33話 縁起物の一杯──朝の仕込みと緊張感
店に戻ると、
外の賑わいが嘘のように静かだった。
雪灯りが差し込む厨房は、
昨日の熱をほんのり残しているだけで、
空気は凛と冷えている。
その静けさは──
まるで「ここから一杯を作れ」と
厨房そのものが息を潜めて待っているようだった。
「……よし、始めるか」
(今日の一杯は……特別だ)
正月にふるまう“縁起物の一杯”。
街の人にとっては、
新しい一年を占うような、ささやかな幸運のおまじない。
この世界の文化は、ゲームにはなかった。
だからこそ──
余計に、大切に作りたい。
「ロン、火、いい感じだよ」
レイリンが、袖口をまくりながら横に立つ。
晴れ着を脱ぎ、仕事用のエプロン姿に戻った彼女は、
どこかいつもより引き締まって見えた。
彼女が用意した野菜を鍋に入れると、
冬素材特有の澄んだ香りが広がる。
「なんだか嬉しいな。
こうしてロンと一緒に“正月一杯”を作れるなんて」
ふと言ったその一言に、胸が少しだけ熱くなった。
(……俺こそだよ)
言葉にしてしまうと、
きっと妙に気恥ずかしくなる気がして、口には出さない。
代わりに、静かに鍋をかき混ぜた。
音のない朝。
火の揺れる音だけが、ふたりの会話のようだった。
1:骨の香りが立ち上がる──“始まりの火”
まずは“縁起物スープ”の主役、
冬のカルキノスの骨。
主人公の俺は骨を手に取ると、
表面の水分を丁寧に拭った。
火を入れた瞬間、
余計な水分があると、
“香りの層”がにごるからだ。
鍋を熱し、骨を置く。
――パチ、パチパチッ。
脂が弾ける音が、
小さな厨房を満たしていく。
同時に、
甲殻類特有の“甘い香ばしさ”が立ち上り、
正月の冷たい空気を押し返すように広がった。
(ああ……これは、この世界の“本物”の匂いだ)
ゲームでは決して感じられなかった香り。
それがいま、
目の前の現実で湯気となって立ち上っている。
2:野菜の息──“生命の音”
続けて、冬マンドラの白い根。
包丁が触れたときの感触は、
大根と蓮根の間のように密度がある。
切った瞬間──
シャクッ。
軽い雪を踏んだような、乾いた心地よい音。
レイリンがすぐ横で覗き込みながら言った。
「その音、好きなんだよね。気持ちよくて」
「わかるよ。うまい野菜ほど、いい音がする」
ゲームではアイコン一枚でも、
この世界では“音で美味さがわかる”。
マリーネの言葉が蘇る。
「冬の根菜はね、寒さでぎゅっと甘くなるの。
切ったときに“シャク”って鳴るのは、それ証拠!」
実際、切り口からふわりと甘い香りが立った。
3:鍋に落ちる一瞬──湯気の舞い上がる音まで描く
骨の焼け色がちょうどいい。
鍋に水を注ぎ、
焼いた骨を“ジュワッ”とくぐらせた瞬間──
――ぶわぁっ。
雪解けの湯気のように、
真っ白な蒸気が立ち上がる。
それはまるで、
店全体が一気に目を覚ましたようだった。
レイリンが思わず胸に手を当てる。
「すご……今日のスープ、いつもより香りが強いよ」
「冬素材は、旨味が逃げにくいんだ。
この寒さも……味方なんだよ」
4:調味の声──“この世界の味”を作る瞬間
塩、香辛料、海藻の粉。
主人公は慎重に調味料を計りながら、
心の中でゲーム時代の“最適値”を呼び出す。
しかし、そこで手が止まる。
(……違う。これはゲームじゃない)
鍋の香り、脂の量、野菜の甘さ、
それらはゲームの定数とは違う“生きた値”だった。
俺はほんの少しだけ塩を減らし、
逆に香味野菜を増やす。
鍋からすぐに返ってくる。
“その調整、正解”
と言わんばかりの香り。
レイリンが気づいたように小声で言った。
「ロン……なんか、変わったね。
昔のロンより、ずっと……料理人みたい」
「そうか?」
「うん。なんか……味に迷いがない。
すごく、頼もしいよ」
その言葉に、
胸が少しだけ熱くなった。
これは俺の経験。
ゲームじゃない“俺の手”で作っている。
この世界の一杯を。
5:完成──縁起物スープの“初湯気”
鍋の表面に黄金色の脂が輪を描き、
白湯の層がゆっくりゆらめく。
香りは──
海の深さと冬根菜の甘さが重なり、
鼻の奥がじんわり熱くなるほど深い。
「……いい香りだ」
「うん……これ、絶対おいしいよ」
レイリンが目を細めて言う。
店中に、
“この一年の最初の香り”が満ちていく。
俺は包丁を置き、深く息を吸った。
「よし。
新年一杯──出す準備はできた」
厨房の空気が軽く震えるように感じた。
鍋から立ち上がる湯気は、
まるで新しい年の“のぼり雲”みたいに
真っすぐ、温かく天井へと昇っていった。
その時、
「おっはよーっ!」
突然、店のドアが勢いよく開く。
「わっ……マリー!?」
レイリンが驚く。
雪を払って駆け込んできたのは、ペスカーナ・マリーネ。
「初詣終わったから、そのまま来たよ!
だって……“初ラーメン”って縁起いいでしょ?」
「来てくれるなんて嬉しいよ」
レイリンが笑うと、マリーネは腰のサーベルを誇らしげに叩いた。
「初海でね、すっごいデカい影が下通ってさ!
反射で『ひゅっ!』って突いちゃった!
海の神さまもびっくりしてたかも!」
「また刺したの……?」
「えへへ! まあ、いつものこと!
でも、新年の“海のおすそわけ”ってことで
今日は特別に元気いっぱいだよ!」
レイリンと俺は思わず目を見合わせて笑った。
(ほんと、この子は……すごいな)
「じゃ、席座ってるから!
“正月一杯目”……楽しみにしてる!」
マリーネが席に座ると、
俺たちは再び厨房へ向き合う。
正月の静けさ。
火のぱちぱちいう音。
鍋の中で踊る出汁の香り。
(よし……いま、仕上げる)
玉杓子を握る手に自然と力が入る。
麺を茹でる音が静かな店内に響き、
レイリンが隣で具材を整える。
ふたりの動きが重なり、
言葉はいらなかった。
やがて──
「できた」
俺は、湯気の立つ丼をそっと持ち上げた。
黄金色のスープ。
冬素材の甘味。
香り高い湯気。
これが──
この世界で迎える、俺の“初めての正月一杯”。
「ロン……すごく、いい香り」
レイリンが小さく目を細めた。
「運んでくるね」
「頼む」
レイリンが丼を両手で抱え、
慎重にマリーネのいる席へと歩いていく。
その後ろ姿が不思議と頼もしく見えた。
マリーネが丼を見た瞬間、
目がきらきら輝いた。
「わ……これ、新年にぴったりの香りだ……!」
丼の前で肩をすくめるようにして、
彼女は手を合わせた。
「いただきます!」
ひとくち。
次の瞬間、瞳がぱあっと輝いた。
「んっっっまい!!
今年……絶対いい年になるって味してる!!」
レイリンが顔を覆って笑い、
俺は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
(……よかった)
厨房の片隅で、静かに息を吐いた。
店の中に漂う湯気は、
まるで“新しい一年の始まり”そのもののように
まっすぐに昇っていった。




