87話 フレデリコ・ディル ──街一番の職人
招待状というのは、不思議な紙だ。
ただの紙切れのくせに、手にした瞬間から空気が変わる。
封蝋の匂い、筆跡の癖、薄くすいた香油の残り香——そういうものが「これは冗談じゃない」と告げてくる。
《麺屋ドラゴンラーメン》のカウンター奥で、その紙を指先ではじいた。
「夜会、だってさ」
レイリンが、招待状を受け取ってからずっと読み返している。
目を丸くしたまま、何度も同じ行をなぞって、最後にはため息をついた。
「……夜会。貴族の。学院関係者も集まるって……ほんとに?」
「ほんとみたいだな。封蝋も本物だし」
招待理由は書かれていない。
代わりに、やたらと丁寧な言葉だけが並んでいる。
最近、店の評判が妙に広がっている。
限定メニューだ、冒険帰りだ、学院の騒ぎだ——そういうのが重なって、「話題の店」というやつになってしまったらしい。
俺としては、店が回ればそれでいい。
だが、こういう招待状は“面倒”の匂いもする。
「なんで俺らが呼ばれるんだよ……」
「話題枠、じゃない? ほら、最近いろいろあったし」
レイリンは、困ったように笑った。
笑っているが、内心は落ち着かないのが見て取れる。
夜会といえば、衣装だ。
普段の俺の格好は、動きやすさ最優先の店着。
レイリンも同じで、戦えるし動けるけど、貴族の場で浮くのは目に見えている。
「行くなら、ちゃんとした服が必要だよね」
「……だよな」
そこまで言われると、逃げ道がない。
翌日、店の準備を早めに片付けて、俺たちは街の仕立て屋へ向かった。
噂で聞いたことはある。街一番の仕立て屋。貴族御用達。
名前は——フレデリコ・ディル。
(フレデリコ……SSRだったよな。たしか光。性能? ……正直、あんまり覚えてねぇ)
そんな、ゲームの端っこの記憶みたいな印象が、俺の中には残っていた。
ただ、妙に“上品そうな鹿の人”という映像だけが浮かぶ。
使った記憶は薄いのに、名前だけはやけに綺麗に残っている。
仕立て屋のある通りに入った瞬間、レイリンが小さく息をのんだ。
「ここ……静かだね」
「客層が違うんだろ」
店の看板は大きくない。
けれど、金具も文字も、隅々まで整っていて、目が吸い寄せられる。
“この店は、余計なことをしない”
そういう自信が滲んでいた。
扉を開けると、空気が変わった。
布の匂い。
糸の匂い。
染料と革と、ほんの少しだけ金属の匂い。
その奥に、誰かの集中が残っているような、張り詰めた静けさ。
「いらっしゃいませ」
声がした。
店の奥から現れたのは、背の高い獣人の男だった。
白い毛並み。
枝角は立派で、触れると冷たそうに見える。
目は青く澄んでいて、客の顔を“見る”というより、“測る”ような落ち着きがある。
それでも、威圧感はない。
礼儀が、鎧みたいに自然に身についている。
「ご用件は?」
俺は咳払いを一つして、招待状を差し出した。
「夜会に招待された。服が必要なんだ」
「……なるほど」
男は封蝋に触れず、紙の端だけを持ち、視線で必要な情報を読み取った。
読み終わるのが早い。
そして、顔色が一切変わらない。
「承りました。お二人とも、初めての夜会ですか?」
「まあ、そうだな」
「私も……こういう場は慣れてなくて」
レイリンが控えめに言うと、男は少しだけ表情を柔らげた。
「安心してください。夜会の服は、着る人を縛るためにあるのではありません」
「……どういう意味?」
「立ち方を助け、見られ方を整え、余計な不安を削るための道具です」
その言い方が、いかにも職人だった。
「フレデリコ・ディルです」
「ロン」
「レイリンです」
名乗った瞬間、フレデリコの視線が一度だけ俺の手元、肩、腰へ走った。
癖。姿勢。筋肉のつき方。
冒険者の身体か、店主の身体か。そういうものまで一息で見抜く。
「……よく動く方ですね」
「まあ、店もあるし」
「服は動けるように仕立てます。夜会でも、必要な動きはありますから」
その言葉が、少し引っかかった。
夜会で“必要な動き”。
踊る以外に何がある?
だが、俺は聞かなかった。
聞くと面倒が増える気がした。
採寸が始まる。
巻き尺が、ぴたりと身体を測っていく。
布を当てて、光の下で色味を見て、レイリンには肌の色と髪の色に合う配色をいくつも提案する。
レイリンが驚いた声を漏らす。
「……迷わないんですね」
「迷う時間は、縫う時間を削ります」
「すごい……」
フレデリコは淡々としたまま、必要な言葉だけを置いていく。
気取らない。
けれど、雑じゃない。
“完璧”というものが、呼吸みたいに自然だ。
俺の服は、落ち着いた色の上着と、動きやすいズボン。
派手さはないが、夜会で浮かない程度の品がある。
レイリンの方は、風のように軽い布を選びながら、胸元と袖にだけ上品な刺繍を入れる提案をしていた。
「……レイリンさんは、強い人ですね」
フレデリコが、何気なく言った。
「え?」
「目が迷っていない。場に慣れていなくても、芯がぶれない方です」
レイリンが少し照れたように笑った。
「そんな……」
「褒めています。夜会では、それが一番の武器になる」
武器。
その単語が、この店の静けさの中で妙に冷たく響いた。
俺は、何となく店の奥へ視線をやった。
奥の一角に、布で覆われた展示台がある。
その上に、細長い影。
布越しでも分かる、槍の形。
「……あれは?」
レイリンが気づいて小声で聞いた。
フレデリコは視線だけを一瞬そちらへ向け、すぐに戻した。
「夜会の展示品です」
「展示品?」
「《光輝の聖槍飾り》」
その名前を口にしたとき、フレデリコの声は変わらない。
なのに、店の空気が少しだけ重くなった気がした。
(聖槍飾り……ね。いかにも狙われそうだな)
俺がそう思ったのが顔に出たのか、フレデリコは小さく笑った。
「……夜会は、宝が集まる場です」
「そりゃそうだろ」
「そして、宝を“見せびらかす”場でもある」
言葉が、どこか冷たい。
「奪う者と、奪われる者がはっきりする」
フレデリコは、針山を整えながら続けた。
「そういう夜も、あります」
俺は口を閉じた。
職人の口から出るには、妙に生々しい。
けれど、彼の表情は穏やかで、ただ事実を述べているだけのようだった。
(……義賊だって噂、あったよな)
噂程度だ。
断定できるものじゃない。
ただ——今の言い方は、夜会の“裏”を知っている人間の口ぶりだった。
採寸が終わり、仮縫いの予定が決まる。
「次は三日後。お二人とも、その時間でよろしいですか?」
「大丈夫」
「はい、お願いします」
フレデリコは礼儀正しく頭を下げる。
その所作一つで、この店が貴族に選ばれる理由が分かる。
店を出る前、俺は何となく聞いてみた。
「……あんた、客の身分で態度変えないんだな」
「変える理由がありません」
「貴族相手でも?」
「服は、身分ではなく身体に合わせるものです」
それだけ言って、フレデリコは布を取った。
「夜会は華やかですが、油断はしないでください」
「……忠告?」
「助言です」
最後に、彼はほんの少しだけ声を落とした。
「あなた方は……“奪われる側”に見えない」
「それ、褒めてんのか」
「ええ。褒めています」
意味が分からないまま、俺は苦笑した。
外に出ると、昼の街の音が戻ってくる。
人の声。荷車の軋み。遠くの呼び込み。
レイリンが、歩きながら小さく言った。
「……すごい人だったね」
「ああ」
「優しいのに、どこか怖い」
「分かる」
俺は振り返って、仕立て屋の看板をもう一度見た。
街一番の職人。
完璧な仕事。
そして、夜会を語る言葉の端に滲む“影”。
(印象薄いはずなのに、こういうのだけ残るんだよな……)
夜会なんて、面倒だ。
そう思っていたはずなのに。
その面倒の中心に、もう一人、厄介な匂いのする男が立っている。
——フレデリコ・ディル。
昼の仕立て屋で見た彼の笑みは、
夜になれば、まったく違う色に変わる気がした。
そんな予感だけが、背中にまとわりついたまま、
俺とレイリンは店へ戻る道を歩き出した。




