79話 風の乱れ──詩が現実になる兆し
エルフの村に滞在することになった夜は、
思ったよりも静かだった。
風の村、という名の通り、
夜になっても風は止まらない。
だが、それは眠りを妨げるような強さではなく、
木々の間を縫って、子守歌のように流れていく。
「……いい風だね」
レイリンが、宿舎の窓から外を眺めながら言った。
「うん。
でも、さっきと少し違う気がする」
俺がそう言うと、
レイリンは首を傾げた。
「違う?」
「説明しづらいけど……
均一じゃない、というか」
風は常に動いている。
だが今の風は、どこか迷っているように感じた。
その感覚を言葉にできずにいると、
扉の外から、かすかな音が聞こえた。
――紙が、擦れる音。
扉を開けると、
そこにロレール・ノエが立っていた。
手には、薄い紙束。
いや、紙というより、樹皮を加工した詩稿のようなものだ。
「眠れなかった?」
「……少しね」
ノエは苦笑した。
「風が、落ち着かなくて」
(やっぱりか)
俺とレイリンは顔を見合わせる。
「村の人たちは?」
「今は、まだ気づいてない人が多いと思う」
ノエは外へ目を向けた。
月明かりに照らされた森は美しく、
一見すると、何の異変もない。
だが――
「……聞いてみる?」
「何を?」
ノエは、俺たちに向き直る。
「風の声を」
そう言って、
彼は村の外れへ歩き出した。
止める理由はなかった。
村を少し離れると、
空気の質が変わる。
冷たくなったわけじゃない。
ただ、張りつめている。
「ここ」
ノエが足を止める。
小さな丘の上。
風が四方から集まる場所だ。
「普段なら、ここはとても静かなんだ」
「でも、今は……?」
ノエは目を閉じた。
しばらく、何も言わない。
風の音だけが、
俺たちの間を流れる。
やがて――
「……おかしい」
ノエが呟いた。
その声には、
これまでにない硬さがあった。
「詩と、同じだ」
「詩?」
レイリンが反応する。
ノエは、手にしていた詩稿を一枚取り出した。
月光に照らされた文字は、
整っているが、どこか不穏だ。
「最近、書いた詩なんだ」
彼は静かに読み上げる。
風は道を失い
名を持たぬ影が森を渡る
歌は形を持ち
触れたものを現へ引きずり出す
読み終えたあと、
ノエは紙を下ろした。
「……これ、比喩じゃない」
「え?」
「昔はね。
全部、心の中の話だった」
彼は自嘲気味に笑う。
「破滅的な詩だ、って言われるのも分かってる。
でも、それは“予感”を言葉にしてただけだった」
風が、ひときわ強く吹いた。
木々がざわめき、
葉が一斉に揺れる。
「でも最近は……
詩が、風に混ざる」
俺は背筋に、冷たいものを感じた。
「それって……」
「うん」
ノエははっきり頷いた。
「詩が、現実に近づいてる」
レイリンが息を呑む。
「そんなこと……あるんですか?」
「ある」
ノエは即答した。
「少なくとも、僕は見てきた」
彼は空を見上げる。
「長く生きてると魔法の理屈から外れた現象にも、何度か出会う」
その言葉には、
経験の重みがあった。
「風は媒介だ。
感情も、言葉も、魔力も」
ノエは俺を見る。
「ロン。
君たちは、冒険者だろう?」
「ああ」
「なら、気づいてるはずだ」
――世界は、
時々、物語を真似る。
その言い回しに、
妙に納得してしまった。
「詩は、世界の歪みを先に映す鏡なんだ」
「……それ、結構やばくないですか?」
レイリンが言うと、
「やばいね」
ノエはあっさり言った。
「だから、今日は君たちに会えてよかった」
「俺たちに?」
「うん」
ノエは少しだけ、安心したように微笑む。
「一人で抱えるには……
この風は、少し重い」
そのとき――
風向きが、はっきりと変わった。
一瞬だけ、
森の奥から、不協和音のような風が吹く。
冷たい、
だが魔力を帯びた流れ。
レイリンが、無意識に一歩下がった。
「……今の」
「聞こえたね」
ノエの表情が、引き締まる。
「まだ“形”はない。
でも、近い」
「何が?」
「詩の続き、かな」
ノエはそう言って、
詩稿をそっと握りしめた。
「安心して。
今夜は、まだ何も起きない」
そう言われても、
胸のざわつきは消えなかった。
「でも……」
ノエは続ける。
「風は、準備を始めてる」
月が雲に隠れ、
森が一段暗くなる。
その闇の中で、
風だけが、確かに動いていた。
――詩が、現実になる兆し。
それはまだ、
予感の段階にすぎない。
だが俺は確信していた。
この村で、
何かが始まろうとしている。
そしてそれは、
穏やかな詩人ロレール・ノエの過去と、
深く結びついている。
その核心に触れるのは――
まだ、先の話だ。




