49話 夜更けの厨房──恋とラーメンの温度
店の中がすっかり静まり返ったころ、
窓の向こうは深い夜の色に沈んでいた。
冬の風に揺れた街灯が、遠くでちりん……と鈴を鳴らす。
昼間の賑わいが嘘のようだ。
いま《麺屋ドラゴンラーメン》に残っているものは――
温かいスープの香りと、木の柱がきしむ音だけ。
大きな寸胴の鍋を洗い、
レイリンは食器を丁寧に布巾で拭いている。
金属が触れ合う澄んだ響きが、
静かな厨房に心地よく溶け込んでいった。
「……ふぅ……」
レイリンが一息ついた。
「今日はいろんなことがあったね」
「うん。
ピルナの涙も、
ルビルの来店も、
使い魔の反応も……
本当に全部、今日の出来事なんだよな」
苦笑しながら鍋を置いた。
レイリンは片付けた食器を棚に収め、
カウンターに腰を下ろす。
まだ湯気がかすかに漂うカウンターを眺めながら、
ぽつりと呟く。
「……あの子、本当に一生懸命だったね」
「ピルナのこと?」
「うん。
あんなに必死に恋を語って……
泣いて、笑って、決意して……
なんだか胸が、ぎゅってしたよ」
濡れた手をタオルで拭きながら思い返す。
ピルナがラーメンを口にして泣いた時のあの顔。
勇気を振り絞って名乗った震える声。
ルビルの話をする時の、
あの小悪魔とは思えないほど純粋な輝き。
そして最後、
涙の跡を残したまま放ったあの言葉。
――“がんばるね”。
(まっすぐな子だ)
静かに心の中で思った。
「恋って……こんなに表情を変えるもんなんだな」
レイリンがくすりと笑う。
「ロン、なんだか恋愛経験豊富みたいな言い方だね?」
「いやいや、そういうつもりじゃなくて……!」
「ふふっ、冗談だよ。でも……
今日のピルナちゃん、なんか応援したくなったよね」
「うん。あれだけ全力で頑張れる子、なかなかいないよ」
レイリンは、ふと表情を引き締める。
「……ねぇロン。
あの使い魔たちのこと、どう思った?」
鍋を片付けながら答える。
「冷酷じゃなかったな」
「私もそう思った」
レイリンは箸をそっとそろえ、
カチリと静かに音を立てて置く。
「むすっとした子も、最後は柔らかい顔してたし――
ラーメンを食べてとろけてた子なんて、あれ……完全に落ちてたよね」
その言い方に、俺は吹き出してしまった。
「あいつ、完全にラーメンに恋してたよな……!」
レイリンも楽しそうに笑う。
「うん。
あの子、ピルナちゃんより早く恋落ちしてた」
キッチンに乾いた笑い声が響き、
その響きが夜の静けさに温かい色を添えた。
やがて笑いが収まり、
二人は天井を見上げる。
しばらくの静寂。
その中で、レイリンがぽつりと言った。
「この店、あったかいよね」
俺は手を止める。
「あったかい……?」
レイリンは店内を見渡す。
木の温もりが残るテーブル。
まだほのかな温度を宿した器。
消えかけの湯気が揺れる厨房。
ラーメンの香りが染み込んだ空気。
どれも、
誰かの心をそっと撫でるような優しさをまとっている。
「うん。
料理って、人の心をほぐすんだよ。
特にラーメンは……“寄り添う味”だから。
ピルナちゃんみたいに胸がぎゅってしてる子には、
効くんだと思う」
俺は照れたように笑う。
「それ……たぶん味だけじゃなくて、
レイリンの雰囲気もあると思うぞ」
レイリンはびくんと肩を震わせ、
頬を真っ赤にする。
「ちょっ……!
急にそんなこと言われると反応に困るんだけど……!」
「えっ違っ、深い意味じゃなくて……!」
レイリンは両手で顔を隠しながら、
小さく笑った。
「ふふ……ありがと。嬉しい」
彼女の横顔が、厨房の灯に照らされてやわらかく輝く。
その光景を見ながら、
なんとなく胸が温かくなるのを感じた。
そのとき――
レイリンが急に窓の外を見て「あ」と声を漏らす。
俺も視線を向ける。
店の前の通りを、
ふわり……と光る影が三つ横切った。
ルビルの使い魔たちだ。
彼らは夜風の中を漂いながら、
ときどきこちらを振り返る。
――まるで「また来るよ」と言っているように。
最後の一体がゆらゆらと揺れながら角を曲がり、
闇に溶けて見えなくなる。
レイリンが静かに言う。
「……ピルナちゃん、案外チャンスあるんじゃない?」
ロンも深く頷いた。
「使い魔たち……ピルナのこと、
完全に拒絶してるわけじゃなかったよな」
「うん。
むしろ……少しずつ受け入れ始めてる気がする」
「ピルナ、すごいよな」
俺は笑う。
「使い魔三体を相手に、本気で恋してる」
「うん。
あの子、本当に強い子だよ。
また絶対来る。
またラーメン食べて泣くんだろうね」
レイリンの言葉が、なぜかとても優しく聞こえた。
その時――
店の奥で小さな鈴が鳴る。
風に揺れた看板の音。
まるで今日という一日の最後に奏でられる、
静かな祝福の音のようだった。
店内の灯りがやわらかく揺れ、
俺はそっと目を閉じる。
――恋とラーメンの物語は、まだ始まったばかり。
その確かな予感だけが、
夜更けの厨房に静かに残った。




