91話 アイドル──怪盗の境界
夜が明けると、
シャノン・フルールは再び“光”の中に立っていた。
白い石畳の広場。
花で飾られた簡易ステージ。
そして、期待に満ちた観衆。
昨日と同じ場所。
同じ笑顔。
同じ拍手。
「おはよーっ、メニャータのみんな♡
今日も元気にいくよー!」
声を張ると、
歓声が跳ね返ってくる。
この瞬間、
シャノンは確かに“アイドル”だった。
誰かを楽しませ、
誰かに夢を見せる存在。
その役割を、
彼女はよく理解している。
(……うん、今日も完璧)
内心でそう呟きながら、
ステップを踏む。
だが、
その視線は無意識のうちに、
客席の“奥”を探していた。
警備の配置。
貴族の付き人。
見慣れない顔。
昨日よりも、
確実に増えている。
(夜会が近い……)
彼女の中で、
昼と夜が重なり始めていた。
歌が終わり、
拍手が鳴り止まぬ中。
シャノンは、
最後にもう一度ウインクを投げる。
「ありがとニャン♡
またねー!」
その一瞬。
観衆の中の一人が、
小さく息を呑んだ。
——今の目。
あれは、
“見透かす側”の目だった。
控室に戻ると、
シャノンはドアを閉め、
深く息を吐いた。
「……ふぅ」
椅子に腰を下ろし、
髪飾りを外す。
その動作は、
アイドルのそれではない。
戦場から戻った者の、
確認作業に近い。
「ねぇ、今日の客席」
背後から、声。
マネージャー役の人物が、
静かに立っていた。
「ちょっと、空気違ったでしょ?」
「……うん。気づいた」
シャノンは、
鏡越しに視線を返す。
「“花の怪盗”の噂、
貴族の間でも回り始めてる」
「へぇ」
彼女は、どこか楽しそうに笑った。
「光栄ニャン♡」
だが、
次の言葉で、空気が変わる。
「……それと」
「“正義寄り”の義賊も、動いてるらしい」
シャノンの指が、
一瞬だけ止まった。
「……鹿角の?」
「たぶん」
彼女は、
小さく舌打ちをする。
「真面目な人ほど、面倒なのよね」
「正義ってやつは」
だが、
嫌悪はない。
むしろ、
興味に近い。
夜。
シャノンは再び、
屋根の上にいた。
昼とは違う風。
冷えた空気。
彼女は、
街を見下ろす。
昼の顔が、
嘘のように遠い。
(……境界、ね)
アイドルとして立つ場所と、
怪盗として踏み込む場所。
その境目は、
思っていたより曖昧だった。
昼に救われる人もいる。
夜に救われる人もいる。
そして——
昼では届かない“声”が、
夜には聞こえる。
シャノンは、
屋根の端に立ち、
目を閉じた。
「花は、光がなきゃ咲けない」
「でも、闇がなきゃ……根は伸びない」
それは、
誰に向けた言葉でもない。
彼女自身への、
確認だった。
ふと、
遠くで光が揺れる。
結界のような、
柔らかな輝き。
(……やっぱりいる)
“義賊ディル”。
まだ姿は見えないが、
気配は確かにあった。
シャノンは、
口元に笑みを浮かべる。
「夜会……」
「楽しみになってきたニャン♡」
同じ夜、
同じ街。
正義を掲げる怪盗と、
花を名乗る怪盗。
二つの物語は、
まだ交わらない。
だが、
境界線は、
確実に薄くなっていた。
アイドルと怪盗。
光と闇。
シャノン・フルールは、
そのどちらでもあり、
どちらでもないまま——
夜会という舞台へ、
一歩、近づいていく。




