39話 天使が降りた朝──静けさと光の来訪
セイスイのバーでの“地獄のフルコース酔い潰れ事件”から、数日が経った。
あの夜のことをレイリンは、ことあるごとにくすっと笑ってからかった。
「ロン、あのときね、ほんとに“ぽよん”って崩れたんだよ? 漫画みたいに」
「……忘れていただけると助かる」
「むり~、一生の宝物~!」
恥ずかしさで消え去りたい気持ちだったが、レイリンの笑顔があまりに楽しそうで、それ以上何も言えなかった。
そんな、のどかな数日が流れ──
その朝は、静かに始まった。
ぴしり、と張りつめた冷気。
外は一晩中雪が降り、世界を真っ白に塗り替えている。
まだ客のいない厨房は、寸胴の中でスープが小さく呼吸するような音だけが響き、心地よい温度を保っていた。
まかない用の鍋をかき混ぜながら、小さく息をついた。
(……ここで迎える、初めての“普通の朝”か)
元日はもう過ぎ、街はゆっくりと正月モードから日常に戻り始めている。
年越しの怒涛の来客も落ち着き、ようやく店にも静けさが戻った。
「ロン、おはよ!」
階段を軽やかに降りてきたレイリンは、いつもより少しだけ明るい色の服を着ていた。
中華風のデザインだが、正月の名残を感じる飾り紐が胸元に揺れる。
派手すぎず、それでいて可愛らしい。
自然と目が奪われてしまう。
「どう、かな……? ちょっとお正月っぽくしたんだけど……」
「似合ってるよ。すごく」
俺が素直に言うと、レイリンは耳まで真っ赤にして
「そ、そう?……よかったぁ……」
と、まるで子どもみたいに胸元の紐を触れながら照れていた。
そんな空気の中──
“チリン……”
木製ベルが揺れた。
まだ開店準備も完全には終えていない時間。
レイリンと同時に振り返る。
そこに立っていたのは──
光をまとったような少女だった。
ふわりと白金色の髪をなびかせ、
背中には淡い光を帯びた羽。
白いワンピースの裾には雪の結晶が落ちたようにきらめきが走る。
彼女が一歩踏み出すたび、店の空気が温かく揺れるようだった。
「……あの……やってますか……?」
声も、まるで鐘の音のように柔らかい。
レイリンはぽかんと口を開け、
俺は息を止めていた。
天使みたい──そんな例えでは足りなかった。
(……マリル・アルヒー……!?)
ゲームで人気を博した光属性亜人。
限定UR版が登場したときはSNSも大騒ぎだった。
だが、目の前にいるのは通常のマリル。
おっとりした天使の看板娘タイプの、美しい亜人の女の子。
だけど……限定URを知っている俺からすると、
「天使が店に降りてきた」
以外の言葉が見つからなかった。
「あ、あの……ラーメンの匂いが、して……つい……」
頬を染めながら、マリルは胸の前で手をそっと重ねた。
レイリンがはっとして、慌てて頭を下げる。
「いらっしゃいませっ! えっと、その……開店前だけど、入って大丈夫だよっ」
「……よかったぁ……ラーメン……だいすきで……」
その一言だけで、店がぱぁっと明るくなった気がした。
マリルは席にちょこんと座り、
羽を畳んで、くるんと背筋を伸ばした。
「……もしよければ……味見……お願い、できたり……しますか……?」
その瞬間──レイリンの表情が、ぴくっと変わる。
驚き、そして……ほんの少しだけ、胸の奥にきゅっとした感情。
マリルの柔らかい笑み。
俺に向けられた“味見のお願い”。
そして天使のような見た目。
どれも自然にレイリンの心をざわつかせた。
(……かわいくて、きれいで……あんな子が味見したいとか……ずるい……)
そんな声が、ぎゅっと飲み込まれた気配がした。
「もちろん、いいよ」
俺が言うと、
「……っ! じゃ、じゃあ私が案内するね!」
レイリンはカウンター奥から顔をのぞかせ、
妙に張り切って湯気の上がる厨房側へ手招きした。
内心むずむずしているのが伝わってくる。
(やきもち、か……?)
その微妙な距離感が、なんだかちょっと可愛い。
丼を温め、スープをひとすくいして、慎重にマリルの前へ置く。
「どうぞ。まだ試作だけど」
「……いただきます……」
マリルは両手でそっとレンゲをすくい、
目を閉じて──ひとくち。
ぴくっ。
雪明かりのように淡い表情が、ぱあっと光を宿した。
「……あ……」
その一音だけで、レイリンは固まった。
俺も、心臓を掴まれる。
「……しあわせ、です……」
マリルは、胸の前で手を合わせて小さく震えた。
「……この香り……あったかい味……
やさしくて……でも、すこし泣きたくなるくらい……
……おいしい、です……」
レイリンは唇を引き結び、
胸を押さえて、小さく息を吸った。
「ロン……なんか……ずるいよ……」
「え?」
「……こんなに喜んでくれるお客さん……反則でしょ……」
マリルは気づかないまま、にこにこと丼を見つめていた。
羽がふわりと震え、
光の粒のように見える微細な輝きが店の空中に舞う。
ただそこに彼女がいるだけで、
店がまるで祝福されているみたいだった。
「……あの……もうひとくち、していい……ですか……?」
「もちろん」
「ふぁぁ……ありがとう、です……」
マリルはまた丼へ顔を寄せ、
幸せそうに湯気を吸い込んだ。
レイリンはその横顔を見つめながら、
むにゃっと頬を膨らませていた。
(……天使が来る朝って、こんなに騒がしいのかよ)
思わず苦笑する。
マリルはまだゆっくりと味わい続けている。
レイリンはそわそわと落ち着かない。
そして俺は……天使に店を褒められて胸の奥がくすぐったい。
静かな朝に降り注いだのは、
本物の“光”と、少しの“やきもち”と、
そして……どこかくすぐったい幸福の気配だった。
冬の冷たい空気の中で、
店の窓から立ち上がる湯気だけが、
やわらかく、静かに、空へ昇っていった。




