37話 誘惑の一杯──流されていく夜
琥珀色の《アンバードリーム》を飲み終えたころだった。
店内の紫の灯りが、なぜかほんの少し柔らかく見えた。
壁の花模様が波のようにゆれて、
天井のランプは鳥の羽のように軽く揺れている。
(……やばい。二杯目で世界がちょっと斜めだ)
視界の端がほんのり金色に染まり、
店内の雰囲気がとろけるように甘い。
隣ではレイリンが、嬉しそうに足をぷらぷら揺らしていた。
「ロン、顔が赤いよ。大丈夫?」
「だ、大丈夫……だと……思う……」
たぶん、思っているだけだ。
セイスイが俺のグラスの様子を見て、
薄く笑った。
「ふふ……まだ倒れていないわね。
じゃあ──次はこれよ」
指先で空を撫でるだけで、
棚の奥にあった黒い瓶がふわりと浮かび、
グラスがひとりでに転がってくる。
「《ブラッディ・マリー》。
名前の響きほど怖くはないわ。
ただ──少し、火照るだけ」
火照る、の部分を妙に甘く伸ばす。
レイリンが「わぁっ」と目を丸くした。
「赤い……! トマトジュースみたい!」
「ええ。見た目はね。
でもこれは……飲んだ人の“熱”を引き出すのよ」
(“熱”? いまの俺に必要なやつじゃない……)
逃げようとする前に、
セイスイがグラスを俺の前に滑らせた。
「ほら、ロン。ゆっくりでいいわ」
断れる雰囲気じゃない。
グラスをそっと口に含む。
──熱い。
味は辛くも苦くもない。
だが、舌に触れた瞬間、
胸の奥に何かがぱちんと灯るような感覚が走った。
「っ……!」
「んふふ。効いてきたわね」
レイリンが身を乗り出す。
「ロン! 今の顔、珍しい!」
「う、……これは……やばい……」
視界の輪郭が熱を帯びて滲む。
空気まで温度が上がったようだ。
セイスイはそんな俺を観察するように目を細める。
「ロン。少しあなたに興味が出てきたわ」
「……へ?」
「レイリンを守ると言った子にしては──
少し“危うい”ところがあって可愛いじゃない」
「か、可愛いって……」
「ねぇレイリン。
あなたのパートナー、なかなか面白いわよ?」
「えへへ……ロンはね、とっても頑張り屋さんなの!」
褒められているはずなのに、
どこかくすぐったい。
セイスイの視線はさらに深い。
「でも、何かを隠してる目をしてるわ。
……ここに来る人間の目じゃないもの」
(……っ!)
鋭い。
鋭すぎる。
酔っているのに、心の奥を射抜かれた気分だ。
レイリンが慌てて横に割って入る。
「セイスイさん!
ロンは……その……いろいろ大変だったんだよ!」
「ふふ、怒らないで。
私は人を見るのが得意なだけよ」
柔らかく笑い、今度は青白い瓶に指を伸ばす。
「じゃあ、これは“気分転換”。
《スターダスト・レビュー》よ」
「え。ま、まだ飲むの……?」
「ええ。あなたなら飲めるわ」
セイスイの声には、不思議な説得力があった。
グラスに注がれた液体は淡い銀色。
まるで星屑を溶かしたみたいに光っていた。
(飲んだら絶対やばいやつ……)
そう思ってグラスを見つめていると、
セイスイがそっと囁いた。
「これは……あなたの迷いを少し薄めてくれるわ。
勇気とは違う。
ただ、“余計な思考”を溶かすだけ」
レイリンが不安そうにこっちを見る。
「ロン……無理だったらやめてもいいんだよ?」
その声が、少し震えていた。
(……ああ。レイリンに心配させるのもよくない)
俺は覚悟を決めて、銀色の液体を口に運ぶ。
──視界に星が散った。
本当に。
飲んだ瞬間、店の灯りがきらめき、
木目の机が波打つように光を弾く。
夜空のような模様がほんの一瞬だけ見えて、
胸の奥がふわりと軽くなった。
「……っは……」
「どう? 悪くないでしょう?」
「……なんか……すごい……」
言語化できない幸福と軽さが全身を駆け巡る。
(あー……これは……危険なやつだ……)
レイリンが慌てて俺の腕をつかむ。
「ロン!? 大丈夫!? 目がキラキラしてるよ!」
「ああ……ちょっと……夜空飲んだ気分……」
「それはすごい表現だね!?」
レイリンが半泣き笑い。
セイスイは満足げに頷いた。
「ええ、いい反応よ。
じゃあ──最後の一杯。
この店で最も強いお酒を出してあげる」
(やばい、ここまできたら逃げられない……!)
セイスイの指先が闇のような瓶に触れた。
「《X・Y・Z》──
これはね、“終わりであり始まり”の酒よ」
レイリンが小さく声を上げる。
「セイスイさん! それ……初心者向けじゃ──!」
「大丈夫よ。
この子はね、飲む“資格”がある」
俺の前に置かれたグラスは、
どこまでも透き通った黒だった。
手を伸ばす前に、
セイスイがそっと微笑む。
「ロン。
飲むかどうかは……あなたが決めなさい」
店内の音がすべて遠のいたように静かになる。
レイリンが、潤んだ目でこっちを見る。
俺はグラスを手に取った。
香りは甘く、深く、どこか懐かしい。
一気に飲み干した瞬間──
世界が、ゆっくりひっくり返った。
いや、回ったわけじゃない。
むしろ、俺の方がふっと浮いたように感じた。
「っ……!」
「ロンっ!? ちょ、ちょっと!?」
レイリンの声が遠い。
セイスイの笑い声が、波のように揺れる。
「よく飲んだわ。
さぁ……今日は、もう眠りなさい。
あなたの夜はここで終わりよ」
その声を最後に──
俺の意識は、紫の霧の中へ沈んでいった。




