王様の猫 1
裏路地に落ちてくる雨粒は一粒も違わず全てが冷たく、しみったれていた。ネオンの中に落ちる雫もあれば、鮮やかな色の傘の上に舞い落ちるものもあるというのに、こんな嘔吐物と小便と生ゴミの臭いがするような場所に落ちてくるんだ。無数の雨粒の中でも落伍者としかいいようがないように思えた。
しかも、その生まれは、多少の風や何かの気まぐれに左右されることはあっても、たいていは雨雲から滴り落ちた瞬間に決まっており、そういう意味では、生まれつきの負け犬ということにもなる。
救いようがないな。
圭吾は、そんな事を考えながら、自分の背中に広がる暗闇から目を離した。
目の前には行き交う人々の姿がある。時間帯的に深夜にさしかかろうとする頃合なのに、人の影が途絶えないのは、この猥雑な街の特徴の一つなのだろう。不景気のあおりもあって、一時よりも人工の灯りに照らされる人々の顔が押しなべて冴えないのをのぞけば、いつの世もこの街に変化、特に好転的なそれはみあたらない。
堕ちる一方なのだ。
「兄さん。そんなとこに座ってて、儲かるの?」
黒服の人のよさげな青年が話しかけてきた。チラチラと圭吾の前にともされている『占い』の灯篭を興味深げに見ている。
圭吾は椅子を深く座りなおし、机の上に手を組んでおくと静かに微笑み「不景気なほど儲かる商売ですから」とやんわりと直接の回答は避けた。
頬を緩め、目を細め、こちらも人当たりのよさそうな顔を向けるが、その実、この場所を仕切る連中の顔を思い浮かべていた。
圭吾の仕事は道端で、小学校の裏に捨てられたあった机と椅子を並べ、リサイクルショップで50円で買った灯篭を置き、尋ねてくる人の話を聞くことだった。雨の日にはこれまた拾ったキャンプ用の傘を広げる。手軽で気ままな商売だ。
仕入れも店舗も要らない。休日だって気分次第だ。ただその変わりに、時々地面を這いわずかばかりの泥水まで掬うような連中に「しょば代」という名目で金を巻き上げられることはある。この青年もその輩かと思ったのだ。
否、と思いなおす。
ここを取り仕切る頭には話は通してある。しょば代も払い済みだ。とはいえ、そういった良心的な常識が通じない世界であることくらい圭吾も知っていたので、自分の慎重さというより臆病さに内心苦笑しつつ、青年の目を覗き込んだ。
青年はよほど50円の灯篭が気になったのか、指先でもてあそんでいる。
「じゃ、兄さんには今は好景気ってわけだ」
羨ましさが素直に滲み出るその声に、圭吾の脳の奥が震えた。
ゆっくりと、青年の内面が圭吾の脳裏に浮かんでくる。
すぐに流れ込んできたのは、牧歌的な空気だった。草と土の臭いが混じりあい、かすかに獣の臭いもする。ついで糞尿の混じった独特の臭気が追いかけてきて、圭吾はすぐにそこが牧場なのだと知った。
ひんやりと冷たく、ひりひりとした痛みを感じる。ガラスが砕け散るような音と、鼓膜を破く勢いの怒声。すがりつく手の存在も感じた。そして、最後にハッキリ見えたのは、この青年の目によく似た中年の女性が顔を歪め、肩を落として俯く姿だった。
「あぁ」
圭吾は思わず呟き、黒服の青年を見上げる。
きっと彼は経営破たんした牧場主の息子なのだ。借金取りに追われ、彼は事情あってこの街に流れて来たに違いない。
これまでもよく似たパターンを幾つも見てきた圭吾は、子細まで視ずとも見当をつけ、彼を視るのをやめた。
「何?」
青年が不思議そうに傘を傾けた。
圭吾は微笑み
「そちらこそ、お仕事の調子はどうですか?」
とだけ口にする。青年は肩をすくめ、下唇を少々突き出すと
「こうも雨が降ったら、どうもこうも……」
そう愚痴り、口を閉ざした。
雨音が下品な光と下品な街を包んで行く。
圭吾は黙って、青年と町を眺めた。
青年と鑑賞する風景には、男に足蹴にされる女がいたり、この雨の中額をこすりつけるように土下座するサラリーマンの姿があったり、小銭が稼げるからという稚拙な言葉に頭の弱い子どもが引っ張られていくこと姿があった。だが、それらはいつものことだ。今日と明日、その登場人物の顔は多少変わってくるのかも知れないが、かといってそれが哀しいわけでも、愛おしいわけでもない。
ただ、毎日バカのように繰り返されるだけの事実であり、ドラマでも事件でもない。
そうして、やはり圭吾は思うのだ。世の中はお金なんだろうなと。
全てが金を中心に回っている。認めたくない偽善者が必死に否定しようとすればするほど、圭吾は奇妙に思えてならない。
この街を見てみろといいたくなる。
君はこの街をどう思うのか? 世界の吹き溜まりのようなこのありふれた風景に流れる、怒声や涙や命を……君の言う金以外の何かで変えることはできるのかい? と。
青年を見上げた。
ちょうど彼はカモを見つけたところらしい。まだ幼さの残る顔を崩し「お、ちょっと行ってきます」とわざわざ断る必要もない圭吾にそんな言葉を残し、道の向こうへ駆けていってしまった。
青年がキャバクラ嬢まるだしの女性二人組みの前に立つ。彼、本来の人の良さはきっと警戒心を解くのに役立っているのだろう。二三言話すだけで、たちまち女達の相好が崩れるのが雨のカーテンの向こうで見えた。
数字が浮かぶ。
300万。
たぶん、あの青年が背負っている数字だ。この数字のために、たぶん、彼はあの二人を食い物にしようとする。そして、それは成功するのだろう。
目を瞑った。意識を集中させる。
さっきよりももっと意識の奥深くに、ちらっとだけ光景が掠めた。
女二人のうち一人が、あの青年に涙と涎をたらしながら床に這いつくばって札束を差し出す姿だ。顔はやせこけ、目の焦点は合っている様子もない。特徴的な姿に圭吾は苦笑し目を開けた。
そうか、その方面で活躍するのか。
女性の行く末より、あの青年がこの街のさらに深みにはまって行く事の方に感心し、息をついた。
青年が女性達と微笑み会いながら雨の向こうへ消えて行く。
別に悲しい話じゃない。惨い話でもない。
この街のありふれた風景なのだ。
「み~ちゃった」
ふと視界に影が差して、圭吾はおや? と顔を向けた。
気配に気がつかなかったのだ。
「お兄さん、凄いね」
そこには真っ白な毛皮を身にまとった若いメス猫が立っていた。
雨の中、濡れるのも気にせず、むしろ身に降りかかる雨粒をその白い毛並みの上で真珠に変えるかのごとく煌かせた女は、なまめかしくその口元を吊り上げた。