47話 黒翼の少年の影──新たな幕開け
ピルナが恋の決意を胸に帰っていったあとの《麺屋ドラゴンラーメン》は、
ほんのり甘く、温かい空気に包まれていた。
「ありがとうございました……!
あ、あの……また来ても……いいですか……?」
「もちろん。いつでもおいで」
レイリンの微笑みに、ピルナは小悪魔らしからぬ素直な笑顔を返し、
尻尾をぽふぽふ揺らしながらドアに向かった。
最後に振り返って――
「……がんばるね……!」
と、小さく拳を握って見せた。
その表情は、涙の残る頬とは裏腹に、驚くほど強い光を宿していた。
――カラン。
扉のベルが軽やかに鳴り、
紫のツインテールを揺らしながら、ピルナは冬の街に駆け出していった。
レイリンとふたりでしばらくその背中を見送り、
自然と同時に息をついた。
「本気だな、あの子」
「うん。恋ってすごいね。あんなに表情が変わるんだ」
店内には、ピルナが座っていた席のほのかな体温や、
泣きながら零した気持ちの余韻がまだ残っている。
白湯ラーメンの湯気とともに、
甘酸っぱく、どこか切ない空気が揺れていた。
窓の外を見ると、街は夕暮れの色を帯び始めている。
紫が混じった冬の空。
通りの光は長く伸び、影は夜へと溶け込みつつあった。
その静けさを破るように――
――カラン。
扉のベルが、さっきよりも少し低い音で鳴った。
レイリンが振り返り、目を丸くする。
「あれ……?ピルナちゃん、忘れ物かな」
しかし扉に立っていた影は――
ほんの数分前に帰っていった小悪魔ではなかった。
そこにいたのは、
冬の薄明かりを背負う少年。
焦げ茶色の短い髪は軽く跳ね、
灰色と青紫を基調にしたコートの毛皮の襟が微かに揺れる。
その立ち姿だけで空気が変わる。
そして何より目を引いたのは――
背中から大きく伸びる黒い翼。
光に照らされて艶めき、
羽根一枚一枚が闇を払うような存在感を放っていた。
瞳は赤紫の光を宿し、
鋭さと余裕を併せ持ったような挑発的な印象すらある。
(……こいつが、ルビル・マルク……)
俺は思わず息を呑んだ。
その雰囲気はピルナが語った通りで、
いや――語りきれないほどの圧を持っていた。
そして、彼の周囲には。
ぽうっ……と三つの光球が浮かんでいる。
半透明の身体に小さな目と口――
表情すら見える、小さな浮遊モンスター。
ピルナが言っていた“使い魔”だ。
一体はむすっとした顔で漂い、
もう一体は好奇心に満ちた目をぎらぎらさせ、
三体目は酔ったようにふよふよ千鳥足ならぬ千鳥浮遊。
(……あの三体がピルナを邪魔してる奴らか)
レイリンも緊張してごくりと唾を呑む。
ルビルは、店内を軽く見渡しながら言った。
「今……小悪魔の子、来てなかった?」
その声は低く落ち着き、
一瞬で空気を支配するような響きがあった。
俺もレイリンも反応に困る。
ピルナの泣いた跡は席に残っているし、
ラーメンの湯気にも彼女の余韻が混ざっている。
だがここで全部正直に話すのは――
(ややこしくなるな)
レイリンが、慎重に、無難な返しを選ぶ。
「さっき、お客さんはいましたけど……」
「……そう」
ルビルは、それ以上追及しない。
ただ――
彼の赤紫の瞳が一瞬だけ細められ、
何かを“察した”ように見えた。
(気配で分かるタイプか……)
俺はごくりと喉を鳴らした。
三体の使い魔はというと、
店内の空気を“嗅ぐ”ように漂い始めていた。
むすっとした一体は、
俺に近づき――じとぉっと睨む。
好奇心の一体は、
レイリンの髪を覗き込むようにふよふよ。
酔ったような一体は、
鍋の匂いに吸い寄せられて危うく突っ込みそう。
(ピルナが言ってた通りだ……)
レイリンも苦笑しつつ身を引いた。
ルビルはそんな三体を気にかける様子もなく、
店の外を一瞥してから言った。
「……まぁ、いいか。
最近さ……なんか“視線”を感じるんだよ」
“視線”。
その言い方に俺は思わず眉を上げる。
「もし小悪魔の子に会ったらさ、伝えて。
“近づきすぎるな”って」
レイリン「えっ」
俺「おいおい……」
二人は同時に目を見合わせる。
(完全に誤解してる……!)
ピルナは、あなたが好きで近づきたいだけなのに――
ルビルは「ストーカー的なもの」だと思っている。
しかも完全に“警戒モード”。
(すれ違いの始まりだな……)
ルビルはふっと肩を回し、
コートの毛皮の襟を軽く整える。
「それより……この店、噂になってるんだ。
また来るよ」
その言葉とともに、
黒い翼がふわりと揺れる。
「じゃ、今日はこのへんで」
軽く手を挙げ、ルビルは夕暮れの街へ歩き出した。
三体の使い魔が続く。
むすっとした一体はまだ俺を睨み、
好奇心の一体は店を二度見し、
酔った一体はふらふらと蛇行しながらついていく。
その背中を見送りながら、
レイリンは大きくため息をついた。
「……これは……大変そうだね、ピルナちゃん」
俺も頷く。
「恋のハードル……高すぎないか……?」
しかし同時に、二人は思った。
(でも……面白くなってきた)
黒翼の少年の影は、
明らかに物語の“幕開け”そのものだった。
ピルナの恋が動き出したのは――
間違いなく、
この瞬間だった。




