平和が訪れた世界に鐘は鳴る
朝の鐘が鳴ると、町にパンの香りが広がる。
焼きたてのクロワッサンが並び、広場の噴水では子どもたちが水を跳ね上げて笑っていた。
市場のカゴには果物が溢れ、花屋の前を通れば、ミントとローズマリーの香りが風に混ざってくる。
「ノア、ほら早く! 今日こそパン屋のいちばん焼き、間に合うって!」
カイルが、いつもよりちょっと本気の足取りで走っていた。
俺はそれを見て、ちょっとだけ笑って、足を速めた。
ベンチにはエリスがもう座っていて、赤い栞をひらひらさせながら本を片手に朝日を浴びている。
「またパン? 飽きないね、ほんと」
「違う。クロワッサンは主食なんだよ。エリスの主食は本かな?」
「読書を食べ物みたいに言わないで」
三人で笑い、パンを分け合い、今日もまた同じ朝が始まった。
鐘の音がもう一度鳴って、空は高く、雲は白い。
それだけで十分だった。
それだけで、今日もいい一日になると、心から思っていた。
---
「そういえばさ、町の外って、どうなってるんだろうな」
パンをかじりながら、カイルがぽつりと呟いた。
「またその話?」エリスが目を細める。「この前も言ってたでしょ。立ち入り禁止って」
「いや、でもさ。昔、父さんが言ってたんだ。農園の裏に、古い門があるって」
「じゃあ、行ってみるか。クロワッサン食べ終わったら」
「え、ほんとに? 行く? マジで?」
「マジでって……」
エリスは眉をひそめながらも、本を閉じて立ち上がった。
「……ちょっとだけよ。見に行くだけ。すぐ戻るって約束して」
*
農園の裏手は、町の中でもあまり人が来ない場所だった。
木の柵を越えて、果樹の影をすり抜けていくと、古びた石畳が草に埋もれていた。
その先にあったのは、蔓草の絡まった古い木門だった。確かに「外に通じてます」と言わんばかりの、無骨で重たそうなやつ。
「おお……マジであった」
カイルが目を輝かせる。
「開くのかな……?」
俺がそう言ったときには、もうカイルが押していた。ギイ……という音とともに、門は簡単に開いた。
風が一筋、俺たちの間を抜けた。少しだけ冷たい空気だった。
その先には、林が広がっていた。町のような整備はされていない。
木々はねじれ、空は少しだけ濁って見えた。なのに、なぜか――美しい、と思った。
「なあ、ちょっとだけ行こうぜ。すぐ戻るって」
カイルが言った。エリスは一瞬だけ戸惑って、それでも頷いた。
「五分だけよ。本当に」
*
林を抜ける途中で、最初の違和感があった。
空気が町よりもずっと乾いている。そして、音がない。鳥も虫もいない。
「……なあ、あれ」
カイルが指差した先にいたのは、一匹の豚だった。
ガリガリに痩せ細り、皮膚が赤くただれている。目だけが異様に潤んでいて、じっとこちらを見ている。
「え、なに……なんで、こんな……」
俺が一歩近づこうとした瞬間、豚がゆっくりと歩み寄ってきた。
足元で止まり、俺の服に顔を押し当てる。温かくて、苦しそうな呼吸が胸に伝わってきた。
そのとき、頭の奥で何かが軋むような感覚がした。
言葉にならない声が、胸の裏側に焼き付くように響いて――
「おい、誰かいるかーっ!」
遠くから怒鳴り声が響いた。町の制服を着た役人たちが、林の奥から現れた。
「……見つかった」
カイルが苦笑しながら呟く。俺は豚から目を離せなかった。
「そこから動くな! 立ち入り禁止だ! 今すぐ戻れ!」
取り囲まれ、俺たちは何も言えないまま、町へと引き戻されていった。
*
「今回のことは……忘れなさい」
そう言ったのは、役人の一人だった。優しい声だった。
けれど目は、まるで俺たちが“間違い”でもしたかのように冷たかった。
額に手を当てられた瞬間、視界がぼやけた。
薄れる世界の向こうで、鐘の音だけがはっきり鳴り響いていた。
でも、なぜだろう。俺は、それでも――何かを、はっきりと覚えていた。
豚の目。熱。吐息。
そして、あのとき感じた、言葉にならない違和感。
なぜか、それだけは、どうしても消えてくれなかった。
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「昨日のこと、覚えてるか?」
「え? 昨日? ……あー、なんか寝起き悪かったんだよな。頭もボーッとしてたし。なんかあったっけ?」
カイルは本当に、何も覚えていないようだった。
あの林のことも、豚のことも、役人たちの顔も。
エリスは、少しだけ様子が違った。
本を開いていても、どこか虚空でも眺めるかのようにぼーっとしていた。
「……エリス。昨日のこと、覚えてる?」
「……あ、ごめん。なにか言った?」
「――いや、なんでもない」
エリスはその後もずっと心がここにないような調子だった。
明らかにおかしいと思った。でも、不安を感じた俺は何も言えなかった。
*
その日の午後、俺は町を歩いた。
なんとなく、気になっていた。
農園の裏手に戻ってみたが、あの古びた門は鎖で封鎖されていた。
誰が、いつの間に。
水路のパイプを辿って歩くと、ふと気づいた。
農地の水は、外から引かれていない。
地下から湧いているようにも見えない。
循環しているのだ。完璧な密閉構造のように。
それでも、作物は豊かに実り、水は常に澄んでいた。
「……じゃあ、どこから来てるんだよ」
俺の声だけが、風に流された。
図書館にも足を運んだ。
歴史の棚に目を通すと、「魔王を倒した勇者の物語」がびっしりと並んでいた。
けれど――それ以前が、ない。
古い時代の記述が、ぽっかりと抜け落ちている。
まるで、“そこから世界が始まった”かのように。
俺が生まれるよりもずっと昔、勇者とその仲間が魔王を倒して世界に平和が訪れた、と聞かされていた。
なのに魔王を倒すの時代の記述がどこにもない。そして、その事実に今まで気づいていなかった――?
司書に尋ねると、微笑みながらこう言った。
「私たちにとって大切なのは、今の幸せですよ。ね?」
その言葉は、どこかで聞いたような言い回しだった。
*
エリスの家に行ったのは、その次の日だった。
彼女の母親が玄関先で言った。
「エリス? ああ、もう旅立ちましたよ。突然だったんだけど、本人が希望してね。幸せになれる場所に行くって」
旅立ち?
どこに? どうして? 誰と?
質問を重ねようとした瞬間、母親の目が――何かを拒むように、強く閉ざされた。
それ以上、俺には聞けなかった。
*
その晩、俺は夢を見た。
痩せた豚が、静かにこちらを見ていた。
動かない。声も出さない。
ただ、真っ直ぐに俺の目を見つめていた。
目が覚めたとき、なぜか涙が頬を伝っていた。
息がうまくできなかった。
喉の奥に、何かが詰まっているような、そんな朝だった。
---
あの日から、エリスの姿を見ていない。
朝のベンチにも、パンの匂いにも、本のページにも、彼女はいなかった。
「旅立ったんだってさ」
カイルが、何気ない調子で言った。
「どこに?」
「さあ。どこか、いいとこなんだろ。母親が言ってた。“本人が望んだ”って」
彼は本当に信じていた。
それが、自然で、正しいことだと思っていた。
……そして、それが一番、恐ろしかった。
*
その夜、俺はふと目を覚ました。
部屋の中には誰もいない。けれど、何かがいた。
窓の外、ぼんやりとした小さな光が、ふわふわと浮いていた。
目を凝らすと、それはまるで、俺の目の前に現れるのを待っていたかのようだった。
俺がベッドから身を起こすと、その光はゆっくりと動き出した。まるで導くように。
誘われるように、俺はその光を追った。
家を出て、裏道を抜け、農園の裏手へ。
光はそこでふっと消えた。
あのとき封鎖されたはずの古い門は、いつの間にか開いていた。
誰かが、通った跡。
草が倒れている。泥が新しい。獣道のように、奥へと続いている。
俺はその道を追った。
農園の裏手から伸びたその足跡は、町の外れにある旧城の裏口へ繋がっていた。
そしてそこには、“車輪の跡”があった。
太い轍。土を深くえぐった痕。
なにか、荷車のようなものでも通ったのであろうか。
その先には、立ち入り禁止の札。
朽ちた門。扉は開いていた。
*
地下は、冷えていた。
階段を下る。
鉄格子の先に、薄緑色の光がゆらいでいる。
魔力の、動いている音。脈動。心臓の鼓動のような響き。
装置があった。
半死体のような男が、魔力炉と繋がれ、命を繋がれている。
その足元に――赤い栞が、落ちていた。
――――エリスが使っていた、赤い栞。
ノアの手が震えた。
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「ようこそ」
そこに立っていたのは、少女の姿をした女――魔女だった。
本に描かれていた、勇者の仲間。
「ここまで来たのね。記憶の封も、認知の歪みも、全部越えて」
「どうして、俺だけ.....」
「きっと、あなたが選ばれたの。……あの人に」
奥には、勇者がいた。
髪は白く、皮膚は青白く、目の色は濁っていた。
魔王から世界を救った英雄の気配など、どこにもなかった。
「町は、平和だったろう。お前も……きっと幸せだったはずだ」
「……ああ。でも、その幸せの下に、一体どれほどの犠牲があったんだ?」
「全部を救う術は、なかった」
「だから隠したのか?」
「世界を、守るためよ」
「記憶を消して、認知を歪めて、疑うことすら許さずに?」
「……俺たちも、もう限界なんだ」
「だから、君が選んでくれ」
勇者は、沈黙のあと、低く静かな声で言った。
「一つ。何もかも忘れて、日常へ戻れ。
記憶も疑念も痛みも、俺たちがすべて消してやる。お前はまた、パンの匂いで目を覚ませばいい」
「二つ。ここを壊せ。魔力炉を止めれば、この町は崩れる。
人は飢え、死ぬ。だが、それもひとつの正義だ。選ぶなら止めはしない」
「そして三つ。お前が――――――――。」
「……どれでもいい。お前の心が選ぶなら、それが正解だ」
ノアは、震える手を握りしめた。
そして、町に鐘の音が広がった。
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町は今日も、パンの香りで目を覚ました。
市場には果物が並び、噴水の前では子供たちが水を跳ね上げて笑っていた。
カイルがいつものように、クロワッサンを片手に走ってくる。
「おーい、ノア! ……あれ、いねぇな?」
ベンチには誰もいない。
でも、エリスの本が置かれていた場所は、綺麗に掃除されていた。
役人が一人、静かに立っていた。
新しく就いたその顔に、誰も疑問を持たなかった。
日が沈み、鐘の音が鳴る。
夜の帳が町を包み、明かりがひとつ、またひとつと消えていく。
地下。
管が脈動する音。魔力の流れる音。
その中心で、三つの影が蠢いていた。
そして、影を見下ろす一人の男がいた。
その男の手は、もう震えてはいなかった。
誰もが鐘の音で今日も眠る。
世界の平和は、保たれたのだ。