あいのりとコソヴォと
『あいのり』という番組は、数人の男女を乗せた「ラブワゴン」が世界を回り、様々な環境を共にしてカップルを作ろうという趣旨の番組です。そのラブワゴンが、旧ユーゴスラビアの州だった「コソヴォ」という所にある小さな村に行った時の話です。
あいのりメンバーは、いつものように現地の人達の話を聞こうと、ある小さな村に入っていきました。ラブワゴンを降りてみると村の人達は、あいのりメンバーを嫌な顔一つ見せずに歓迎してくれて、通訳の人を介して会話をする事もできました。そうこうしている内に会話も弾み、一緒にご飯を食べる事になりました。
一緒にご飯を食べると心も安らぎます。あいのりメンバーはパートナーとなって欲しい人と楽しい時間を作れるよう色々と周りを観察しながらその食事会を楽しんでいました。
すると、一人のあいのりメンバーがある異変に気付きます。
「大人が、それも男の大人の人が、いない」
どういう事なのだろう。出稼ぎにでも出ているのだろうか。あいのりメンバーは、どうして大人の男性がいないのか、一人の女性に尋ねました。すると、その質問をした途端、会話がスッと消え、重く苦しい緊張感が辺りを包みました。そして、質問をされた女性は、突然泣き出してしまいました。
何がどうしたのか説明してくれと頼むと、涙ながらにその女性は、この村に起こった悲劇を話してくれました。
「私達は、アルバニア人なのですけれど、数年前にセルビアの男の人達が突然やってきて村にいた男性を一人残らずリンチして連れ去っていってしまいました。残された私達は、またやってきたそのセルビアの人達に襲われ、性行為を強要されました。さらに、無理矢理襲われた上に、子供を産む事を拒む事すら許されませんでした。堕ろさせないようにするために、妊娠した後は鎖で縛られて監禁もされました。
村にいた男の人は全員殺されてしまったのでしょう……、帰ってきてくれた人は一人もいません。将来を悲観して、子供と共に自殺した人も何人もいます。ですが、私達にあの子達を殺す事はできません。あの子達に罪は無いのですから」
涙ながらに話していた女性は、そこまで話すと、また泣き崩れてしまいました。その女性が話し出した事件の内容があまりにも唐突過ぎて、あいのりメンバーも困惑を隠せません。
「なんてセルビア人は、ひどいやつなんだ」
「なんでセルビア人は、こんな事ができるんだ」
「セルビア人は、そんなおかしな民族なのか」
と、みんなセルビア人の事を責めたてました。
通訳の人が周りの女性達に何を言っているのか伝えると、彼女達はその意見を肯定するかと思いきや、逆に顔を横に振りました。
「いえ、いえ、セルビア人が酷い民族な訳ではないんです。私達も……、過去に同じ事をしたんです。十年ほど前に、アルバニア人がセルビア人を殺し、アルバニア人の子供を産ませ、セルビアの人達に酷い仕打ちをしてきた事がありました……」
涙ながらに話す彼女の言葉に最初は困惑を隠せないあいのりメンバーでしたが、過去何十年も前から「民族浄化」という悲劇がアルバニア系とセルビア系との間で繰り返し行われてきたという話を聞き、どうしてこのような悲劇が起こったのかという事を理解しました。
あまりにも重く、あまりにも広がり過ぎた憎しみの連鎖を。
あいのりメンバーは、こんな悲しい事実が存在したということ、そして、自分達がそんなことすら知らなかったのだという事がショックで涙を抑える事ができませんでした……。
コソヴォ自治州(現コソヴォ共和国)は以下のように説明されます。
1997年以来、新ユーゴのセルビア共和国で、アルバニア系住民に対する組織的な民族浄化が行われてきた地域。1999年NATOは空爆を行い、ともかく民族浄化をやめさせた。
『政治経済一問一答集』山川出版
ここで出てくる「民族浄化」とは「民族が混住している地域において、異民族の追放や強制移住などによって、住民の民族構成の純化をはかろうとすること」と説明されます。具体的な内容は先ほど述べた通りです。
学問的な話になるとつまらなくなって(労力が増えて脳が疲れて)しまいますので、最低限の説明とエピソードだけお伝えして次の話に移りたいと思います。
【コソヴォの過去と今】
コソヴォとは、旧ユーゴスラビアの自治州の一つでした。旧ユーゴスラビアとはモザイク国家と呼ばれる多民族国家で「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現されました。
そんな国家を長年に渡って統治したのがチトーです。オスマン・トルコやオーストリア・ハンガリー帝国が戦争によって撤退し、ぽっかりと開いた空間、そこを戦乱の地にせずカリスマ性をもって統治したのがチトーです。
しかし、1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出しました。そして同年にコソボでの独立運動が再燃しました。
そこで周りがとった行動は、独立に反発し、大虐殺を行うというものでした。
セルビアの大統領、ミロシェビッチ氏を中心にジェノサイド(大量虐殺)が行われたのです。彼は、コソボ紛争でのアルバニア系住民に対するジェノサイドの責任者として「人道に対する罪」で旧ユーゴ国際戦犯法廷によって起訴されました。容疑が確定できなかったことと体調不良により審理は長引き、判決は彼の病死によって下されませんでした。
ただ、彼がこのような行動に出たのには理由があります。彼が、ベオグラードの共産主義者同盟幹部となり、1987年コソヴォに訪問した際に、アルバニア人から迫害されたセルビア人と出会い、「もはや侮辱されることはないだろう」と語ったという逸話があります。この悲劇の根幹は、民族の対立にあります。
この民族の対立は、第一次世界大戦(1914)よりも前から続く、深い悲しみを背負ったものだったのです。その悲しみの奥深さは、次のエピソードからも伝わるでしょう。
1999年、ユーゴへのNATOによる2ヶ月にわたる空爆で、国外に流出していた80万人のアルバニア系難民が帰還しました。コソボ自治州のプリシュティナではNATO主体の平和維持部隊が要所を固め、家々にはNATO諸国とアルバニアの国旗がはためき、いきかう人々の顔からも恐怖と悲しみは薄れつつありました。
しかし、町が一見落ち着いて見えるのは、ここがアルバニア系住民だけの町になったからです。セルビア治安部隊を撤退させた事により、今度は帰還したアルバニア系住民によるセルビア人への報復と迫害がはじまっていました。
セルビア人の居住区の村に住む子供たちは、たった1キロ離れた小学校に通うにも車両による集団登校を余儀なくされています。
セルビア人の11歳の少年は、こう語ってくれました。
「不便だけど、ここはまだいいよ。往復ともギリシア兵が装甲車で守ってくれる。中学校にはたまにしか来てくれないから、僕の兄貴は命がけで通ってる。先月も暴行された友達がいた。こわくて一歩も外に出たくない」(『AERA』2000,5,29)。
今、コソボは世界に向けて歩み始めています。
2008年にコソボ共和国として独立し、2013年6月末現在、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、日本など103ヶ国から承認を受けています。しかし、セルビア、ロシア、中国など独立問題を抱える国家や利害関係に反する国家は承認を拒否しており、まだまだ課題は残ります。
しかし、1つだけ言えることは、また紛争が起こった時に「大変だな」で済ませるのか、それとも紛争解決のために募金なり何なりの行動を起こせるのかは、あなたの意識次第だということです。