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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

平和が訪れた世界に鐘は鳴る

作者: 黒雨紳士

朝の鐘が鳴ると、町にパンの香りが広がる。

焼きたてのクロワッサンが並び、広場の噴水では子どもたちが水を跳ね上げて笑っていた。

市場のカゴには果物が溢れ、花屋の前を通れば、ミントとローズマリーの香りが風に混ざってくる。


「ノア、ほら早く! 今日こそパン屋のいちばん焼き、間に合うって!」


カイルが、いつもよりちょっと本気の足取りで走っていた。

俺はそれを見て、ちょっとだけ笑って、足を速めた。


ベンチにはエリスがもう座っていて、赤い栞をひらひらさせながら本を片手に朝日を浴びている。


「またパン? 飽きないね、ほんと」


「違う。クロワッサンは主食なんだよ。エリスの主食は本かな?」


「読書を食べ物みたいに言わないで」


三人で笑い、パンを分け合い、今日もまた同じ朝が始まった。

鐘の音がもう一度鳴って、空は高く、雲は白い。

それだけで十分だった。

それだけで、今日もいい一日になると、心から思っていた。



---



「そういえばさ、町の外って、どうなってるんだろうな」


パンをかじりながら、カイルがぽつりと呟いた。


「またその話?」エリスが目を細める。「この前も言ってたでしょ。立ち入り禁止って」


「いや、でもさ。昔、父さんが言ってたんだ。農園の裏に、古い門があるって」


「じゃあ、行ってみるか。クロワッサン食べ終わったら」


「え、ほんとに? 行く? マジで?」


「マジでって……」


エリスは眉をひそめながらも、本を閉じて立ち上がった。


「……ちょっとだけよ。見に行くだけ。すぐ戻るって約束して」



農園の裏手は、町の中でもあまり人が来ない場所だった。

木の柵を越えて、果樹の影をすり抜けていくと、古びた石畳が草に埋もれていた。


その先にあったのは、蔓草の絡まった古い木門だった。確かに「外に通じてます」と言わんばかりの、無骨で重たそうなやつ。


「おお……マジであった」


カイルが目を輝かせる。


「開くのかな……?」


俺がそう言ったときには、もうカイルが押していた。ギイ……という音とともに、門は簡単に開いた。

風が一筋、俺たちの間を抜けた。少しだけ冷たい空気だった。


その先には、林が広がっていた。町のような整備はされていない。

木々はねじれ、空は少しだけ濁って見えた。なのに、なぜか――美しい、と思った。


「なあ、ちょっとだけ行こうぜ。すぐ戻るって」


カイルが言った。エリスは一瞬だけ戸惑って、それでも頷いた。


「五分だけよ。本当に」



林を抜ける途中で、最初の違和感があった。

空気が町よりもずっと乾いている。そして、音がない。鳥も虫もいない。


「……なあ、あれ」


カイルが指差した先にいたのは、一匹の豚だった。

ガリガリに痩せ細り、皮膚が赤くただれている。目だけが異様に潤んでいて、じっとこちらを見ている。


「え、なに……なんで、こんな……」


俺が一歩近づこうとした瞬間、豚がゆっくりと歩み寄ってきた。

足元で止まり、俺の服に顔を押し当てる。温かくて、苦しそうな呼吸が胸に伝わってきた。


そのとき、頭の奥で何かが軋むような感覚がした。

言葉にならない声が、胸の裏側に焼き付くように響いて――


「おい、誰かいるかーっ!」


遠くから怒鳴り声が響いた。町の制服を着た役人たちが、林の奥から現れた。


「……見つかった」


カイルが苦笑しながら呟く。俺は豚から目を離せなかった。


「そこから動くな! 立ち入り禁止だ! 今すぐ戻れ!」


取り囲まれ、俺たちは何も言えないまま、町へと引き戻されていった。



「今回のことは……忘れなさい」


そう言ったのは、役人の一人だった。優しい声だった。

けれど目は、まるで俺たちが“間違い”でもしたかのように冷たかった。


額に手を当てられた瞬間、視界がぼやけた。


薄れる世界の向こうで、鐘の音だけがはっきり鳴り響いていた。


でも、なぜだろう。俺は、それでも――何かを、はっきりと覚えていた。


豚の目。熱。吐息。

そして、あのとき感じた、言葉にならない違和感。


なぜか、それだけは、どうしても消えてくれなかった。



---



「昨日のこと、覚えてるか?」


「え? 昨日? ……あー、なんか寝起き悪かったんだよな。頭もボーッとしてたし。なんかあったっけ?」


カイルは本当に、何も覚えていないようだった。

あの林のことも、豚のことも、役人たちの顔も。


エリスは、少しだけ様子が違った。


本を開いていても、どこか虚空でも眺めるかのようにぼーっとしていた。


「……エリス。昨日のこと、覚えてる?」


「……あ、ごめん。なにか言った?」


「――いや、なんでもない」


エリスはその後もずっと心がここにないような調子だった。

明らかにおかしいと思った。でも、不安を感じた俺は何も言えなかった。



その日の午後、俺は町を歩いた。

なんとなく、気になっていた。


農園の裏手に戻ってみたが、あの古びた門は鎖で封鎖されていた。

誰が、いつの間に。


水路のパイプを辿って歩くと、ふと気づいた。

農地の水は、外から引かれていない。

地下から湧いているようにも見えない。

循環しているのだ。完璧な密閉構造のように。

それでも、作物は豊かに実り、水は常に澄んでいた。


「……じゃあ、どこから来てるんだよ」


俺の声だけが、風に流された。



図書館にも足を運んだ。


歴史の棚に目を通すと、「魔王を倒した勇者の物語」がびっしりと並んでいた。

けれど――それ以前が、ない。

古い時代の記述が、ぽっかりと抜け落ちている。

まるで、“そこから世界が始まった”かのように。


俺が生まれるよりもずっと昔、勇者とその仲間が魔王を倒して世界に平和が訪れた、と聞かされていた。

なのに魔王を倒すの時代の記述がどこにもない。そして、その事実に今まで気づいていなかった――?


司書に尋ねると、微笑みながらこう言った。


「私たちにとって大切なのは、今の幸せですよ。ね?」


その言葉は、どこかで聞いたような言い回しだった。



エリスの家に行ったのは、その次の日だった。

彼女の母親が玄関先で言った。


「エリス? ああ、もう旅立ちましたよ。突然だったんだけど、本人が希望してね。幸せになれる場所に行くって」


旅立ち?

どこに? どうして? 誰と?

質問を重ねようとした瞬間、母親の目が――何かを拒むように、強く閉ざされた。


それ以上、俺には聞けなかった。



その晩、俺は夢を見た。


痩せた豚が、静かにこちらを見ていた。

動かない。声も出さない。

ただ、真っ直ぐに俺の目を見つめていた。


目が覚めたとき、なぜか涙が頬を伝っていた。

息がうまくできなかった。

喉の奥に、何かが詰まっているような、そんな朝だった。



---



あの日から、エリスの姿を見ていない。


朝のベンチにも、パンの匂いにも、本のページにも、彼女はいなかった。


「旅立ったんだってさ」


カイルが、何気ない調子で言った。


「どこに?」


「さあ。どこか、いいとこなんだろ。母親が言ってた。“本人が望んだ”って」


彼は本当に信じていた。

それが、自然で、正しいことだと思っていた。

……そして、それが一番、恐ろしかった。



その夜、俺はふと目を覚ました。

部屋の中には誰もいない。けれど、何かがいた。


窓の外、ぼんやりとした小さな光が、ふわふわと浮いていた。

目を凝らすと、それはまるで、俺の目の前に現れるのを待っていたかのようだった。


俺がベッドから身を起こすと、その光はゆっくりと動き出した。まるで導くように。


誘われるように、俺はその光を追った。


家を出て、裏道を抜け、農園の裏手へ。

光はそこでふっと消えた。

あのとき封鎖されたはずの古い門は、いつの間にか開いていた。


誰かが、通った跡。


草が倒れている。泥が新しい。獣道のように、奥へと続いている。


俺はその道を追った。

農園の裏手から伸びたその足跡は、町の外れにある旧城の裏口へ繋がっていた。


そしてそこには、“車輪の跡”があった。

太い轍。土を深くえぐった痕。


なにか、荷車のようなものでも通ったのであろうか。


その先には、立ち入り禁止の札。

朽ちた門。扉は開いていた。



地下は、冷えていた。


階段を下る。


鉄格子の先に、薄緑色の光がゆらいでいる。

魔力の、動いている音。脈動。心臓の鼓動のような響き。


装置があった。

半死体のような男が、魔力炉と繋がれ、命を繋がれている。


その足元に――赤い栞が、落ちていた。


――――エリスが使っていた、赤い栞。


ノアの手が震えた。



---



「ようこそ」


そこに立っていたのは、少女の姿をした女――魔女だった。

本に描かれていた、勇者の仲間。


「ここまで来たのね。記憶の封も、認知の歪みも、全部越えて」


「どうして、俺だけ.....」


「きっと、あなたが選ばれたの。……あの人に」


奥には、勇者がいた。


髪は白く、皮膚は青白く、目の色は濁っていた。

魔王から世界を救った英雄の気配など、どこにもなかった。


「町は、平和だったろう。お前も……きっと幸せだったはずだ」


「……ああ。でも、その幸せの下に、一体どれほどの犠牲があったんだ?」


「全部を救う術は、なかった」


「だから隠したのか?」


「世界を、守るためよ」


「記憶を消して、認知を歪めて、疑うことすら許さずに?」


「……俺たちも、もう限界なんだ」

「だから、君が選んでくれ」


勇者は、沈黙のあと、低く静かな声で言った。


「一つ。何もかも忘れて、日常へ戻れ。

 記憶も疑念も痛みも、俺たちがすべて消してやる。お前はまた、パンの匂いで目を覚ませばいい」


「二つ。ここを壊せ。魔力炉を止めれば、この町は崩れる。

 人は飢え、死ぬ。だが、それもひとつの正義だ。選ぶなら止めはしない」


「そして三つ。お前が――――――――。」


「……どれでもいい。お前の心が選ぶなら、それが正解だ」


ノアは、震える手を握りしめた。



そして、町に鐘の音が広がった。



---



町は今日も、パンの香りで目を覚ました。


市場には果物が並び、噴水の前では子供たちが水を跳ね上げて笑っていた。


カイルがいつものように、クロワッサンを片手に走ってくる。


「おーい、ノア! ……あれ、いねぇな?」


ベンチには誰もいない。

でも、エリスの本が置かれていた場所は、綺麗に掃除されていた。


役人が一人、静かに立っていた。


新しく就いたその顔に、誰も疑問を持たなかった。


日が沈み、鐘の音が鳴る。


夜の帳が町を包み、明かりがひとつ、またひとつと消えていく。


地下。

管が脈動する音。魔力の流れる音。


その中心で、三つの影が蠢いていた。


そして、影を見下ろす一人の男がいた。

その男の手は、もう震えてはいなかった。


誰もが鐘の音で今日も眠る。

世界の平和は、保たれたのだ。

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