第5話 :暦からこぼれた日(前編)
今回は新しい依頼です。
少しだけ毛色が違う、“記録から消された人”の話になります。
成瀬くんの「二十年目の卒業式」から、一週間。
私立聖蘭学園の校庭を包む冬の朝、一ノ瀬涙は泥に塗れた軍手をはめ、霜の降りた地面に這いつくばっていた。
「……ひっ、ふぇっ……! 校長先生はあんなに喜んでくれたのに、教頭先生が『感動と校則は別だッ! 機材無断使用の罰だッ!』って鬼の形相で……うわあああああん!!」
絶叫と共に、一ノ瀬の涙が冷たい土にぽたぽたと落ちる。
IQ180という明晰な頭脳は、今、自らが「英雄」から「校庭の雑草処理係」へと転落した現実を、耐え難い屈辱として処理していた。
「黙ってやりなさい。手が止まっているわよ。あなたが無駄に泣くせいで、土の水分量が上がって作業効率が落ちるわ」
隣で淡々と雑草を抜いているのは、副部長の冷泉凛。彼女もまた「共犯」として罰を受けていた。
「冷泉、君は血も涙もないのか!? 僕たちは学園の歴史を動かしたんだよ!?」
「ええ。その結果が、この120平方メートルの除草よ。受け入れなさい」
非情な現実である。
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一限のチャイム直前。
どうにか泥を落とし、教室へ滑り込んだ一ノ瀬は、机に突っ伏した。
「……一ノ瀬、またやられたのか?」
声をかけてきたのはサッカー部の佐々木。呆れ顔で温かいお茶を差し出してくる。
「ほら、飲め。お前の泣き声、廊下まで聞こえてたぞ」
「……うう、佐々木くん……君だけが友達だよ……」
その様子を見ていたクラスの情報通、田中が椅子をくるりと回して身を乗り出した。
「ねえ、一ノ瀬くん。君って“学校の古い謎”とか得意でしょ?」
「……得意というより、巻き込まれる体質なだけだけど。何だい?」
田中は声を潜める。
「あのね、図書室の“貸出カード”の噂、知ってる?」
「貸出カード? 今はバーコード管理のはずだろう」
「旧校舎の資料室にね、返却期限が『2月30日』になってる本があるっていうの」
「……2月30日?」
そんな日付は存在しない。
「しかもね、そのカードに書かれてる名前――十数年前に突然いなくなった司書の先生なんだって」
教室の空気が一瞬だけ冷えた気がした。
「夜にその本を見つけると、その先生の“探している声”が聞こえるって……」
「……なるほど」
一ノ瀬の瞳に、わずかな光が灯る。
「存在しない日付。消えた人物。未返却の本。……典型的な“未完の物語”だね」
⸻
放課後。
一ノ瀬はカバンを掴むなり、冷泉の教室へ飛び込んだ。
「冷泉! 旧図書資料室へ行こう。暦からこぼれ落ちた日付を回収するんだ!」
「……あなた、ついに時間そのものに喧嘩を売り始めたの?」
「これは単なる噂じゃない。『待ち続けている誰か』がいる」
冷泉は小さくため息をつき、立ち上がった。
「……いいわ。どうせ放っておいても、あなた一人で突っ走るのでしょう」
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旧校舎、図書資料室。
かつての知の中心は、今や埃と静寂に支配されていた。
懐中電灯の光が本棚をなぞる。
一冊ずつ、カードを確認する。
時間だけが過ぎていく。
一時間後――
「……ない」
一ノ瀬は床に座り込んだ。
「歴史、地学、文学……全部見た。でも“2月30日”なんて一冊もない」
「当然ね。最初から存在しない可能性の方が高いわ」
冷泉が出口へ向かおうとした、その時。
「……待って」
一ノ瀬の視線が止まる。
本棚の足元に、一枚の古びた栞が落ちていた。
深い青色の革。手作りのような質感。
そしてそこには――
「……白鳥?」
翼を休める白鳥の紋章が刻まれていた。
冷泉がそれを手に取る。
「……この意匠、どこかで見たことがある」
「音楽室だ」
一ノ瀬は即答した。
「松井先生の譜面台。あれと同じ装飾だ」
冷泉の視線がわずかに鋭くなる。
「……つまり、この栞の持ち主は教職員」
「そして、消えた司書と繋がる可能性がある」
一ノ瀬は栞を見つめる。
「本は見つからなかった。でも――」
そっと握りしめる。
「“持ち主”はまだ、この学園にいる」
⸻
夕暮れの音楽室。
一ノ瀬と冷泉は静かに扉を叩いた。
中では松井先生が、ピアノの鍵盤を丁寧に拭いていた。
夕日の中で、譜面台の白鳥が静かに輝いている。
「……先生、お聞きしたいことがあります」
一ノ瀬は、あの栞を差し出した。
その瞬間――
松井先生の手が止まった。
ゆっくりと栞を受け取り、指でなぞる。
その指先は、微かに震えていた。
「……ああ……見つかったのね」
かすれた声が落ちる。
「白鳥さんの……大切な栞が」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
次回は後編。
“2月30日”の正体と、消された司書・白鳥沙織の真実に踏み込みます。
そして舞台は――時計塔へ。




