第4話:記憶の在処と、最後の一つ(前編)
旧校舎一階。
時が止まったままの「旧保健室」。
一ノ瀬は、かつて成瀬健一が座っていた窓際の丸椅子に、山根先生を静かに座らせた。
「山根先生。あの日と同じ景色を見ていてください」
返事はない。
ただ、ゆっくりと窓の外へ視線が向けられる。
一ノ瀬は隣室へ向かった。
ホットプレートのスイッチを入れる。
ソースを垂らす。
――ジュウウウウウッ!!
焦げた匂いが、空気を満たす。
「あら……?」
背後から、小さな声が漏れた。
一ノ瀬は振り返らない。
ただ、静かにカセットデッキの再生ボタンを押した。
流れ出すのは、あの合唱と――
「……パチ、……パチ……」
三十一人目の拍手。
ヒーターの温もりが、冬の教室を再現する。
音。匂い。温度。
止まっていた時間が、ゆっくりと動き出す。
「……思い出してしまったわ」
山根先生の声が、震えた。
瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出す。
「あの子……いつも窓から購買を眺めていたの」
かすれた声。
「楽しそうにパンを奪い合う生徒たちを……眩しそうに、愛おしそうに……」
一ノ瀬は何も言わない。
ただ、静かに聞いている。
「だから私……あの子が病院へ戻る前の日、焼きそばパンを買ってあげようとしたの」
一度、言葉が詰まる。
「……でも」
ゆっくりと首を振る。
「目の前で、最後の一つが売れてしまった」
沈黙。
「結局、私は何もしてあげられなかった」
涙が落ちる。
「その数日後、病室であの子は私に手紙を託したの。“クラスのみんなに”って」
震える手が、膝の上で握られる。
「最後まで……あの子は、みんなのことばかりだった」
声が崩れる。
「それなのに私は……パンの一つさえ……」
言葉にならない。
「孤独のまま……あの子を……」
嗚咽が漏れる。
一ノ瀬は、ただ静かに頷いた。
やがて――
山根先生の震える指が、窓の外を指した。
校庭の隅。
古びた石造りの水飲み場。
「……あそこよ」
小さな声。
「タイムカプセルには、入れられなかったの」
「クラスの輪の中に、あの子の優しい心を閉じ込めるなんて……できなかった」
一ノ瀬は何も言わない。
ただ、その言葉を受け止める。
「……だから私は、あそこに逃がしたの」
震えながらも、はっきりとした声だった。
「休み時間になれば、子供たちが集まる場所」
「喉を潤して、笑って、ふざけ合って……」
「――あそこなら、あの子が大好きだった“日常の音”が、いつも降ってくる」
涙の中で、微かに笑う。
「私は……あの子の“心”を」
一拍。
「みんなの声が一番近くで聞こえる場所に、逃がしてあげたのよ……」
静かに、言葉が落ちた。
⸻
夜の校庭。
冷たい風が吹き抜ける。
一ノ瀬は、水飲み場の土台に膝をついていた。
躊躇なく、土に手を突っ込む。
「一ノ瀬、手が血だらけよ。スコップを使いなさい」
背後から冷泉の声。
だが、一ノ瀬は首を振った。
「……ダメなんだ」
低い声。
「成瀬くんは、二十年間、誰にも気づかれずにここにいた」
土を掻き出す。
「この冷たい下で、ずっと」
爪が裂ける。
血が滲む。
それでも止めない。
「だから、せめて」
呼吸が荒くなる。
「僕の手は……温かくなくちゃいけない」
冷泉は何も言わない。
ただ、その背中を見ている。
やがて――
コツ。
指先に、硬い感触。
一ノ瀬の手が止まる。
ゆっくりと掘り出す。
現れたのは――
錆び付いた、小さなアルミの筆箱。
「……あった」
震える声。
蓋を開ける。
中には――手紙。
そして、もう一枚。
茶色く変色した紙。
懐中電灯の光が、それを照らす。
その瞬間。
「……ッ」
一ノ瀬は声を殺して崩れ落ちた。
肩が震える。
涙が止まらない。
「一ノ瀬……?」
冷泉が静かに問う。
「何が書いてあったの」
しばらくの沈黙。
やがて、一ノ瀬は顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃのまま。
それでも、はっきりと。
「……これは」
一拍。
「明日、一番正しい場所で返してあげるんだ」
震える声。
「成瀬くんにも」
「山根先生にも」
そして――
「……僕たち全員に」
夜の静寂。
二人の影が、長く伸びていた。
第4話(前編)を読んでいただきありがとうございます。
すべての“証拠”は揃いました。
次はいよいよ――二十年越しの卒業式です。
この続きを、第4話(後編)でお届けします。




