92話 夜会前夜──仮面と招待状
夜会の前夜、
街は不自然なほど、静かだった。
昼間は花と音楽で満ちていた広場も、
今は灯りだけを残して眠っている。
シャノン・フルールは、
その静寂の上を歩いていた。
屋根から屋根へ。
影から影へ。
足音は、風に溶ける。
(……明日、か)
夜会。
貴族たちが集い、
仮面をつけ、
笑顔の裏で“価値”をやり取りする場。
彼女は、その中心に立つ予定だった。
アイドルとして。
“華”として。
そして——
必要なら、怪盗として。
シャノンは、
懐から一通の封筒を取り出す。
白地に、金の縁取り。
香の残る、上等な紙。
《夜会招待状》。
「ふふ……」
思わず、笑みがこぼれる。
昼のシャノン・フルール宛。
“ラニャンキュラス”のセンターとしての招待。
だが、
この封筒が意味するのは、
それだけではない。
(ここに来るってことは……)
(“何か”を見せたいってこと)
貴族は、
無意味な舞台を用意しない。
シャノンは、
屋根の縁に腰を下ろし、
招待状をひらりと回した。
その裏面に、
薄く浮かぶ別の刻印。
光に透かさなければ見えない、
古い紋様。
「……やっぱりね」
夜会の展示品。
《光輝の聖槍飾り》。
表向きは、
歴史的価値のある装飾品。
だが、
その内側に仕込まれた“記録”は——
(証拠、か)
彼女は、
誰かの顔を思い浮かべる。
昼の仕立て屋。
穏やかな声。
完璧な縫製。
(あの鹿角……)
(やっぱり、動いてる)
フレデリコ・ディル。
正義寄りの義賊。
彼が狙うのが“宝”でないことは、
シャノンも薄々察していた。
「……面倒だけど」
「嫌いじゃない」
彼女は、
屋根から滑り降りる。
目的地は、
自分の“控え室”。
アイドルとしての準備の場所。
扉を閉めると、
空気が変わる。
壁にかけられた、
衣装。
ステージ用のドレス。
華やかなアクセサリー。
そして——
奥に、もう一つ。
黒と紫の、
軽装ドレス。
怪盗の衣装。
シャノンは、
それを見つめる。
(どっちを着るか、じゃない)
(……どっちも、私)
彼女は、
机の上に、もう一つの物を置いた。
仮面。
白地に、花の紋。
笑っているようで、
どこか挑発的な表情。
“花の怪盗”の仮面。
シャノンは、
それを手に取る。
「ねぇ……」
「明日、どうなると思う?」
誰もいない部屋で、
問いかける。
答えは、ない。
だが、
胸の奥が、少しだけ高鳴る。
そのとき。
窓の外で、
風が揺れた。
結界が、
静かに広がる感触。
(……守ってる)
あの光。
“義賊ディル”のもの。
街のどこかで、
今も彼は動いている。
弱者を守るために。
証拠を集めるために。
シャノンは、
仮面を机に置き、
小さく息を吐いた。
「……ほんと」
「真面目すぎ」
だが、
その言葉に、
悪意はなかった。
むしろ——
少しだけ、羨ましさ。
自分は、
軽やかに盗む。
彼は、
重たいものを背負う。
(だったら……)
(舞台、荒らしてあげる)
シャノンは、
くるりと回る。
アイドルの笑顔で。
怪盗の目で。
「夜会は、ショーでしょ?」
「主役が一人なんて、つまらないニャン♡」
招待状を、
胸元にしまう。
仮面は、
まだつけない。
それは、
“その時”のためのもの。
夜会前夜。
街は静かで、
何も起きていないように見える。
だがその裏で、
仮面と仮面が、
確実に近づいていた。
正義の怪盗。
花の怪盗。
そして——
何も知らず、
夜会へ招かれる者たち。
シャノン・フルールは、
灯りを落としながら、
最後に呟いた。
「……明日」
「びっくりさせてあげる」
夜は、
まだ、終わらない。




