王様の猫 2
「こちらに来ませんか? 濡れてしまいますよ」
圭吾は思わずその女に声をかけてしまった。女は目を細め、まるでそう声をかけられると思ったといわんばかりに笑みを零す。
「いいの。すぐに行かなきゃ」
「どこへ?」
「飼い主のところ。私を探してるもの」
女が振り返る。その視線の先には、彼女のもの以上にボリュームのある毛皮のコートを方にかけた、大柄の男の姿が合った。男は本当に彼女を探しているらしく、周囲に取り囲む黒服の姿勢のいい男達に落ち着きなく指示を飛ばしていた。
「じゃ、早く帰ってあげなよ」
絡まれるのも面倒だ。圭吾は頬杖をつくと女の目を覗き込んだ。
気配には敏感な方だと自負があった。その自分の、いわばテリトリーに簡単に侵入したこの女のことを知りたくなったのだ。
「ダメよ」
「え?」
女はそんな圭吾の心中を見透かしているかのように首を軽く横に振ると、首を傾げた。
首につけられた金の鎖がシャラリと音を立て、夜の明かりに鈍く光る。
「お兄さん、普通の人間と違うんだ」
断定されたのは初めてだった。変わっていると言われたり、警戒されたり気味悪がられることはあっても、「違う」と言われたことはなかった。
思わず声を漏らし、女の顔をまじまじと見つめる。
「どっちかって言うと、私達に近いのかしら?」
「どうでしょう」
圭吾は本当に困って眉をひそめた。
どう近いのか、その意味合いによっては返事が変わる。ただ、漠然的な意味で言えば、例えばこの街の一部になっている、とか……そのように思えた。
「ね、あの男から私を救えない?」
「どうでしょう?」
今度は意味合いより可能性のほうで圭吾は返事を濁した。
女は肩越しにあの毛皮の男を振り返り、声を落とす。
「あの男、知ってるでしょ?」
「まぁ」
見た事のある顔だ。この街には何人か区画ごとに仕切る人間がいるが、たぶん、あの男はそのうちの一人だったように思う。
「私、彼が嫌いなの」
「なんでも、してくれそうだけど?」
圭吾は彼女の首にぶら下がった、高級そうな金の鎖に目をやった。女は圭吾に顔を向けなおすと苦々しい顔をして舌先を出した。
「いやぁよ。確かに、何でもくれるし、優しいけどさ。毎日どっかの誰かと喧嘩ばっかり」
「そうなんだ」
「戦争がすきなんだってさ」
女はほとほと呆れたと言わんばかりに肩をすくめると、ようやく傘の中に入り、圭吾の机に身を預けるようにもたれかかった。
「ホント、ばっかみたい」
「でも、彼は戦争がうまそうだ」
「確かにね。負けなし。だから、性質が悪いのよ。負けないからやめる気なんかサラサラないもの」
女はそこでにやりと口の端を吊り上げた。
「ね、お兄さん。愛で私を救わない?」
それは冗談にしか聞こえない台詞だったが、同時に試されているようでもあった。圭吾はじっとその、メス猫の瞳を見つめた。
その瞳は何にも語らない。初めてみる、瞳だ。
面白いと思った。同時に、持論を証明したいという、圭吾にすれば久々の意欲らしきものも沸いてきた。そんな自分自身を、圭吾はどこかで面白がりながら「そうだね」と顎を撫でた。
じっと、毛皮の男の方へ目を凝らす。
やはり、彼の内側がすぐに浮かんできた。そして、判断する。
救いの意味合いではなく、可能性を。
「いいよ。僕にならできそうだ」
「ほんとに?」
女が嬉しそうに瞳を輝かせた。圭吾は男を読み取りながら、口元だけ動かす。
「彼から自由にはしてあげられる」
「アナタが、できるの?」
圭吾は頷き、そしてまだ信じられないとでもいいたげな彼女に囁いた。
「ただし、愛でじゃない、金で、だ」
圭吾はそう言うと、女に名を訊いた。女はさも興味なさそうに
「何でもいいわ。あの王様は私をユキと呼ぶけど、その前のご主人様はヒメって読んでたし、その前はコネコちゃんだったわ」
「親につけてもらった名はないのか?」
「私の親の義務の中には、名前をつけることは含まれていなかったみたいなの」
女は肩をすくめると、小さく自嘲の意味なのか鼻を鳴らした。
「だから、あなたがご主人様になったら、アナタが名前をつけてよね」
「つけないよ」
圭吾は独り言のような声でそう告げながら、店じまいを始める。
といっても、50円の灯篭の明かりを消して、足元に置いてあったバックに突っ込み、傘を閉じるだけなのだが。
「僕は君の主人になんかなるつもりはない」
「でも、言ったじゃない。救ってくれるって」
「そう。主人になるとは言ってない」
少々不満げな顔をして不安を訴える女をよそに、圭吾は手際よく荷物を纏めると、すっくと立ち上がった。机をビルの合間に収め、壁に立てかけていたこうもり傘を開ける。
「でも、私、行き場をなくしちゃうわ」
女は身をすり寄せそうな距離で圭吾を責める目で見上げている。それをちらりと見やり、圭吾はため息混じりに問いを女に差し出した。
「君は、どっちなんですか? 自由になりたいの? 束縛されたいの?」
「あの男は嫌いなの。でも、独りにはなりたくないの」
「どうして?」
それこそ、自由だよ。と圭吾は不思議に思う。それは彼自身、自由を愛し、孤独を常にしていたからだ。
生きている、いや、圭吾の場合生れ落ちた、それだけで様々なものに雁字搦めになると言うのに、自らがなにかに絡めとられるのなんか真っ平ごめんだった。だから、少なからず彼女の「自由」と言う言葉に共感し、手助けしようと思ったのに……半ば落胆に近い思いで圭吾は彼女の答えを待った。
遠くから男達の声がした。
彼女を見つけたようだ。
女は顔を強張らせ、目だけで空気を牽制すると自らの答えを急くように眉を潜める。
「そんなの、決まってるじゃない」
「なに?」
「寒いからよ」
女はそういうと自らの毛皮を抱きしめるように身を縮め、振り返った。彼女の名……彼女いわく王様がつけた名前を口にする彼らに、愛想よく微笑みかけた。
背をむけたまま、女は圭吾にすがる。
「必ず、救ってよね」
「主人にはならないよ」
「かまわないわ。でも、居場所はちょうだい」
「随分ずうずうしいな」
圭吾はそういいながら、コートにぞんざいに突っ込んでいた愛用の中折れ帽を取り出し、目深に被った。
「でも、お兄さん……」
女が肩越しに振り返る、そして、雨の歓楽街によく似合う極上の笑みを浮かべた。
「私に、興味あるでしょ?」
圭吾はその瞳をもう一度覗いてみた。
深い緑のそれは底がなく、また、一瞬一瞬で輝きを変える。深く艶かしく、それでいて何もやはり視せないその瞳……敵わないな、と思った。圭吾は苦笑すると、男達の鋭い声を背中に感じ歩き出す。
手を打つ前に関わるのは面倒だ。
女は答えを得られなかったもどかしさに、少々苛立った様子ではあったが、追いかけてはきそうになかった。きっと、圭吾が彼女を自由にすると言う約束を信じたという証を、その態度でみせているのだろう。
野太い男が「ユキ」と彼女を抱きかかえる気配を最後に、彼女の視線は雨と湿気とともに肌に纏わりつく酒の臭いの向こうに消えた。
「さて、いくらかかるかな」
圭吾は空を見上げる。
ネオンと電線に縛られた夜空には雨雲さえも無表情で、この夜の出会いの意味を教えることはなさそうだった。