3話 湯気の中の声
サービス終了から、どれくらい時間が経ったのか。
数週間か、数日か──とにかく現実の生活に戻ったつもりでも、心のどこかがずっと止まったままのような感覚があった。
夜になると、つい癖でスマホを手に取る。
開いても何もないと分かっているのに、指が勝手にアイコンに向かう。
“麺屋ドラゴンラーメン New Branch” の、あの赤と金のアイコン。
「……起動しちゃうよな、どうしても」
サービスは終わった。
データは消えた。
プレイヤーたちはそれぞれ別のゲームへ散り、SNSのタイムラインからもメンドラの文字は消えてしまった。
それなのに。
俺のスマホだけは、まだ入口を残している。
起動する。
いつも通りの白い画面。
そして、何も起こらない。
ロードは進まない。
通信は失敗し続ける。
──はずだった。
その夜は違った。
……その瞬間、スピーカーから、あの明るいBGMが流れ始めた。
メンドラを初めて起動した日のことを思い出す。
画面越しに見た初代ラーメン屋の瓦屋根。
暖簾が揺れるアニメーション。
ログインのたびに迎えてくれた、あのチープで愛おしいタイトル曲。
「……嘘。流れるんだ、まだ……」
サービス終了から数週間。
通常ならアプリは沈黙し、アイコンだけの残骸になる。
だけどNew Branchの入口は、なぜかまだ動き続けていた。
ランキングも、イベントも、ガチャも、街の灯りも、もう二度と戻らない。
でも、この曲だけは──消えない。
画面は相変わらず真っ白なままなのに、
曲だけが、まるで昔のまま、ちゃんと息をしているように響く。
俺だけが取り残された世界で、
俺だけに向けて演奏してくれているみたいだった。
「こんなん……残してるの、俺ぐらいだよな……」
思わず笑ってしまう。
苦しくて、愛しくて、泣きたくなる笑いだった。
店長だったつもりはない。
ただの一プレイヤーだった。
でも、気づけば自分の中で “帰る場所” になっていた。
──あの厨房の匂い。
──木の床を踏む音。
──レイリンの「いらっしゃいませっ!」という明るい声。
──マリルの掌からこぼれる光の粒。
──ノマディスが持ち帰った食材の匂い。
──ロンの包丁の音。
──そして、あの湯気。
全部、消えたはずなのに。
全部、終わったはずなのに。
スマホから流れるメロディだけが、
俺の中の“店”を呼び起こす。
目を閉じると、
そこにあるはずのない温かさが胸の奥で揺れた。
──そのときだ。
鼻をくすぐる、甘い香り。
こんな匂い、俺の部屋からするわけがない。
コンビニ弁当の残り香とも、カップ麺の粉スープとも違う。
もっと澄んでいて、もっと懐かしい。
出汁を取り始めた瞬間の香りに似ている。
湯気の奥に、何かがあるような匂い。
「……嘘だろ」
部屋が、ほんのり暖かい。
エアコンは切っている。
なのに空気が“湿って”いる。
湯気だ。
湯気が、俺の部屋に満ちている。
そんなはずはない。
でも、ある。
確かにある。
視界がぼんやり滲んだ。
スマホの画面が光に反射して揺れている。
光の粒がふわふわと浮かび、漂い始めた。
その光の向こうから──
「……店長……」
声。
どんな声だった?
男か女か?
亜人か獣人か?
レイリンか?
マリルか?
ロンか?
いや違う。誰とも断言できない。
でもひとつだけ分かる。
この声は、“メニャータの誰か”の声だ。
俺が忘れられなかった店。
俺が帰りたくてしかたなかった世界。
その奥から、誰かが呼んでいる。
「……帰ってきて……」
BGMが少しだけ大きくなる。
湯気の匂いが深くなる。
光がぼんやりと白く強まる。
さっきまで現実だった部屋が、
まるで“別の場所と繋がり始めた”ように歪む。
俺はスマホを落としそうになりながら、
ただ立ち尽くした。
「……俺を、呼んでるのか……?」
答える声はない。
でも、確かに感じる。
湯気の奥に “店” がある。
暖簾が揺れている。
木の床のきしみが聞こえる。
ありえないのに──懐かしすぎる。
画面の向こうの世界が、もう一度だけ俺を迎えようとしている。
そんな錯覚にしては、あまりにも優しいぬくもりだった。
湯気は、もう部屋の隅々にまで満ちていた。
床から壁へ、壁から天井へと、
まるでこの六畳間を“別の空間”として塗り替えるように、
ゆっくりと確実に広がってゆく。
「……さすがに、おかしいよな……」
俺はそう呟きながらも、
スマホの電源を切る気にはならなかった。
だって、これを切ったら──
本当に“全部”が終わってしまう気がした。
湯気はまるで命を持っているかのように揺れ、
光と香りをまとって踊る。
カップラーメンの湯気じゃない。
風呂場の蒸気でもない。
これは、あの厨房の湯気だ。
何度も、何百回もみた光景。
スープ鍋の縁からふわりと立ち昇る、
あの白い霞。
レイリンが湯切りをしたときに、
日の光と混ざりながら舞い上がった粒子。
マリルが火属性のスキルで鍋を温めた時に生まれた、
淡く光る湯気。
全部が混ざったような、
“懐かしい香りと景色の集合体” が、
いま俺の部屋を支配している。
「……夢、なんかじゃ、ないよな……」
思わず手を伸ばした。
指先が湯気に触れる。
触れた場所から……あたたかさが伝わる。
湯気は普通、触っても熱さや湿り気があるだけだ。
でもこの湯気は違った。
触れた瞬間──誰かの手の温度を感じた。
ほんの一瞬だけ。
でも確かに、そこに“存在”があった。
「……誰?」
問いかけたのは俺だったのか、
心の奥の声だったのか分からない。
湯気はゆっくりと形を変え、
人影の輪郭のような揺らぎを作った。
まだ誰とも判別できない。
髪が長いのか、短いのか。
背が高いのか、低いのか。
男か女か、亜人か獣人か。
本当に何も分からない。
でも、ひとつだけ分かる。
これは“俺を知っている世界の気配”だ。
そして、その揺らぐ影が……
ほんの少しだけこちらに近づいた。
「……店、長……」
音になりかけた気配が、
かすかに震えながら耳に触れる。
その呼びかけは、誰の声でもなかった。
誰かひとりの声ではなく、
店の仲間たち全員の声が混ざったような、
そんな不思議な響きだった。
レイリンの明るさ、
マリルの柔らかさ、
ノマディスの低い落ち着き、
ロンの誠実さ──
全部がひとつに溶けて、
まるで“店そのものが呼んでいる”かのような声だった。
「……帰って、きて……」
胸がじん、と熱くなる。
サービス終了の日、
俺はスマホを握りしめながら叫ぶことすらできなかった。
文字を打つことも、SNSに気持ちを書くこともできなかった。
ただ黙って、終わりを見つめるしかなかった。
言えなかった言葉が、
今になって喉の奥で震え始める。
「……帰りたいよ。
帰りたいに決まってるだろ……」
気づけば、涙が頬を伝っていた。
画面の向こうにいた仲間たち。
厨房の風景。
毎日のルーティン。
ログインの癖。
スタミナを気にする感覚。
メニューボタンの色。
従業員を眺める時間。
たった一年半だったけれど、
俺はあの世界で生きていた。
そして今──
その世界の“残響”が、俺を迎えに来ている。
「……行きたいよ……でも……」
“でも” の先は言えなかった。
行けるはずなんてない。
そんなこと、現実世界ではあり得ない。
あり得ないはずなのに──
湯気が、俺の手首を包んだ。
冷たくも熱くもない。
ただ、優しい。
まるで店にいた誰かが、
そっと手を引いてくれているようだった。
「……大丈夫……」
声が、ほんの少しだけ近くなった。
「……店長……戻って……」
涙でスマホが見えなくなっていく。
画面の白い光が広がり、
湯気と混ざって部屋の輪郭を溶かした。
現実の六畳間がゆっくりと歪んでいく。
本棚も、机も、壁紙も、時計も──
全部が湯気の向こうへ消えていく。
世界が、静かに……切り替わり始めていた。
湯気は部屋中に満ちていた。
けれど、俺が瞬きをすると、その湯気は一瞬だけ薄くなり、
まるで“現実”に押し戻されるように揺らいだ。
本棚も机も、壁紙も時計も──
すべてそこにある。
たしかにある。
でも、湯気がかかるたびに、
“店の景色に似た影” が一瞬だけ重なる。
消えては現れ、
現れては消える。
世界が切り替わったのではない。
ただ、あちら側の気配が一瞬、波のようにこの部屋へ触れているだけだ。
夢のようで、
でも夢では割り切れない。
薄い膜の向こうで、
誰かがこちらを見ているような感覚だけが残った。
そして──
「……店長……」
声がした。
けれど、それは隣の部屋から聞こえたのか、
スマホから漏れたのか、
俺の記憶が作り出した幻なのか、判別できなかった。
次の瞬間、湯気はすうっと消えた。
残ったのは、静かな六畳間と、
スマホから小さく流れ続けるNew BranchのBGMだけ。
世界はまだ、どこにも切り替わっていない。
ただ──
確かに“何か”が始まりかけている。
そんな予感だけが胸に残った。




