第6話 :赤い封筒の遺言(前編)
――この部活は、死者のためだけにあるわけじゃない。
放課後の遺言部に、控えめなノックの音が響いた。
「どうぞ」
冷泉が視線を上げずに答えると、扉がゆっくりと開く。
入ってきたのは、2年C組の有馬詩織だった。
合唱部でピアノ伴奏をしている彼女は、普段から声も小さく、存在すら空気に溶け込んでしまいそうなほど静かな少女だ。
そんな彼女が今、両手で大切そうに握りしめているのは――真っ赤な封筒だった。
「……これを、預かってほしいんです」
かすれるような声。
テーブルの上に置かれた封筒の表書きには、整った字でこう記されている。
『遺言』
一ノ瀬の視線が、そこに吸い寄せられた。
冷泉が静かに問いかける。
「あなたが死ぬ予定でもあるのかしら?」
「違います……!」
有馬ははっと顔を上げ、すぐに首を振った。
「死ぬのは、私じゃなくて……この気持ちです」
その言葉に、部室の空気がわずかに重くなる。
有馬は視線を落としたまま、ゆっくりと話し始めた。
相手は、サッカー部のエース・瀬戸。
幼馴染で、ずっと隣にいた人。
そしてその瀬戸は、この冬、Jリーグのユースチームに選ばれ、隣県の強豪校へ転校する。
「……24日の夜、八時五分の電車で、この街を出ます」
クリスマスイブ。
祝福の日にしては、あまりにも残酷な別れのタイミングだった。
「彼は、ずっと目指していた場所に行けるんです。やっと……夢が叶う」
有馬の指先が、封筒の端をぎゅっと掴む。
「だから私は……何も言えない」
小さく、でもはっきりとした声だった。
「ここで『行かないで』なんて言ったら、彼の未来に泥を塗ることになる。だから……」
一度、息を飲む。
「この手紙は“遺言”なんです」
部室の時計が、カチ、と鳴った。
「この気持ちを、ここで終わらせたい。……誰にも届かない場所に、埋めてください」
冷泉は一ノ瀬を見た。
その視線は静かに告げている。
――依頼として成立しているわよ。
だが。
「……嫌だね」
一ノ瀬は、あっさりとそう言った。
有馬が、顔を上げる。
「え……?」
「預からない」
はっきりと、拒絶。
「どうしてですか……!?」
声が震える。
「どんな想いでも預かるのが、この部の……」
「違うよ」
一ノ瀬は静かに首を振った。
「どんな想いでも預かるわけじゃない」
椅子から立ち上がり、有馬の前まで歩いてくる。
「遺言っていうのはね――」
少しだけ言葉を選ぶ間。
そして、まっすぐに言った。
「“このままじゃ、もう届かなくなる相手”に向けた最後の言葉なんだ」
有馬の呼吸が止まる。
「でも瀬戸くんは、生きてる」
一歩、距離を詰める。
「24日の夜、ちゃんとそこにいる」
逃げ場を塞ぐように、続ける。
「それをここに埋めるのは違う」
静かな声。
でも、逃げられない。
「それは“遺言”じゃない」
ほんの一瞬、間を置いて。
「ただの“未送信”だ」
「っ……!」
有馬の肩が震えた。
「私は……彼のために……」
「違う」
今度は、即答だった。
「自分のためだよ」
言い切る。
「怖いんだろ?」
優しくもなく、責めるでもない。
ただ事実を置く声。
「振られるのが。壊れるのが。今の関係が終わるのが」
「……!」
「それを“彼のため”って言い換えてるだけだ」
沈黙が落ちる。
逃げ道は、もうなかった。
一ノ瀬は少しだけ息を吐いた。
「瀬戸くんはエースだ」
淡々と続ける。
「プレッシャーの中で戦ってきた人間だよ」
視線を外さずに言う。
「そんな人が、一人の女の子の気持ちひとつで壊れると思う?」
有馬は答えられない。
ただ、唇を噛む。
「君が怖いのは、彼の未来じゃない」
少しだけ声が柔らかくなる。
「自分の未来だ」
その言葉が、深く刺さった。
長い沈黙。
やがて、一ノ瀬はふっと表情を緩めた。
「……ねえ、有馬さん」
穏やかな声。
「その手紙、僕たちに任せてみない?」
「……え?」
「捨てるんじゃない。届けるんだ」
冷泉が小さくため息をついた。
「……また勝手に話を広げる」
一ノ瀬は机に学園の地図と時刻表を広げる。
「24日、20時05分」
指で叩く。
「ここが分岐点だ」
彼の瞳に、あの“スイッチ”が入る。
「この“遺言”を――」
一度、言葉を区切る。
「未来を動かす“契約”に変える」
有馬の手の中で、赤い封筒がかすかに震えていた。




