2話 ありがとう、メンドラ。
画面が真っ黒になってから、どれくらい時間が経ったのか分からなかった。
スマホのディスプレイには、もう「麺屋ドラゴンラーメン」の店の灯りは映っていない。
さっきまで賑わっていた厨房も、行列のできていたカウンターも、何十回と眺めてきた「本日の売上」とゴクコインの数字も、跡形もなく消えている。
ただ、システムメッセージだけが、現実を静かに突きつけていた。
サービスは終了しました。
長らくのご愛顧、ありがとうございました。
頭では分かっていた。
今日がその日だということも、何週間も前から知っていた。
なのに、いざこの一文を目の当たりにすると、胸の奥にでかい穴が空いたみたいに、息をするのさえぎこちなくなる。
親指が、勝手に画面をなぞる。
何度スワイプしても、リロードしても、ショップ画面は開かない。
ダンジョン選択も、従業員リストも、ラーメンのレシピ一覧も──もう、どこにもない。
「……終わった、んだよな」
声に出してみると、その言葉が思った以上に重たくて、情けなく笑いがこぼれた。
最初に店を構えた日のことを、自然と思い出す。
何も分からないまま始めたチュートリアル。
「店名を入力してください」と促されて、十回くらい消しては打ち直して、結局シンプルに「麺屋ドラゴン」なんて安直な名前を付けた。
それでも、決定ボタンを押した瞬間、スマホの中に小さな店が生まれた気がして、その夜は意味もなく何度もホーム画面のアイコンを眺めたものだ。
最初に雇った従業員は、名もないRの青年だった。スキルも平凡で、ステータスも特別高くはない。
でも、チュートリアルを抜けたばかりの俺にとっては、彼ひとりが命綱だった。
厨房に立つドット絵の背中が、やけに頼もしく見えたのを覚えている。
そこから少しずつ、店は賑やかになっていった。
ガチャで引き当てたレア従業員たち。
URで画面いっぱいに現れた虹色の演出に、深夜ひとりで小さく叫んだ夜。
その中に、ジャク・ロンの姿を見つけたときの高揚感は、今でも鮮明だ。
無口だけど、どこか優しい目をした若い料理人。
ドラゴンの骨や尾を前にしても、眉ひとつ動かさず、淡々と包丁を振るう姿。
厨房の奥で、湯気の向こうにぼやける横顔を眺めながら、「うちの店も、ちょっと本物っぽくなってきたな」と、ひとりニヤけた。
看板娘のラン・レイリンを雇ったときは、もっと騒いだ。
「いらっしゃいませっ!」
彼女のボイスが流れた瞬間、スマホを持つ手が震えた。
何度もプロフィール画面を開き、立ち絵を眺めては戻って、また開いて。
その日以降、ログインするたびに、店先で彼女が手を振ってくれるのが、ささやかな楽しみになった。
マリル・アルヒーが加わったときは、「この店、だいぶ豪華になったな」と、謎の親心が芽生えた。
ノマディス・ヴォルペ、ザンダ・グラシム、ユウユウ、ルビルたち──
豊穣の森やセイユ草原、トリュー遺跡や忘れられた街でちまちま集めた食材を、彼らが手際よくラーメンに仕上げてくれる。
画面の向こうで湯気が立ち上るたび、自分が何か“店をやっている”ような気がして、仕事で疲れ切った夜でも、ログインボーナスだけは欠かさなかった。
あの頃は、ただただ楽しかった。
「もみじハンティング」で紅葉の中を駆け回ったり、
「ラーメン鬼盛り↑↑↑バイブス爆アゲ↑↑↑」で、意味の分からないテンションのイベントに巻き込まれたり、
「メニャータ大運動会」で、普段は厨房にいる従業員たちが、やたらスポーティに走り回るのを見て笑ったり。
イベントごとに配られる限定ラーメン、記念アイテム、特別ストーリー。
たしかに、そこにあったのはゲームの画面だけだけど──俺にとっては、毎日通う「行きつけの店」みたいな場所だった。
指が、スマホの画面端へと滑る。
クセで、「戻る」ボタンを押してしまう。
しかし、出てくるのはさっきと同じ、味気ないメッセージだけだ。
サービスは終了しました。
「……そっか」
ため息とも、笑いともつかない声が漏れる。
BCGだの、トークンだの、ゴクコインだの──
もちろん、それらも含めて「麺屋ドラゴンラーメン」だった。
グラフを眺めて一喜一憂した夜もあるし、計算して現実の財布を心配したこともある。
でも、今となっては、そんな数字よりもずっと鮮やかに思い出せるのは、
豊穣の森でマンドラゴラの青菜を拾ったときの音とか、
火ドラゴンの尾を初めて手に入れたとき、スマホの前でガッツポーズした自分とか、
ダンジョンの最深部で、ボロボロになりながらコカトリスを倒して、画面の中で従業員たちが笑い合っている姿だ。
俺は、トークンを集めていたんじゃない。
あの世界で、ラーメンを作り続ける日々が、ただ好きだったんだ。
机の上には、ぬるくなったコーヒーと、厳しくなった現実の家計簿。
開きっぱなしのノートパソコンの画面には、未完の資料と締め切り日。
そのどれもが、スマホの中のラーメン屋とは、別の時間を刻んでいる。
ふと、ホームボタンを押す。
ずらりと並んだアプリのアイコンの中に、まだ「麺屋ドラゴンラーメン」は残っていた。
サービスは終了しても、アイコンはすぐには消えない。
小さな丼マークが、こちらをじっと見つめている。
そのアイコンを長押しすれば、削除できる。
そうすれば、今の胸の痛みも、少しは薄まるのかもしれない。
だが、親指は動かなかった。
「……消せるわけ、ないだろ」
独り言のように呟いて、俺はスマホをそっと机に置いた。
横になって、天井を見上げる。
さっきまで、そこには湯気が立ち上っているような気がしていた。
ドラゴンの骨で取ったスープの匂い、香ばしく炙ったチャーシュー、バジリスクのニンニクを利かせた香り──
全部、想像上のものなのに、不思議とリアルに感じられる。
眠れそうにない。
立ち上がって、ふらふらとキッチンに向かう。
戸棚から、インスタントラーメンをひとつ取り出した。
どこにでも売っている、ごく普通のラーメンだ。
鍋に水を入れ、コンロに火をつける。
青白い火が揺れた瞬間、さっきまで見ていたゲーム内のコンロを思い出す。
厨房で、ロンが黙々と鍋を振っていた光景が、頭に浮かんだ。
「ロン……今ごろ、どこで何作ってんだろうな」
自分で言って、自分で苦笑する。
どこにもいない。ただのキャラクターだ。
サービスが終了した今となっては、データの欠片すら残っていないかもしれない。
それでも、俺の中には、確かに彼がいる。
何度も何度も、ドラゴンラーメンを作ってくれた背中が、消えずに残っている。
湯が沸く音がする。
麺を入れ、粉末スープを溶かし、タイマーも見ずに適当にほぐす。
ゲームみたいに、数値化された「コク」も「うまみ」も、「提供スピード」も表示されない。
ただ、夜更けのキッチンで、ひとりの人間がラーメンを作っている。
丼によそい、テーブルに運んで、箸を手に取る。
湯気が、ふわりと立ち上る。
その瞬間だけ、現実のラーメンと、スマホの中のラーメンが、どこかで重なった気がした。
「……いただきます」
ひと口すする。
ドラゴンの尾も、マンドラゴラの青菜も入っていない、普通のラーメン。
だけど、その味は、どこか懐かしくて、切なかった。
ああ、そうか。
俺は今、現実世界で“はじめて”ラーメンを作っているんだ。
あの世界で何千杯作っても、実際に手を動かしたことは一度もなかった。
材料を刻むのも、スープを取るのも、麺を茹でるのも、全部ロンたち従業員がやってくれていた。
俺は、指先で指示を出していただけだ。
けれど、たぶん──あの世界で過ごした時間がなかったら、今、こうして夜中にラーメンを作ろうなんて思わなかっただろう。
箸を置き、スマホを手に取る。
Xを開くと、「#麺屋ドラゴンラーメンありがとう」のタグが、トレンドに上がっていた。
タイムラインは、スクリーンショットと感謝の言葉で溢れている。
「うちの店はこれで閉店です!」
「最後の一杯は、ロン特製ドラゴンラーメンでした」
「メニャータで過ごした時間は宝物です」
「従業員たち、いままでありがとう!」
見知らぬ誰かの店の写真なのに、胸がじんと熱くなる。
みんな、それぞれに、自分の「麺屋」を持っていたんだ。
それぞれの店で、それぞれのストーリーが生まれて、今日まとめて「閉店の日」を迎えた。
俺も、何か言葉を残したくなった。
投稿ボタンを押し、文面を打ち始める。
最初は長々と書こうとした。
初期勢だったこと、イベントで徹夜したこと、ギルド仲間とVCを繋ぎながらダンジョンに潜った夜のこと。
ロンとの思い出、レイリンの笑顔、マリルの元気な掛け声。
でも、どれも狭い画面の中に収まりきらない気がして、途中で全部消した。
結局、残ったのは、たった一行だけだった。
サービス終了したゲームの世界で、俺はまだラーメンを作っている。
ありがとう、メンドラ。
「投稿」をタップする。
数秒後、「いいね」がひとつ、またひとつと増えていく。
そのどれもが、同じ世界を愛していた誰かの指先の動きだと思うと、知らない人たちのはずなのに、不思議と心強かった。
スマホを伏せる。
冷めかけたスープを飲み干し、空になった丼を見つめる。
「……ごちそうさまでした」
それは、現実のラーメンに対してだけじゃない。
メニャータのどこかにあった、あの小さな店。
ドラゴンの肉と、モンスターの葉と、バジリスクのニンニクと、従業員たちの笑顔でできていた世界に向けた、ささやかな感謝の言葉だ。
部屋の明かりを消す前に、もう一度だけスマホを手に取る。
ホーム画面の片隅で、「麺屋ドラゴンラーメン」のアイコンが、変わらずそこにある。
タップしても、もう店は開かない。
それでも、アイコンが映し出す丼のイラストを眺めていると、湯気まで見えてくる気がした。
「また、どこかで」
誰にともなく呟いて、スマホを伏せる。
その夜、布団に潜り込んだあとも、目を閉じれば、何度も湯気が立ち上る光景が浮かんだ。
ロンの背中、レイリンの笑顔、マリルのはしゃぎ声、ノマディスの渋い一言。
厨房の喧噪と、店の扉に吊るされた「営業中」の札。
やがて、夢と現実の境目が曖昧になっていく。
最後に心の中で、もう一度だけ呟いた。
──ありがとう、メンドラ。
その言葉に応えるように、どこからか、かすかな湯気の匂いがした気がした。




