第66話 月夜
「なんでだ! なんでこれだけ、探しても何も出てこないなんだ!」
アステルは、この2日間召喚の手がかりを探して、ゴーストタウンと化した村を一軒一軒隈なく捜し歩いた。しかし、何かそれらしいモニュメントはもちろん、呪術的なサインやマークの痕跡など結局何一つ発見できなかった。
「…………」
アステルを見つめるファラリスの表情にも疲労と困惑の色が濃い。この2日間で、2周家々を回ったのだ。
そして、何も見つからなかった。
ただ、忽然と住民が消えた。状況はそう語っている。
辺りは、二人の徒労感を加速させるように、急速に暗さを増していく。この世界でも、つるべ落としに例えられるほど、冬の夕暮れは早く短い。
日が落ちきるの待たずに、冷気が村を覆っていく。
「クソっ! 何か、何かあるはずなんだ!!」
アステルは、募る徒労感から怒りを溢れさせる。
「……アステル、気持ちは分かるが、今日はこれまでにしよう。……それから、明日は他の村へ行ってみよう。他でなら、また違った目線で何か見つかるかもしれない……」
ファラリスは、珍しく感情的になっているアステルに言葉を選びながら提案した。
「この村でだって、まだ何も手がかりがないんだ! 他所に行ってそう簡単に見つかるかよ!」
「し、しかし、もう日も暮れる——」
「黙れよ! 俺一人だって必ず何か見つけてやる。必ずな!」
「…………」
掃き捨てるようなアステルの言葉に、ファラリスは無言で返す。ただ、そのアイスブルーの瞳には、深い哀れみの色が浮かんでいた。
「……悪かった。アタるつもりはなかったんだ。」
ファラリスのアイスブルーの瞳にたしなめられて、アステルはバツが悪そうな顔をする。
「とにかく、外は冷え込んできた。昨日泊まった家に戻ろう」
「……ああ、そうだな」
昨晩は、村長の家と思われる、比較的大きな建物に泊まった。その家の庭には、おそらく薪にするため切り出したものだと思われる雑木が放置されたままになっており、二カ月前から時間が止まったままであることを感じさせた。
アステルは、昨晩と同じように雑木を手刀で切り裂いて薪にし、屋内の暖炉の前に運び込んでいく。昨晩も冷え込みが激しかったので、念のため多くの薪を準備する。
2度目に薪を運び込もうとしたとき、アステルは、ふと、夜空を見上げた。
雲のない澄んだ夜空に二つの満月が顔を出していた。あの日、召喚された神殿で初めて見た大小二つの月が、すっかり暗くなった辺りを煌々と照らし始めていた……。
アステルの目に二つの満月の光が差し込んだ時、それは突然始まった。
アステルの褐色の肌が金色に輝き始め、眩い光を強めていく。
体から力が抜け、抱えていた薪の束を放り出すと、その場にしゃがみ込む。
『Το όνομά μου είναι Ἀστάρτη(ワタシノナハ アスターテ)』
程なくアステルの脳内に、いつか聞こえた美しい声が響く。
忘れることはない。この体へと転生を遂げたあの日、意識を取り戻し、覚醒する直前に聞こえた美しい女の声だ。
『Πάει καιρός που μιλήσαμε(ヒサシブリニ ハナシマスネ)……』
アステルは脳内に木霊する女の声に陶然となる。その声は、アステルの脳を溶かすような甘美な響きを持ち、否が応でも普段は内に秘めた雄の本能を刺激する。
『Μπορώ να σου μιλήσω μόνο σε φεγγαρόλουστες νύχτες όπως απόψε(アナタトハナセルノハ コンヤノヨウナ ツキヨノバンダケナノデス)』
困ったような女の声に、アステルは狂おしいほど感情を揺さぶられる。
美や愛の女神がいるとすれば、おそらくこの声の主がそうだろう。
『Χάρη σε σένα πήρα το σώμα μου πίσω(アナタノオカゲデ モトノカラダヲ トリモドセマシタ)』
——どういう意味だ……。
本能や欲望が理性を制し、何かを考えることすら面倒になる。そんな、聞く者を陶酔させずにはおかない甘美な囁き。
だが、アステルの否、神谷惣治の中にある聖人の力が、これを僅かに押しのけ、もぎ取られそうな理性を辛うじて支える。
「どういう意味だ。教えてくれ、アスターテ……」
甘い欲望に支配されそうになっていた意識が、徐々に鮮明に、クリアになって行く。
『ヤハリ アナタハ 選バレシ 存在ノヨウデスネ ソウデナケレバ とても ワタシに語リカケテくることなどできない』
アステルの中で、アスターテの言葉が、いよいよ意味をハッキリさせていく。
「……アスターテよ、もう一度聞く。お前のことを俺に教えてくれ」
『……いいでしょう。アナタはワタシ、ワタシはアナタ。これはアナタ自身の事ゆえ、アナタには知る権利があります……。
ワタシは、かつてあらゆる世界で美と豊穣の女神と称えられる存在でした。
しかし、ある日、アダドメルクと名乗るとてつもない力を持った存在が現れ、ワタシをあの悍ましい悪魔アスタロトの姿に変えたのです。
意識を奪われる前、ワタシは変わり果てた自身の悍ましい姿に絶望しました。そして、心を闇に染められ、自我を失いました……。ワタシの意識は、あの悪魔アスタロトの中に眠る僅かばかりの理性として閉じ込められました。
それからのことは、申し訳ありませんが、話したくありません……。ただ、あらゆる存在に対して罪深い行いを繰り返しました……。
しかし、この絶望の暗闇に唐突に光が差し込みました……』
「それが、俺だと?」
『ええ、そうです。あの日、あの愚かな人間によってアスタロトが召喚され、アナタを依り代にして使役しようとしたことで全てが一変しました。
この世界に受肉するために依り代のアナタと合体したことで、アナタの聖なる力が、アスタロトの邪悪な精神を滅ぼしたのです。邪悪なる魂が滅びたことで、封印の鎖が解け、元のアスターテの姿を取り戻したのです。
もちろん、アナタは男、ワタシは女神。すべてが元通りになることなどあり得ませんが……』
最後の響きは甘美すぎて、アステルは再び下半身が熱くなる。もし、目の前に鏡があれば、今の自分の表情に恥ずかしさで狂うことだろう。
「……そ、それでなぜ今まで、語りかけてこなかったんだ」
活舌が悪くなるほどの気恥ずかしさだ。声だけでこんな気分になるとは。
美と豊穣の女神というのは大げさではないらしい……。
『先ほども言いましたように、アナタと話せるのは、今宵のような二つの月が満ちた晩、この世界ではルシニーというらしいけれど。それは、月の魔力が最大化し、アナタの理性が最も弱まるから……』
「確かに、今日の俺は何かイラついていた。あんな程度で、ファラリスに当たり散らすなんて……。もしかしたら、この狂おしい気分も——」
『——フフッ。そうかもしれませんね』
「クッ……」
これ以上なく、甘い吐息にも感じられる囁きに、またしても理性が脅かされる。こんな、一人で身悶えしている姿を誰かに見られたら、変態で確定だ。
『……そうやって抗わなくても良いのです。……本来、心と体は不可分のモノ。ワタシの声は、ワタシの心なのです。それが、鋼のような理性を持つアナタでも抗しえない理由です。
その体は、アナタのモノでありワタシのモノでもある。逆にアナタでなければ、その体はとっくにワタシの支配下にあるはずなのです。それが、普段はアナタだけのモノとなっている。今宵だけでも、その体をワタシに譲ってくれても良いはずです』
アスターテの内なる声は、益々官能的な響きを強くし、アステルは、理性を先細らせていく。
「……ひ、一晩だけなら……譲っても、いいが……、そ、その前に、お前の力を、お、俺に、貸して欲しい……」
この交渉は、できる最後の抵抗だった。
『……いいでしょう。アナタの渇望、僅かですがワタシも力を貸せます。……何より、これまでのアナタの活躍にご褒美をあげなくてはね……。今宵、アナタはワタシと深く交わり、明日の朝、目覚めた時、幾つか新しい力に目覚めるはずです……』
美しい響きと共に押し寄せる官能の波は、僅かに残る最後の理性を押し流す。そして、アステル、否、アスターテは甘美な笑みを浮かべる。
その長い白銀の髪は艶やかさを増し、髪の間から覗く優美で繊細な顔は、もはや美の女神そのものであった。
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第8話以来のダブル満月の回でした。
近日中にもう一話投稿します。




