35話 閉店後のご褒美──レイリンの誘い
メニャータの街は、新年の余韻を残しながら、徐々に落ち着きを取り戻していた。
──とはいえ、店の厨房はまだほんのりと温かい。
寸胴鍋の底にうっすらと残ったスープの香り。
今日一日使った菜箸、まな板の木目に残るスープの色。
カウンター越しに響いていた客の笑い声の余韻。
それら全部が、まだ俺の身体の中で揺れている。
「……ふぅ。今日も一日、お疲れさま」
レイリンが肩を回しながら言った。
あどけない笑顔のまま、だけどどこか充足感があって、
“開業二日目の看板娘”とは思えないほど堂々として見える。
「ほんと、よく働いたな……俺たち」
「ねっ。だけど……やっぱり嬉しいよね。
こんなにたくさんの人が来てくれたなんて」
彼女は胸に手を当てる。
その仕草はいつもの元気さとは違う。
どこか、少しだけしんみりとした温度。
「チュンシーちゃんも、すっごく喜んでたし……
マリーちゃんも、また食べに来てくれるって」
「そうだな。……ありがたい話だよ」
ふたりで店内を見回す。
客のいない店は広く感じる。
特に今日は、慌ただしく忙しかったぶん、余白の静けさが胸に染みた。
ふたりで掃除をして、食器を片付けて、
暖簾を下ろし終えたのは、夜の深い時間だった。
雪は静かに降り続けている。
「さて……寝るか?」
俺がそう言うと、レイリンは首を横に振った。
「ううん。ロン、今日は……がんばったでしょ?」
「……まぁ、俺なりにはな」
「なら、ご褒美あげたいなって思って」
「ご褒美……?」
レイリンは目を細めて笑った。
その笑顔は、今日一日のどの笑顔より柔らかい。
――ほんの少しだけ、大人っぽい。
「ロン。どこか、行きたいところある?」
「行きたいところ……?」
いきなり振られて、返事に詰まる。
メニャータに来てから、
俺は店と森と街を往復しただけだ。
だけど胸の奥に、ひとつだけ引っかかっていた場所がある。
(……セイスイ。
ゲーム最強のキャラのひとり。
闇属性の怪物)
そしてレイリンの話に出てきた
“助けてくれた人”。
俺が知りすぎている名前。
その店が、街のどこかにある。
迷った。
でも、言葉は自然と口から出た。
「……酒、飲める場所とか……あるのか?」
「あるよ。あるから聞いたの」
「……なるほど」
レイリンはコートを手に取り、ふわりと羽織った。
「じゃあ……行こ?」
「どこに?」
「お酒の飲めるお店だよ」
やっぱりか。
直感は当たっていた。
レイリンは暖簾の下りた店の鍵を閉め、
くるりとこちらを向いて、嬉しそうに言う。
「セイスイさんのお店。
“バー・ミスティカ”っていうの。
わたし、前に……助けてもらったから」
小さく息を呑む。
(やっぱり……セイスイの店、あったんだ)
ゲームにそんな店はなかった。
彼女はバトルキャラで、酒を扱うイベントCGはあっても、
「店を経営する」なんて描かれたことはない。
けれどこの世界では──
キャラたちが、生きている。
「ちょっとだけ、寄りたいの。
お礼も、ちゃんと言えてなかったから……ね?」
レイリンの頬が、冬の夜気で少し赤く染まる。
それは寒さのせいだけじゃないのかもしれない。
「よし。行こうか」
「うん!」
街灯の光に照らされながら歩き出す。
雪を踏む音が、さりさりと規則正しく鳴る。
店の賑わいを終えたあとの二人きりの帰り道は、
戦いとも厨房とも違う、不思議な静けさをまとっていた。
「ロン、今日は……楽しかったね。
忙しかったけど……ずっと笑ってた気がする」
「俺も。あんなに人が来てくれるとは思ってなかった」
「ふふっ。レイリンの接客、効いたでしょ?」
「レイリンのおかげだよ」
「……うん、ロンのラーメンもね」
互いの言葉に、ふっと沈黙が落ちる。
その沈黙が、なぜか心地よい。
風が吹いて、レイリンの紺色の髪が揺れた。
その横顔を見ると、胸の奥が少し熱くなる。
恋に落ちそうなわけじゃない。
ただ、心の距離が近づいているのは分かった。
気づかないふりをして、俺は口を開く。
「セイスイって……どういう人なんだ?」
「強いよ。すっごく。
わたしひとりじゃ絶対に太刀打ちできなかった」
「……やっぱりな」
「でもね、それだけじゃないの。
あの人、すごく綺麗で……ちょっと怖いけど、優しい」
レイリンは少し照れながら笑う。
「“困ったときは店に来なさい”って言ってくれて……
今日も、その……ロンと一緒に来れたらなって」
「……そうか」
言葉が少しだけ胸に染みた。
(困ったとき……か)
この世界に何があるか分からない。
頼れる相手がいるのは、心強すぎるほど心強い。
雪の街を抜け、少し暗くなった路地へと入る。
街灯が減り、代わりに紫の光が道を照らし始めた。
「……あっ、あれ」
レイリンが指さした先に、
妖しく美しい光を放つ看板があった。
《BAR MYSTICA》
金と紫を基調にした看板には、
夜の蝶のような紋章が輝いている。
店の前に立っただけで、
温度がひとつ変わったように感じた。
扉の隙間から漂う香り。
酒の芳醇な匂いと、魔法のような甘い気配。
(……これが、セイスイの世界)
「ロン、入ろ?」
レイリンが微笑む。
「ああ」
ドアを押した瞬間──
紫と金の光がゆらりと揺れ、
店内の空気が外へとこぼれ出た。
その空気は、
まるで歓迎の抱擁のように温かかった。
「いらっしゃい──」
低く、艶のある声が響く。
店の奥、特等席とも言える豪奢な台座に、彼女は優雅に腰掛けていた。
揺らめく紫の光は、まるで彼女の魔力が具現化したかのようなネオンサイン。
彼女の手には、なみなみと注がれた琥珀色の酒が入った朱色の杯。
それは客人に振る舞うためのものか、それとも彼女自身が楽しむためのものか。
紫銀の長い髪が揺れ、金のアクセサリーが光を受けて、夜の蝶のようにきらめく。
――セイスイ。
ゲームで最強と謳われた“酔華の魔女”。
その本物が、こちらを見て微笑んでいた。
「レイリン。よく来たわね。
……その子は?」
セイスイの瞳が俺を射抜いた。
その瞬間、背筋に冷たい電流が走る。
破壊力も、気迫も、ゲームの数値では測れない。
(……これが、UR格の圧か)
飲み込まれそうになった俺の腕を、
レイリンがそっと掴んだ。
「紹介するね。
わたしの……一緒にお店やってる人。
ロンだよ」
セイスイは小さく目を細めた。
「ふふ。なるほど……面白い子ね」
その声音は妖しく、
そして──どこか優しかった。
「さぁ、座りなさい。
せっかく来たんだから……
“最初の一杯”は、わたしが奢ってあげる。」
その言葉に、
俺とレイリンは静かに席につく。
夜はまだ長く、
セイスイの紫の魔法に満ちていた。




