21話 店に灯る火──ここから生きる
初仕込みを終え、厨房の熱が少しだけ落ち着いた頃。
鍋の奥では、薄く白い湯気がまだ名残のように立ち上がっている。
ほんの少し濁りのあるスープ。
香りは控えめで、決して完璧な一杯ではない。
けれど──
俺の胸の奥で鳴る小さな鼓動は、確かにこう告げていた。
(……ここで、生きていくんだ)
ゲーム画面の向こうにあっただけの厨房。
ただのイラストだったはずの鍋も、包丁も、まな板も。
今は全部、触れることのできる現実だ。
その重みを手で確かめていると──
背中の方から、かすかに足音がした。
軽やかで、どこか弾むような足取り。
「ロン……?」
振り返った瞬間、レイリンが立っていた。
紺色のツインお団子が、ランタンの光に揺れ、
胸元の金の帯がほのかに輝く。
その瞳は、少しだけ濡れていた。
「……ロン、ほんとに……ほんとに帰ってきてくれたんだね」
小さく震える声。
笑っているのに、泣きそうで、
でも泣くまいと必死に堪えている。
レイリンは、一歩だけ近づき、
胸の前で指をぎゅっと組む。
「ロンがいなくなった時、
もう……二度と、ふたりでラーメンを作れないのかって思った。
でも……こうして戻ってきてくれて……」
言葉の続きが震えた。
俺は、その震えごともらうように、静かにうなずいた。
「ただいま。レイリン」
レイリンの目が大きく見開かれる。
次の瞬間──ほんの少し、涙がこぼれた。
でも、拭うことなく、彼女は笑った。
「……うん。おかえり、ロン」
そのやりとりの後、俺たちは厨房の中央まで歩く。
レイリンがそっとランタンを取り上げ、
芯を少しだけ押し上げて火を強めた。
ぱち、と火が跳ねる。
厨房の木の梁が橙色に照らされ、
静かだった空間に、生き物のような温かさが戻っていく。
レイリンは胸に手を当て、目を閉じた。
俺は無言のまま、竈の前に立った。
薪を三本くべ、火箸で形を整える。
火種が一度息を吸い込むように揺れ──
次の瞬間、炎がふっと大きく広がった。
ぼうっ、と音がして、厨房に新しい熱が満ちる。
俺はその光を見つめながら、小さく頷いた。
「……よし。やろう」
レイリンがぱあっと顔を輝かせる。
「じゃあ──準備、するね!」
彼女は軽やかにホールへ駆けていく。
テーブルの布を整え、箸と水差しを並べ、
カウンターの布巾を丁寧に拭き上げていく。
その所作ひとつひとつが、
ゲームでは見られなかった“生きているレイリン”そのものだった。
俺もまた、厨房の道具を整える。
包丁を研ぎ、まな板の位置を直し、
鍋の位置を少しだけ前へ寄せる。
どれも地味な作業なのに、
心臓がずっと高鳴っている。
(……本当に、開店するんだ)
この世界で。
この身体で。
レイリンと一緒に。
全ての準備が整ったとき、
店の外は、すでに朝の光に染まりつつあった。
俺たちは店先へと出る。
通りに雪が静かに降り積もり、
家々の屋根に漂う白い煙が空へ溶けていく。
そして──
そこにあった。
木彫りの看板。
《麺屋ドラゴンラーメン》
雪明かりに照らされて、
薄い光の膜がかかったように浮かび上がっている。
レイリンがそっと看板に触れる。
「ロンと一緒に……
いつか絶対、この街一番のお店にしたいって思って……
ふたりで名前を決めたんだよ? 覚えてる?」
胸がきゅっと痛くなった。
俺は記憶していない。
でも──知っている。
ゲームの向こうで、何度も見た看板。
ここで料理を作り続けた日々。
俺は静かに笑った。
「……覚えてるさ。忘れるわけない」
レイリンが嬉しそうに微笑む。
「じゃあ……行こう」
ふたりで暖簾の前に立つ。
息を合わせて──
暖簾を、そっと、上げる。
布がふわりと揺れ、
店の中へ新しい空気が流れ込む。
「麺屋ドラゴンラーメン……開店ですっ!」
レイリンの声がクリスマスの朝に弾ける。
俺は胸の奥に手を当てた。
熱い、確かな脈動。
(ここから生きる。
この店で。
レイリンと共に)
ふたりの足元には、
まだ踏み跡ひとつない雪。
でも──その上に刻まれる新しい足跡は、
確かに“物語の始まり”を告げていた。
サービス終了したはずの世界で、
俺たちの店は今、静かに火を灯した。




