還しました。
その夜、虐殺の映像を本国へ届けてくれた事を知ったポールは、ジャックに感謝の意を述べます。
「ありがとうございます! これでルワンダは救われます!」
しかし、ポールの言葉にジャックは、力なく首を横に振りました。
「いや、先進国の人達はこの映像を見て、怖いねって言いながら、ディナーを続けるだけなんだよ」
そして事実、先進国は自国民だけを国外に避難させ、国連平和維持軍もほとんど何もできないまま、ルワンダは阿鼻叫喚を極める悲惨な運命を辿ることになったのです。
悲劇の国、ルワンダ。見捨てられた国、ルワンダ。何故、見捨てられたのか。
ルワンダにはPKO(平和維持活動)しか出ていないんですよ。PKOしか出ていないとはどういう意味か。
国連は「ジェノサイド」という言葉を用いませんでした。誰も「ジェノサイド」と言いません。ジェノサイドとは、集団殺戮の事です。そして、「ジェノサイド条約」なるものがあります。
ジェノサイド条約とは、第二次大戦の経験から、国民・人種・民族・宗教等による集団を迫害し殺害する行為を「国際犯罪」とし、「各国の協力」のもとに防止・処罰しようというものです。「国際犯罪」となり「各国が協力」しなければなりません。それが嫌だったんです。お金を出したくなかったのです。
繰り返しますが国連は、PKOしか派遣できなかった。その数なんと、たったの300人(正確には280人)。
その結果、虐殺は止まらず、先ほどの「高い木を切れ」となったわけです。また、ツチ族によって「ルワンダ愛国戦線」が組織され、フツ族も難民となり100万人が隣の国、コンゴに逃げました。
300人以下の人員でなんとかルワンダ国民を救おうとした国連ルワンダ支援団司令官のダレール少将は、事前に情報を得ていたのに虐殺の発生を防止できなかったこと、虐殺期間中も十分な活動を行えなかったことなど対する自責の念から任務続行が不可能となり、1994年7月にルワンダ愛国戦線が勝利を納めて虐殺が終結した後に退役しカナダに帰国しました。帰国後もうつ病やPTSDに悩まされ続けていたといいます。
そのダレール氏が、帰国後に出演したカナダのテレビ番組で、以下のように述べたそうです。
「私にとって、ルワンダ人の苦境に対する国際社会、とりわけ西側諸国の無関心と冷淡さを悼む行為はまだ始まってもいない。なぜなら、基本的には、非常に兵士らしい言葉遣いで言わせてもらえば、誰もルワンダのことなんか知っちゃいないからだ。正直になろうじゃないか。ルワンダのジェノサイドのことをいまだに覚えている人は何人いる? 第二次世界大戦でのジェノサイドをみなが覚えているのは、全員がそこに関係していたからだ。では、ルワンダのジェノサイドには、実のところ誰が関与していた? 正しく理解している人がいるかどうか分からないが、ルワンダではわずか三ヵ月半の間にユーゴスラヴィア紛争をすべてを合わせたよりも多くの人が殺され、怪我を負い、追放されたんだ。そのユーゴスラヴィアには我々は6万人もの兵士を送り込み、それだけでなく西側世界はすべて集まり、そこに何十億ドルも注ぎ込んで解決策を見出そうと取り組みを続けている。ルワンダの問題を解決するために、正直なところ何が行われただろうか? 誰がルワンダのために嘆き、本当にそこに生き、その結果を生き続けているだろうか? だから、私が個人的に知っていたルワンダ人が何百人も、家族ともども殺されてしまった――見飽きるほどの死体が――村がまるごと消し去られて……我々は毎日そういう情報を送り続け、国際社会はただ見守っていた……」
『ジェノサイドの丘―ルワンダ虐殺の隠された真実』
フィリップ・ゴーレイヴィッチ (著) 柳下毅一郎 (翻訳)
ルワンダについてはもっともっと情報があり、書いてしまいたいのですが、情報を並べすぎれば伝わらなくなってしまいますのでここまでにさせて頂きたいと思います。
もし、ルワンダについて興味を持たれた方がいらしたら、『ホテルルワンダ』をご覧になって下さい。とても心打たれます。




