88話 夜会前夜──仮縫いの静寂と、街に落ちる影
仕立て屋を出てからの帰り道、
俺とレイリンは、しばらく無言だった。
昼の街は相変わらず賑やかで、
子どもが走り、露店が声を張り、
どこからか甘い焼き菓子の匂いが漂ってくる。
それなのに、
胸の奥に残っているのは、仕立て屋の静けさだった。
「……ロン」
「ん?」
「あの人、ただの職人じゃないよね」
レイリンの声は、確信に近かった。
「だろうな」
「優しいし、礼儀正しいし、仕事も完璧なのに……」
「“夜会は油断するな”なんて言い方、普通しない」
俺は苦笑して肩をすくめた。
「義賊だって噂、聞いたことある」
「……やっぱり」
レイリンはそれ以上、深掘りしなかった。
彼女も分かっている。
“今は触れない方がいい話”というものがある。
夜会まで、あと三日。
その間、俺たちはいつも通り店を回した。
ラーメンを作り、
客と話し、
夜には帳簿をつける。
だが、
頭のどこかにずっと、仕立て屋の影が引っかかっていた。
そして——仮縫いの日。
昼過ぎに店を閉め、
俺とレイリンは再びあの通りを訪れた。
仕立て屋の扉を開けた瞬間、
前回と同じ匂い、同じ空気が迎えてくる。
だが、今日は少し違った。
店の奥が、やけに静かだ。
「いらっしゃいませ」
フレデリコはすでに待っていた。
仕立て用の上着ではなく、
細身の黒いベストに白いシャツ。
昼よりも、ほんの少し“よそ行き”の姿。
「仮縫い、ですね」
「ああ」
布を当て、
肩を動かし、
一歩踏み出してみる。
不思議なほど、身体に馴染む。
「……軽い」
「動線を邪魔する縫い方は嫌いでして」
レイリンの方も同じだった。
袖を広げても引っかからず、
回っても裾が遅れない。
「すごい……これなら、夜会でも動ける」
「夜会は、立っている時間が長いですから」
その言い方に、また微妙な引っかかりを覚える。
まるで、
“何かが起きる”前提の言い回し。
仮縫いが一段落したところで、
フレデリコは布を整えながら、ふと口を開いた。
「夜会は、三日後ですね」
「そうだな」
「街の警備も、いつもより厚くなるでしょう」
「……そうか」
俺は、わざと軽く答えた。
「ですが」
彼は視線を上げないまま続ける。
「警備が厚い夜ほど、人は油断します」
レイリンが、息を呑む気配がした。
「安心している、という意味ですか?」
「ええ。
“守られている”と思った瞬間、人は弱くなる」
フレデリコの指先が、
針山に刺さった一本の針を、すっと抜いた。
「弱者は、いつもそこを狙われる」
その言葉には、
昼に聞いたものとは違う重さがあった。
俺は、はっきり聞いた。
「……あんた、夜会で何が起きるか知ってるのか?」
店の空気が、わずかに張る。
フレデリコは、数秒だけ沈黙したあと、
穏やかな笑みを浮かべた。
「予測、ですよ」
「予測にしちゃ、具体的だな」
「長く生きていれば、パターンが見える」
枝角の影が、壁に落ちる。
その影は、どこか槍の形に似ていた。
「……《光輝の聖槍飾り》」
俺は、あえて名を出した。
「あれも、狙われる側か?」
フレデリコは、ようやくこちらを見た。
青い瞳が、
一瞬だけ鋭くなる。
「価値のあるものは、常に狙われます」
「奪う側と、奪われる側」
「ええ」
だが、次の瞬間、
彼は視線を逸らし、いつもの職人の顔に戻った。
「ただし」
穏やかに言う。
「奪うことが、必ずしも悪とは限りません」
レイリンが、慎重に尋ねる。
「……それは、どういう意味で?」
「守られるべきものが、
守られる場所にないこともある、という意味です」
俺は、確信した。
(こいつ、完全に“知ってる側”だ)
だが同時に、
敵意がないことも、はっきり分かる。
フレデリコは、こちらを試していない。
脅してもいない。
ただ、忠告している。
「夜会では、無理に目立たない方がいい」
「……俺ら、ラーメン屋なんだけど」
「だからです」
即答だった。
「目立たない者ほど、
“見ている側”に回れます」
その言葉に、
レイリンが静かにうなずいた。
「……分かりました」
仮縫いは終わり、
仕上げは夜会前日の朝になるという。
店を出るとき、
俺は一度だけ振り返った。
フレデリコは、
もう布に向かっている。
だが、その背中は——
昼よりも、少しだけ張り詰めて見えた。
夜が近づいている。
街の灯りが増え、
人の声が浮つき始める。
「ロン」
レイリンが言った。
「夜会……何か起きるね」
「ああ」
「でも」
彼女は小さく笑った。
「面白くなりそう」
俺も同意せざるを得なかった。
仕立て屋の職人。
義賊の噂。
展示される聖槍。
警備の厚い夜。
昼と夜。
光と影。
この夜会は、
ただの社交の場じゃ終わらない。
俺はそう確信しながら、
店へ戻る道を歩いた。
夜会前夜。
静かに、しかし確実に、
街は“驚き”の準備を始めていた。




