私が中学生だったときの話
好きだったものには、好きだったときの記憶が宿る。
記憶は薄れていくけど、なぜかずっと忘れないものもあったりする。
これは私が好きだった季節の話。
季節は巡るけど、同じ季節は二度と来ない。
だけど夏が来る度、私はある時の記憶を思い出す。
——夏が来る度に思い出すのは、いつもシーブリーズの匂いだった。
「西宮さんってさ、好きな季節とかある?」
1時間目の授業が始まる前の時間。
隣に座る神宮寺くんは尋ねてきた。
「私は夏が一番好きかな」
「えー夏?」
「神宮寺くんは嫌い?」
「マジで嫌いだねー」
サッカー部って夏休みに練習試合とか多いから、神宮寺くんは夏が嫌いらしい。
——中学生2年生だったときの私には、好きな人がいた。
その人の名前は神宮寺くん。
「じゃあ西宮さんはなんで夏が好きなの?」
「夏が好きっていう感じじゃなくって、夏の曲が好きなんだよね」
「夏の曲ってなんかある?」
「たくさんあるよー」
『サマータイムレコード』とか『あの夏が飽和する。』とか『アイラ』とか。
神宮寺くんと話をするようになったのは、音楽がきっかけだった。
サッカー部の人もボカロ曲とか聴くんだなって思った記憶がある。
1時間目のチャイムが鳴り、先生が教室に入ってきた。
夏休み前の教室は、どこかふわふわしている。
「ごめん西宮さん、教科書見せてくれない?」
「えー神宮寺くん、また教科書忘れたの?」
別にいいけど、と呟いて私は机をくっつけた。
神宮寺くんは、忘れものをよくする生徒だった。
見た目はしっかりしてるのに、ちょっと抜けてるっていうか。
「帰りにジュース奢ってね」
「ごめんごめん」
校則違反の約束をしつつ、教科書を机と机の間に置いた。
「じゃあ部活終わったら校門で待っててよ」
「オッケー」
こくりと頷いてから、私たちは真面目に授業を受け始めた。
何事もなく授業が終わって休み時間に入る。
「神宮寺くんってさ、いつもシーブリーズつけてるよね」
「やっぱわかる?」
「めっちゃわかるよー」
隣なんだから、あの爽やかな匂いに気づかないはずがない。
神宮寺くんによると、サッカー部は朝練があるらしい。
終わったあとの汗の処理のためにシーブリーズをつけているという。
「シーブリーズのどれ使ってるか当てさせてよ」
「いいよ」
「えーと、スプラッシュマリン」
「正解」
そう言って神宮寺くんは、リュックの中からシーブリーズのボトルを取り出した。
私の予想通り、神宮寺くんはスプラッシュマリンを使っていた。
「西宮さんもシーブリーズって使ってるんだっけ?」
「部活が終わったあとにつけることが多いかな」
私は卓球部だった。
だから部活終わりに汗の匂いを消すために使っている。
つけたあとに皮膚がさらさらするのも好きだった。
「何回か一緒に帰ったことあるけど、全然気づかなかったかも」
「まあ私の使ってるのってそんなに匂い強くないからね」
そんなことないと思うけど、いちおうフォローを入れておく。
嫌な人だって思われたくなかったから。
一緒にいて心地いい人だって思われたかったから。
「じゃあ部活終わったらまた会おうね」
「うん」
授業が終わった放課後。
神宮寺くんと玄関で別れて第2体育館に向かう。
第2体育館、と言ってみんなわかるのかはわからない。
でも私の中学ではそう呼ばれていた。
体育とかで使うのは第1体育館で、卓球部と柔道部とかが使うの第2体育館。
でも柔道部は部員が少なくって練習も少なかった。
だから第2体育館は、卓球部が独占している状況だった。
「失礼しまーす」
下駄箱に靴を入れ、頭を下げてから第2体育館に入る。
挨拶する理由はわからないけど、そうしろって顧問が言うからしていた。
顧問がいなかったらする必要はないけど、癖でなんとなくしてしまうものだ。
すたすたと歩いていき、女子更衣室に入る。
「あっ西宮さんこんにちはー」
「こんにちはー」
すでに1年生の部員が着替えをしていた。
男子部員に見られないように、すぐに扉を閉める。
いつもの場所に鞄を置いて着替えをしていると、その子がおもむろに口を開いた。
「西宮さんのクラスって2-Bでしたっけ?」
「そうだよ」
「それなら神宮寺って苗字の人いません?」
どくんと心臓が跳ねた。
いきなり神宮寺くんの名前が出てくると思わなかったから。
「……いるけど、それがどうしたの?」
平静を装いながら、いつも通りの声色で尋ねる。
「なんか、ウチのクラスにその人のこと好きって言ってる人がいたんですよ」
とてもストレートな言葉だった。
だから私は「そうなんだぁ……」としか言えなかった。
「それって誰から聞いたの?」
「バレー部の友だちから聞きました」
「その子が好きな感じ?」
「らしいですよー」
ちょうどそのとき他の部員も入ってきたので、それ以上聞くことはできなかった。
そのあとの練習はどこか浮ついていたと思う。
いつもより動きが悪いっていうか。
練習が終わり後片付けを済ませてから更衣室に戻る。
もうすでに、更衣室には数人しか残っていなかった。
その子たちは最近流行りの曲の話をしながら、のんびり話をしていた。
流行りとか追えてないから全然わからないな、と思いながら手早く着替える。
そのとき私は、いつもより多めにシーブリーズを付けた。
「西宮さんおつかれー」
「おつかれ」
私は軽く手を挙げる。
神宮寺くんは制服を着ていた。
校則で練習着で帰ることは禁止されていたからだ。
彼から、朝も香ったスプラッシュマリンの匂いが鼻を抜ける。
「じゃあ帰ろっか」
「うん」
私たちは横並びで歩き始めた。
「あー西宮さん、シーブリーズつけてるね」
「女の子の匂い嗅ぐとかセクハラだよー?」
「そうなの?」
ごめんごめん、と言って彼は私から離れた。
神宮寺くんに離れて欲しかったわけじゃない。
ただ冗談で言っただけだ。
でも異性とのコミュニケーションというのは難しい。
たぶんお互い気にしてたから、そうなったんだと思う。
数センチだけ離れた距離感をもどかしく思いながら歩き続けた。
近くにあった自動販売機でジュースを買う。
神宮寺くんが小銭を入れて、私がボタンを押した。
「これでチャラってことで」
「まあいいよ」
ありがとね、と言ってペットボトルを鞄に入れた。
あのときはそんなことをよくしていた。
困ったときは助けを求めて、ジュースを買う。
ジュースを買えばチャラになるから、気負いせずに頼ることができた。
教科書忘れたから見せてとか、
宿題の中でわからない問題があったとか、
今日は出席番号的に当たりそうだから答え教えてとか。
そういうちょっとしたことを、私たちは助け合っていた。
だからこそ、今の関係性をどうしても守りたかった。
神宮寺くんのことが好きな子に、今の関係を壊されたくなかった。
……なんていえば、ちょっと重めの子に思われるかもしれない。
たしかにそういう風に思っていたかもしれないけど、今にして思えばってことだ。
あのときはそんなに深くは考えてなかった。
「神宮寺くんってさ、好きな人とかいるの?」
自動販売機を離れてしばらく歩いてから、神宮寺くんと視線を合わせずに尋ねた。
「なにいきなり」
「いやー普通に興味?」
「興味で好きな人って……」と神宮寺くんは苦笑いをする。
昼の熱気を攫うそよ風が、私たちの間を通り抜けた。
前髪が崩れないため、反射的に髪を押さえる。
「西宮さんはどうなの?」
「えー私?」
ぎこちない雰囲気にならないように、できるだけ軽く感じで話を続けた。
「神宮寺くんが言ったら私も言おうかな」
「いやそれ、こっちが言うだけ言って西宮さんは言わないヤツでしょ」
「そんなことないけどねー」と言って髪に触れる。
大丈夫、ちゃんといつも通り会話をできているはずだ。
「私はほんとに言うけど?」
「うーん、信用できないなぁ」
「え、私ってそんなに信用されてない?」
普通に傷付くんだけど。
「じゃあもし私が好きな人を言わなかったら、ジュース5本奢るよ」
「……それならまあ、言っても良いかな」
神宮寺くんの好きな人を知る秘密は600円前後の価値らしい。
安いかどうかはわからないけど、当時の私にはそこそこ高かった。
交渉が成立し、神宮寺くんが好きな人を言うことになった。
「個人名まで言わないといけない感じ?」
「そこは神宮寺くん次第だねー」
自分も言わないといけないリスクがあったので、そこはぼかした。
もし神宮寺くんが個人名まで言ったら、私も個人名まで言わないといけないから。
心臓がドクドクしているのを感じながら、神宮寺くんの言葉を待つ。
白い軽自動車が通り過ぎたタイミングで、彼は口を開いた。
「好きな人はまあ、同じ学年にいるって感じかな」
それを聞いて私は心から喜んだ。
バレー部の子はひとつ下の学年だったから。
もしその子が神宮寺くんのことが好きでも、付き合うことはないはず。
「それで?」と言って話を促す。
「とりあえず、西宮さんも学年とかは言ってくれない?」
「まず神宮寺くんの話から聞きたいんだけどー」
感情を隠しながら、神宮寺くんに視線を向ける。
薄暗くなっているから、お互いの顔はそこまではっきりとは見えなかった。
私の顔が見られないことに安心しつつも、神宮寺くんの顔が見えないのは寂しい。
だから私は少しだけ彼に近づいた。
神宮寺と私のシーブリーズの匂いが混ざる。
「西宮さんが学年を言ってくれないと、それ以上のことは言わないけど」
「ふーん」
じゃあ私も言わないとじゃん。
少し間を開けてから、私は呟いた。
「私の好きな人も、同じ学年だね」
神宮寺くんの顔をちらっと見ると、すぐに視線を逸らされる。
恋バナをしたことがない、うぶな反応だった。
それがちょっとおかしくって、笑みが零れる。
——同じ学年の中にお互い好きな人がいる。
それを知れただけで、かなり嬉しかった。
1学年200人規模の中学だから、自分がその人なのかはもちろんわからない。
でも自分だったら良いなって本気で思った。
「それで、他の情報は何かくれないの?」
「もうそれくらいの方が安全だと思うんだけど」
神宮寺くんは少し躊躇いを見せる。
それもそうだ、自分から言わないといけないんだから。
「どの部活に入ってるかとか教えてくれない?」
「いや、それ言ったらだいぶ絞られるじゃん」
逆に絞られない情報とか聞いても意味ないでしょ。
「じゃあ運動部か文化部かだけは教えてくれない?」
神宮寺くんの好きな人は知りたいけど、自分じゃなかったら嫌だ。
だからこそ、絞られすぎない情報を教えてもらうことにした。
深呼吸をしてから、神宮寺くんは呟く。
「運動部だね」
「ふーん」
「西宮さんの好きな人は?」
「運動部だったかなー」
「ちょっと濁すのやめてくれない?」
「えー?」
はっきり運動部って言えるわけがない。
だって私の好きな人、目の前にいるんだから。
同じ学年で運動部の女の子は、ざっと30人くらい。
まだ私はその中に残っている。
両想いって確信できたらもっと踏み込めるのにな、って思った。
でも私はそれ以上深掘りすることができなかった。
だって自分は好きなのに神宮寺くんは他の子のことが好きって実質フラるものだし。
別れ道で神宮寺くんと別れて、私は自分の家に真っすぐ向かった。
夏休みに入ると、サッカー部は学校に来ることはほとんどなくなった。
もし付き合ってたら夏休みどうなってたかな、と思いながら私はその夏を過ごした。
9月に入ってからのことだった。
卓球部員の1年の女の子からあることを耳にした。
神宮寺くんは、1年のバレー部の女子と付き合うことになったらしい。
その子はどういう過程で付き合うことになったか、詳しく教えてくれた。
夏休みに入って、たまたま帰るタイミングが同じで花火大会に行くように誘ったらしい。1週間くらい考えさせてって言われて、結局オーケーして一緒に行くことになった。それで当日の帰りに告白したら、また1週間考えさせてって言われたが、結局それもオーケーされて、付き合うことになったという。
裏切られた、という気持ちが一番に来た。
だってあのとき、神宮寺くんは同じ学年の中に好きな人がいるって言ってたから。
それなのに1年の女の子と付き合うなんて、嘘を吐いていたんじゃないかって。
今にして思えば、私の視野が狭かった。
好きな人がいるからと言って、告白を断る理由にはならない。
もし振り向いてもらえないと思ったのであれば、諦める可能性だってある。
そんな言い訳をしながら、私はその事実を受け止めた。
神宮寺くんは私のことを好きだったけど、諦めてその子と付き合ったということにしたのだ。そうしないと、自分のプライドを守れなかったから。
それ以降、神宮寺くんと話をすることは少しずつ減っていった。
3年生に上がったら別々のクラスになって、もっと距離が生まれた。
あの時なら行けたかも、なんて未練たっぷりのまま私は中学を卒業した。
神宮寺くんがどこの高校に行ったのかは知らない。
少なくとも、私が入学した高校じゃなかった。
中学を卒業してから、私は神宮寺くんと会ったことがない。
今更あっても、どうすることもないんだけど。
これが私が中学生だったときの話だ。
この話は失恋なのかもしれない。
付き合うことができないまま終わったわけだし。
でもそれを『苦い思い出』というラベルを張ることはどうしても憚られた。
たぶんシーブリーズの匂いのせいだ。
別の子と付き合った彼も、
勇気が出せなかった自分も、
中学2年生の夏という空間も。
その全てが、爽やかな匂いを纏っていた。
神宮司くんの顔は薄れても、その匂いは今も色あせていない。
——夏が来る度に思い出すのは、いつもシーブリーズの匂いだった。




