45話 小悪魔の来店──甘い香りと相談の気配
いつもの昼の喧騒が過ぎ去り、
夕方前の《麺屋ドラゴンラーメン》には、穏やかで柔らかな空気が流れていた。
冬の海遠征で仕入れた新素材のおかげで限定メニューが好評となり、ここ数日は常に目が回るほど忙しかったが、この時間帯だけは一息つける。
濡れ布巾でテーブルを拭きながら、ゆったりとした店内を見渡した。
窓から差し込む冬光は白く澄み、街並みは薄青く染まりはじめている。
外の風は冷たくても、店の中は鍋の余熱やスープの香りのせいでぽかぽかと暖かかった。
レイリンが火加減を見ながら、かすかに鼻歌を歌っている。
その横顔は穏やかで、俺はふと目を細めた。
(……平和な時間って大事だな)
そんな穏やかさを切り裂くように――
――カラン。
扉のベルが、どこか控えめに鳴いた。
反射的に顔を上げた。
冷たい外気がすっと流れ込み、同時に甘く焦がしたような、香りがふわりと漂った。
(甘い香り?)
レイリンも、普段とは違う匂いに首を傾げながら扉の方を見る。
そこに立っていたのは――
深紫色のツインテールに、赤みを帯びた瞳の少女だった。
小柄で、肩からは小さなコウモリ翼、頭には黒いミニ角。
腰にはハート型の先端を持つ尻尾。
種族的な特徴からして、俺の知る限り亜人の悪魔だった。
この街でも滅多に見ない種族だ。
俺もレイリンも思わず固まる。
少女はおずおずと両手を胸の前にまとめ、震える声で言った。
「あ、あの……ひ、一人です……」
初めて人間の店に入る子どものような、怯えと期待の混ざった声だった。
レイリンはすぐに優しい笑顔を浮かべる。
「いらっしゃい。寒かったでしょ?中にどうぞ」
少女はほっと胸をなでおろし、小さく頷いて店内へ。
翼が緊張で硬くなり、尻尾もぎゅっと縮んでいる。
カウンターに座ると、そわそわと辺りを見回し、俺とレイリンの視線に気付くとすぐに目を逸らす。
頬はほんのり赤く、緊張の色が濃かった。
優しく声をかける。
「ご注文、どうぞ」
少女は肩をびくりと震わせ、しばらく迷った末に小さく言った。
「ら、ラーメン……ください……。
あの……いちばん……やさしいやつ……」
(やさしい……スープの刺激が少ないものか)
白湯系のラーメンの準備に入る。
レイリンが器を温め、俺は鍋に火を入れた。
少女はその一つ一つの動作を、息を呑んで見つめていた。
尻尾が落ち着かず震え、翼も不安げに小刻みに揺れている。
しばらくして、白く柔らかい湯気が立つラーメンをカウンターへ置くと、少女の瞳がぱっと輝いた。
「わぁ……すごい……いい匂い……」
両手で器を包み込み、そっと顔を寄せる。
寒さに凍えていた小さな小鳥が焚き火へ近付くような、控えめな動きだった。
震える指で箸を持ち、麺をつまむ。
唇へ近付けて……すする。
次の瞬間。
「……っ……ひぐ……」
ぽたり。
透明な涙が、白いスープに落ちた。
俺もレイリンも、同時に驚く。
「えっ!?何か嫌だった?」
「辛かった?味が強かった?」
少女は慌てて首を横に振る。
「ち、違うの……
こんなの……初めてで……
あったかくて……やさしくて……
胸の奥が……ぎゅってして……」
言葉は震え、嗚咽が混じっていた。
尻尾はとろんと床に落ち、翼はしゅんと萎れてしまっている。
少女は慌てて口元を押さえる。
「ご、ごめんなさい……!
せっかく作ってくれたのに……泣いて……」
レイリンはゆっくりと彼女の隣にしゃがみ、背中へそっと手を添えた。
「大丈夫だよ。
食べ物で泣いちゃうことってあるから。
心が疲れてる時、あったかい味って……沁みるの」
少女はしばらく震え、涙をこぼし続けた。
やがて少し落ち着いてきた頃、
ぽつりと小さな声がこぼれた。
「……わたし……誰にも言えなくて……
ちょっとだけ……誰かに聞いてほしくて……
でも……勇気が出なくて……」
静かに頷く。
(相談……か)
レイリンと目が合う。お互いすぐに察していた。
少女がこの店を選んだ理由は、ラーメンだけではなかった。
やがて少女は、涙の跡を指で拭いながら顔を上げた。
泣き笑いのような、不器用で優しい表情だった。
「……聞いてほしいことが……あるの……
ずっと言えなくて……
でも……このラーメン食べたら……
言える気がしたの……」
俺とレイリンは、安心させるように笑って頷く。
少女は深く息を吸い――
「わ、わたし……
ピルナ・スゥ。小悪魔の亜人……です……」
震えはあるが、その声には確かな勇気が宿っていた。
その瞬間、店の空気がわずかに変わった。
ほんの少し、暖かさが増したように感じた。
ラーメンと一緒に流れ出た涙は、
ただの味への感動ではなく――
彼女の心の奥からこぼれた“叫び”だったのだ。
ピルナの“相談”が、この店とこの夜に新しい物語を運んでくる。
レイリンと並んで、俺はその予感を確かに感じていた。




