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1.

 小高い丘の上で、私は立ち尽くしていた。春の柔らかな日差しが降り注ぎ、風は優しく足元の草花を揺らす。


 眼下には、隣の領地の湖が広がっている。その水面は、陽の光を受けてキラキラと煌めく。あの湖で、私は初めてハロルドの笑顔を見たのだった。懐かしさと切なさが込み上げてくる。


 見渡す景色のここかしこに、すべての想い出がある。子供のころのようにハロルドの姿を無意識に探して、我に返る。少し胸が痛んだ。


 この地で彼と遊び、彼に恋をして、彼と結婚し、彼と離婚した。思い出が次々と浮かんでは消えていく。


 私がハロルドと離縁したのは4年前、19歳の春だった。突然ハミルトン領の実家まで来るようにと両親から呼ばれ、気軽な外出のつもりでフィッツウィリアムの屋敷から出かけて、実家に着くとすぐに現状を両親から聞かされ、それきり婚家に戻らなかった。


 ハロルドは何度もハミルトン家を訪れたが、私は決して会わなかった。対応はすべて兄に任せきりにした。


 私には子を成す能力がないと判明したため実家に戻ったのだと、ハミルトン家ではそう説明することにしていた。フィッツウィリアム伯爵と伯爵家主治医の協力であらかじめ作成しておいた診断書を示し、責任感の強い彼に対して嫡子として最も重い責務をもつ部分を突くのがいいだろう、と。


 それでも食い下がるハロルドに、私がもう伯爵家に戻りたくないと言っているのだと兄は告げたそうだ。彼もよく知る私の特殊能力が不妊の原因であるため、フィッツウィリアム家にいればそれだけ私が辛い思いをするのだからわかってほしい。そう付け加えると、彼も折れるしかなかったらしい。


 半月後、兄とフィッツウィリアム伯爵による再三再四の説得に応じ、離婚を承諾する書面に彼がサインした。


 私が旧姓に戻った翌日、事業提携を解消し、損害賠償として魔法石鉱床を譲渡する旨を記した書類が、父からフィッツウィリアム家の弁護士に手渡された。そして、父はその足で王宮に赴き、我が家は破産と爵位返上を申請した。その時点ですでにハミルトン家は魔法石を取り扱う権限をすべて奪われており、事業の運営権限を維持できるかどうかの瀬戸際にいた。


 ほんの数週間前までなにも知らなかった私には、実家の没落が唐突すぎて、正直なところ実感がなかった。それよりもハロルドとの離縁のほうに消沈している自分に気付き、後ろめたく感じた。


 自他共に認める泣き虫の私だが、なぜか涙はまるで出なかった。醒めたような感覚で、自分を傍観しているような気がしていた。


 ハミルトン家の事情について伝え聞いたのだろう、その日の夕方、ハロルドが屋敷までやってきた。玄関ホールで争う物音の後、私に向けて呼びかける彼の声が耳に届く。


「フィオナ、こんなのはいやだ。納得できない。君のためになるからと承諾したんだ。こんなことのためなら離縁なんてしなかった。フィオナ、もう一度話し合おう」


 彼が大声を上げたのは、あれが初めてだった。思わず立ち上がって廊下へと一歩踏み出したとき、側にいた母に肩を掴まれた。私は椅子に戻った。


「出てきてくれ! フィー!」


 嗚咽交じりの彼の声に、私は座っていた椅子の肘掛けを握りしめて、部屋を飛び出して駆けつけたくなる自分を押さえ込んだのだった。


 その時の感情が蘇って身体の中を迫り上がり、唇を噛んで目を閉じた。そのまま感情が静まるのを待つ。


 風が優しく頬を撫でた。結い上げもせずに下ろしたままの髪がなびくのを感じた。まるで彼が私に触れているような気がする。


 ハロルドの顔が瞼の裏に浮かんだ。


 思い出される彼の顔は、4年前に私がフィッツウィリアム家を出た日の朝、まだ大学生だった彼が学校の寮に戻るのを見送ったときのものだ。「行ってらっしゃいませ」と私が声を掛けると、彼はいつもの笑顔を浮かべた。


 明るい金髪。切れ長の理知的な目。ヘーゼルアイ。バランスのいい端整な顔立ち。焦げ茶色の髪と瞳と平凡な顔立ちの私は、小さいときには羨ましくてならなかったものだ。


 背はそれほど高くはなくて細身だが、その顔の良さから大学近隣の女学校では人気の殿方の一人だったと聞く。もっとも、整っているのに感情が見えないせいか冷たい印象を与えがちであり、人の輪に自分から入ることはなく、たとえ話しかけられても最低限の受け答えしかしないため、学校同士の交流会でも遠巻きにされているだけだったそうだ。


 大学で教員をしている従兄弟の一人からそう教えられて、ホッとしつつ、憤慨もして、けれど少しばかり得意顔にもなってしまった。


 彼がとても穏やかで暖かな心を持っているのを、その女学生たちは知らない。知っているのは、彼の家族と私の家族だけだ。あまり口を開かないと言っても、話しかけられれば彼はきちんと耳を傾ける。私の取るに足らないおしゃべりも、いつも最後まで付き合ってくれた。それを彼女たちは知らないけれど、私たちは知っている。


 それに、無口な彼と思いついたことをすぐに口にしてしまう私は、足して2で割ればちょうどいい、と兄のアレクが揶揄って、両家の親たちは苦笑したことがある。つまり、だから、そういうことなのだ。


 そしてなにより、ほんの少しだけ目を細めて、口元を緩めるだけの、ハロルドの笑顔。あの笑顔を向けてもらえるのは私だけだ。世界で私だけ。


 彼の笑顔は私の宝物だった。

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