許されざる者 (夏詩の旅人 「風に吹かれて…篇」1話)
1987年5月
GWに行われた学園祭で、僕のバンドのライブが終わってから、1週間以上が過ぎた頃。
渋谷にある僕のバイト先、ダイニング“D”へ、今年の4月からバンドに加わった新入生のマサシとハチが突然訪ねて来た。
「なんだお前ら、どうしたんだ急に?」
彼が2人にそう聞くと、ベースのマサシが神妙な顔つきで、「センパイ…、ちょっとお話が…」と言うのであった。
「分かった…。もうすぐバイト終わるから、それまで店の中で待っててくれ…」
何かあるな…?と思った彼は、マサシにそう言うと、そのまま仕事を続けた。
「誰?、あのコたち…?」
バイト仲間でウェイトレスの山岸アユミが、バックヤードに戻って来た彼に聞く。
その隣には、金髪ソフトモヒカンのタカも立っていた。
「ああ…、あいつら?…、あの2人は、俺のバンドメンバーで、マサシとハチっていうんだ」
ヤマギシに彼がそう言った。
「あら?、じゃあ、この前、みんなで応援に行ったステージで演奏してたのはあのコたちなの?」(ヤマギシ)
「そう…、あいつらのパートは、ベースとドラム」(彼)
「どうかしたんスか?」とタカが聞く。
「分からん…、でもあの顔つきからすると、たぶんバンド辞めたいとか、そういう感じだな…」(彼)
「せっかくメンバー揃ったのに、またこれでしばらくライブが中止になっちゃいますね?」
ロン毛を後ろに縛った、切れ長の目のヤスも、彼の傍に来て言う。
「ほらそこ!、おしゃべりしてないで!、仕事!、仕事!」
頭頂部が薄いフランケンシュタインの様な顔をした店長の、ドカチンこと、永川ひさしが手をパンパン叩きながらみんなを注意する。
※ドカチンは彼より1つだけ年上の店長である。背も180cmほどあるが、若ハゲでアイドルオタクの男である。
「はぁ~い…」
みんなが間延びした返事をすると、その場から散り散りになるのであった。
「どうした…?」
それから22時にバイトが終わった彼は、店内の2人が座っていた席に着くなり、彼らにそう聞いた。
「あの…、俺たちバンド辞めさせてもらえないかと思いまして…」
うつむき加減にマサシが言う。
「そっか…。なんかあったのか…?」
やっぱりそうか…と思った彼が、2人にワケを聞く。
「あの…、この前の学園祭ライブでジュンちゃんがスカウトされたじゃないですか…?」
マサシが言っているのは、この前の学園祭のライブで、たった1曲だけ歌ったジュンが、ステージ終了後には、すぐプロとしてすぐスカウトされた事を言っているのである。
「それが、どうかしたのか…?」と彼が言う。
「俺たちも、自分のやってみたいスタイルがありまして…、それで、その、俺たちもそのスタイルでプロを目指してみたいんです!」
マサシが切羽詰まった表情で彼に言った。
「お前らのやりたいスタイルって…?」(彼)
「ビジュアル系ロックって、分かります…?」(マサシ)
「知らん…」(彼)
「デビッド・ボウイみたいに、メイクしてビート系のロックをやるんですよ!」(ハチ)
「男が化粧すんのか?」(彼)
「これからは、ビジュアル系の時代になりますよ!、今、じわじわとブームが起きつつあります」(マサシ)
「そうなんだぁ…?」(彼)
「日本では、まだ誰もやってない事を先取りするんです!」(ハチ)
「俺が中学ン時、ジュリー(沢田研二)が、既に化粧して歌ってたぞ…、俺、ベストテンで観たもん…」(彼)
「そういうのとは、ちょっと違うんですよぉ…、わかんないかなぁ…?(苦笑)」(マサシが困惑する)
「とにかく、俺たちはビジュアル系をやりたいんですよぉ!」(ハチ)
「そうか…、カズにはその事はもう話してあるのか?」
彼が言ったカズとは、バンドのギタリストの事である。
「はい…」と頷くマサシとハチ。
「あいつは何て言ってた?」(彼)
「こーさんがリーダーだから、あいつに言えって云われました」(ハチ)
「そうか…、なら良いよ…」
彼があっさり承諾する。
「ホントですかぁッ!?」
急に顔が晴れやかになった2人が言った。
「ああ…、構わん。だってバンド活動なんて楽しんでやる方が良いじゃねぇか…、嫌々やるモンじゃねぇだろ?」(彼)
「ありがとうございますッ!」
マサシとハチは、笑顔で深々と彼に頭を下げるのであった。
「良いんですかぃ?、こーさん…」
足取り軽く、店から出て行った2人の後姿を眺めながら、タカが彼に言う。
「しょうがないさ…、またメンバーを探すよ…」
彼も2人の後姿を見つめながら、タカにそう応えるのであった。
「上手くいったなッ!、マサシッ!(笑)」
店を出たドラムのハチがマサシに言う。
「だから俺の言った通りだろ?、カズさんに言ったって無理だって…、こーさんなら、自分がやりたい道があるって説明すれば反対しないってさ…」(マサシ)
「だけど俺達が、実はセンパイたちのバンドに入ってから、すぐに他にバンド作ろうと動いてたなんて知ったら怒るだろうな…?」(ハチ)
「それはもう関係ないよハチ…、俺たちはもうバンド辞めたんだからさ…」(マサシ)
「だけど既に4月から、俺たちのバンドのギタリストも加入させて、影で着々と準備してたんだからな…、バレたらやべぇよな?」(ハチ)
「別に俺たちは、センパイたちからギャラ貰ってるんじゃねぇんだし、そんなの関係ねって…!」(マサシ)
「でも、俺達からバンドに入れて下さいってお願いしてさ…、こーさんはいろいろ俺たちの事、よく面倒見てくれたから、ちょっと心が痛むよ…」(ハチ)
「確かにこーさんは良い人だけど、俺から言わせれば、甘いよあの人は…」
「リーダーってのは、もっと強い求心力で、下の者たちを強引に従わせるくらいのカリスマ性がなきゃダメだね!」
「俺は新しいバンドでは、そんなマネはしない!、俺のバンド、“ベルサイユ”ではね!」
マサシはそう言うと、右拳を力強く握るのであった。
「そんな事よりも、明日から忙しくなるぜハチ!、初ライブは6月のアタマからなんだから…」(マサシ)
「うん…」(ハチ)
「明日は、俺のカノジョにメイクと衣装合わせをやってもらうんだからな!、遅刻すんなよ!」(マサシ)
※マサシのカノジョは、メイクアップの専門学生なのだ。
「あと、タトゥーもな!(笑)」(ハチ)
「そうそう…!、へへへ…、みんな驚くだろうなぁ…、美しく生まれ変わった俺たちを見たら♪」(マサシ)
「そうだな…?、へへへ…(笑)」
ハチもそう言って笑うと、2人はハチ公口からJRの改札へ入るのであった。
「え~~~ッ!、何だよお前、マサシとハチの脱退を許したのかぁ~ッ!?」
翌日、大学の軽音サークル室で、ギタリストのカズが彼に言った。
「だって、お前は俺に、その件を任せたんだろ?、あいつら、そう言ってたぞ」(彼)
「お前が止めると思ったからだぁッ!」(カズ)
「まぁ、しょうがない…、またハヤシやリキに頼もう…」(彼)
「正式なメンバーがいないから、今日も練習出来ねぇじゃんかッ!?」(カズ)
「まぁまぁ…、もう過ぎた事を言っても、しょうがないわよカズ…」
先日、プロ歌手としてスカウトされたジュンが、カズにそう言うと、彼はムッとして黙るのであった。
※ジュンは高校生だったが、大学生達のバンドに参加しており、学校が終わると、そのまま制服姿で大学にいつも現れるのだ。
「ところでさ…、練習できないンでしょ?、しばらくは…?、だったらさ、明日109に行くの付き合ってよ、バイトに行く前に…」
そう彼に言うジュン。
「なんで俺が行くんだよ…?」(彼)
「だってこーくんのバイト、渋谷でしょ?、ステージ衣装の下見をしたいの…、男性目線の意見も聞きたいのよ」(ジュン)
「行ってやれよ!、バイト前なんだから…」(カズ)
「何だぁ、お前!?」
意外な事を言い出すカズに、彼が振り返る。
「これもバンドリーダーの仕事だ(笑)」
腕を組んだカズが、ニヤニヤしながら言う。
「ふん…ッ、わかったよ!」
彼が不承不承と承諾する。
その光景を見つめながら、カズはニヤニヤと笑みを浮かべる。
(ジュンが側に付いてる限り、あいつはオンナが作れねぇ…、そうすりゃバンド活動に支障が起きないというワケだ…)
カズはそう考えながら、「ふふふ…」と含み笑いをするのであった。
翌日の午後16時
渋谷109のB1Fで、彼はジュンと2人、レディースブランドの洋服を見に来ていた。
「あら…?、こーさん!」
その時、店舗外の通路から、誰かが彼に声を掛けた。
「あれ!?、ヤマギシじゃん!」
振り返った彼が、声を掛けて来た女性に言った。
声を掛けて来たのは、同じバイト先で働くヤマギシあゆみであった。
「こーさんもデートぉ?」
ヴェルサーチの洋服に身を包んだヤマギシが、言う。
彼女の後ろには、バンドマンらしき細身の男性が立っていた。
彼がヤマギシのカレに軽く会釈すると、ヤマギシのカレも会釈する。
「俺はデート…」
じゃないと言おうとした彼。
「そぉ~でぇ~す♪、んふふふふ…」
それを遮る様に、いきなりジュンが割って入って来た。
「あ!、いつもこーさんには、お世話になってます」
ヤマギシが、ジュンに慌てて挨拶する。
「い~え♪、こちらこそ!、いつもウチの人がお世話になってますぅ~♪」
そう挨拶するジュンの横では、「わぁ~!、ヘンなコト言うなぁお前~ッ!」と彼が叫ぶ。
「ヤマギシ!、ちッ…、違うぞ俺はッ!、それよりもお前、今日はバイト休みか?」
彼が慌ててそう言うと、ジュンは後ろで「ん!?」と、その弁解を不機嫌そうに聞く。
「あたしは今日休み。こーさんは違うの?」(ヤマギシ)
「俺はバイト前に、バンドメンバーの衣装を決めるのに、立ち会ってるだけだ…、リーダーとしてな!」(彼)
「ええ!、じゃあ彼女は、あの時の(学祭の)ライブで、ピアノの弾き語りをした、あのコなのッ!?」(ヤマギシ)
「ああ…」(そうだと彼)
「あたし観てたよライブ…、あなたスゴイ歌上手かったわ!、ねぇ、プロにスカウトされたんでしょ?」(ジュンにそう言うヤマギシ)
「はい…、でも実は、まだプロに行くかどうか迷ってます…」(謙遜してジュンが言う)
「なった方が良いよ~!、大丈夫!頑張って!」
ヤマギシがジュンにそう言うと、彼は「いいよヤマギシ…、こいつの話は…」と、割って入る。
「じゃあなヤマギシ…、悪いけどバイト前で時間が無いんだ」
彼がそそくさとそう言うと、ヤマギシが思い出したかの様に言った。
「ああ、そうだ!、こーさん!、“Sad On Death”ってバンド知ってる?」(ヤマギシ)
「サドンデス…?、知らん…」(彼)
「最近さぁ、都内のライブハウスでバンド狩りが多発してるじゃない?、あれ全部、サドンデスの仕業なんだよ」
※ヤマギシあゆみは、インディーズ界隈で有名なバンドのベースマンと付き合っている関係で、そのテの情報に詳しいのだ。
モデルの誰々が、○○バンドのギターと付き合ってたけど別れたとか、アイドルの誰々が××バンドのボーカルとヤッて、性病感染されたとか、芸能レポーター並みに詳しいのだ。
「バンド狩りなんて、まだやってるやつがいるのかぁ?、メタル(ヘビメタ)とパンクス(パンク)が、街中で会うといがみ合ってんのは、よく見かけっけど…」(彼)
※当時は、ヘビメタとパンクは仲が悪かったが、1985年頃からインディでブレイクし出す、“ガスタンク”や、“フラットバッカー(※後のE.Z.O.)”の登場で、その垣根は取り払われたと言えよう。
「そのバンド狩りを、未だにやってる連中がいるのよ!」
「サドンデスは、ステージから観客に、血だらけの鶏の生首を投げつけたり、人間の糞尿をばら撒いたり、マスターベーションを始めたり…、もお最悪なのよ」
呆れ顔のヤマギシが説明する。
「めちゃくちゃだな、おい…」(彼)
「それでついには、都内のライブハウス全てから締め出しを喰らったサドンデスは、ライブ活動が出来なくなると、今度は無差別に都内のバンド出演者たちをターゲットに、次々とバンド狩りを始めたの」
「演奏中のバンドに襲い掛かって、暴力でステージを乗っ取るとサドンデスは演奏を始め、そのライブが終わると、奪った楽器を全て破壊して去って行く、恐ろしいやつらなのよ」
ヤマギシの説明に、「そりゃ出禁になるわな…(苦笑)」と、彼が呆れて言う。
「私たちだって、この前サドンデスに出くわして危なかったんだから…、ねぇ…!?」
ヤマギシはそう言うと、自分のカレシに振り返り相槌を求めた。
「おととい、僕のバンドが対バンしてた日です。2番手に出た僕らが4番目のバンドの演奏を観てたら突然やつらが現れて、慌てて俺ら逃げ出しましたもん!」
ヤマギシのカレがそう言う。
「カレたちは、演奏が終わってたから逃げ出せて、楽器も無事だったけど、演奏中のバンドや、その次に控えてたバンドは散々な被害にあったのよ!」(ヤマギシ)
「ヤマギシ…、何モンだそいつらぁは…?」(彼)
「サドンデスは、リーダーでボーカルの池田ジンと、ギターの井之上、ベースの新渡戸、それとドラムの栗谷の4ピースバンドなの」
「でも他に、マネージャーや、ローディーを名乗るザコどもが、バックに20人くらい従えてる極悪集団なのよ」
「ほぉ…」(ヤマギシの説明にそう言う彼)
「特にリーダーの池田ジンは、巨体で身長が2m近くあって、暴れ出したら誰も止められないってハナシよ」
「あいつら、一応、大学に入ったのはいいけど、結局中退して、それから27歳になっても未だに就職もせずに暴れ回ってるの」
「昔の学生運動みたいに、共産主義革命を謳って、好き放題にやってるのよ」
「大学…!?、どこの…?」(彼が聞く)
「ワシダ…」(ヤマギシ)
「あそこの、特に文学部には、そういうやつら、多いんだよなぁ…(苦笑)」(彼)
「こーさんも気をつけてね!、バンドやってンだから…!」(ヤマギシ)
「俺?、俺は心配ないよ。だって今、メンバー居なくてライブできねぇから…」(彼)
「そうか…、そうだったわね。じゃあ、ま、お互い気をつけましょう!」(ヤマギシ)
「そうだな…。じゃあなヤマギシ!、また明日、バイト先で!」
彼がそう言うと、互いは手を振って別れるのであった。
彼が隣にいるジュンの方へ向くと、彼女は無言で彼を睨みつけていた。
「なんだよ…?」
ジュンに言う彼。
「あのさ…、こーくん、ヘンな気起こさないでね…ッ!」(ジュン)
「ヘンな気?、ヤマギシが、おっぱいデカイからか?(笑)」
ヤマギシあゆみは、胸元が開いたスーツを着て、豊満なバストの谷間を強調した格好をしていた。
「誰もそんなコト、言ってないでしょぉぉおお~~ッ!」
「ぎゃあ~ッ!」
ジュンに、右腕を思いっきりツネられた彼が叫ぶ。
「今のハナシ聞いて、サドンデスに関わンないでねッって言ってるのッ!」(ジュン)
「俺が…?、なんで俺が、そんなやつらと関わンなきゃなんねーのさ?」(自分を指差してジュンに言う彼)
「あなたって、すぐ余計なコトに、首つっこむとこあるからよ…ッ」(ジュン)
「それには及ばねぇよ…、だって俺、平和主義者だもん♪」(彼)
「どうなんだか…?」(首を左右に振るジュン)
「ま、そんなコトより、お前、早く衣装決めてくれよ。俺バイトに行かなきゃなんねーだからさ…」(彼)
「あ…、うんゴメン…。そうだね…」
ジュンがそう言うと、2人はレディースブランドの店舗へと入って行くのであった。
渋谷ダイニング“D” 時刻17:40
ギィ…。
店のドアが開く。
そして1人の女性客が入って来た。
「いやっしゃいませぇ~…、うぅッ…!」
そう言ったロン毛メガネのヤスは、自身のがっしりとした身体を一瞬こわ張らせた!
そしてヤスは、その女性をまじまじと、ローアングルから再度、舐め上げる様に見つめた。
黒のポインテッドトゥパンプス(ヒール高7cm)
白く長い脚を更に映えさせる、ライトブルーのプリーツスカート(マイクロミニ)
インナーには、胸元セクシーな白のUネックTシャツ
トップスには、黒のレザーベスト
小顔を包み込む様な、ショートボブヘアの内側はツーブロックに刈り込んであった。(カラーは黒髪のまま)
そして愛くるしい、大きな瞳
笑顔が素敵な、20代半ばくらいの女性であった。
「タカさんッ!、タカさんッ!」(※小声だが力強く)
ヤスが急いで、タカの元へ足早に近づく!
「おう…」(無表情で、ぶっきらぼうに返事するタカ)
「チョ~~~、イイオンナが来ましたよぉッ!、そんでもってエロいんですよぉ!」(興奮気味だが、小声で言うヤス)
「うん…、見てた」と、タカ。
「そう思うでしょッ!?、タカさんもッ!?」(小声のヤス)
「うん…、そう思う」(タカ)
「なんすかぁ!?、もっとリアクションして下さいよぉッ!」(小声のヤス)
「ふふふ…、タカさんには十分すぎるほどのリアクションじゃない?」
ウェイトレスのミマが、笑顔でヤスに言う。
※ミマは女子大生だが、JJ誌の読者モデルをしていた。
「どこがですかぁ?、ぜんぜん無反応じゃないですかぁ!?」(ミマに向かってヤスが言う)
「タカさんは、いつも感情を表に出さないじゃない?、女性の見た目も絶対に褒めたりしないし…」
「でも、そんなタカさんが、初めて女性の容姿を認める発言をしたのよ?、ヤスの意見に賛同すると意思表示をしたのよ、それだけでも凄いことよ(笑)」
「へぇ…、そんなモンすかねぇ…?」
ミマの説明に、ヤスはタカの事を「実はこの人、サイボーグなんじゃないか?」と思うのであった。
「ほら、そこ!、オタクたち!、またおしゃべりしてッ!」
その時、店長のドカチンが、この前の様にまた注意しに来た。
※ドカチンは他人の事を「オタク」と呼ぶ(笑)
「だってほら、ドカチンさんも見て下さいよ。あんなの見たら誰だって反応しますよぉ!」
ヤスがドカチンに、先程の女性が座る席を指差して言う。
※ドカチンは、アルバイトにあだ名で呼ばれていた。
カッコ悪いあだ名を勝手に付けられて呼ばれるが、なぜか敬語で話し掛けられる。
尊敬されてるのか?、バカにされてるのか?、持ち上げておいて、落とされるみたいな、変な組み合わせのコミュニケーション。
でも、ドカチンは、それが嫌いではなかった(笑)
「そうよ!、ドカチンだって、きっとタイプだと思うわ!」
ミマの方はタメ口で言った。
だがドカチンは、女性に馴れ馴れしく話し掛けられるのは、嫌いではなかった。
むしろ嬉しいとさえ思えた。
なのでこの店では、店長の事を女性陣は全員、“ドカチン”と呼び捨て、タメ口で話し掛けるのであった(笑)
ミマに気さくに話し掛けられたドカチンは、頬をピンクに染めて「うほほ…」と笑いながら「タイプ…?、ワ…、ワシの…!?」と言う。
※ドカチンは22歳で若ハゲだが、自分の事を“ワシ”と言う(笑)
「うほっ!、うほほほほ…ッ!」
その女性客を見たドカチンが、突然ゴリラの様な声で笑いながら発情し出す。
女性がドカチンと目が合う。
するとその女性はドカチンに、ニッコリと微笑むと、右手を上げて、オーダーの要請をした。
「うほっ!、うほほほほ…ッ!」(ドカチンのゲーハーセンサーが、MAXを指した)
※ゲーハーセンサーとは、(ハゲの)ドカチンの興奮状態を、スタッフたちが自身の見た感じで、勝手に判断した指標を現す(笑)
「俺、オーダー取って来ま…」
そう、ヤスが言いかけると…。
「いきまぁぁぁーーーーーーーす!」
ドカチンがいきなり、緊急スクランブル発進した。
まるで、ガンダムのアムロ・レイが発進する様な動きで、ドカチンは女性の座る席まで一直線に、ドーーーーーーーッ!と進む。
「ドカチンの野郎…、いつもは絶対にオーダーなんか取りに行かねーくせに…」
ドカチンが、興奮気味にオーダーを取る姿を眺めながらヤスがボヤく。
それを見て、スタッフたちは、ははは…と笑い出すのであった。
そこへ彼が現れた。
「お~!、あぶねぇ~…、ギリギリ間に合ったぜ…」
ジュンの買い物に付き合わされ、危うくバイトに遅刻しそうだった彼が、バックヤードに入って来て言った。
「あ!、こーさん、お早うございま~す!」
彼に気が付いたヤスが挨拶する。
「おはよう」(彼)
「こーさん、あれ見て下さいよ。あのドカチンの有り様を…」
そう言ってヤスが、オーダーを取っているドカチンを指す。
「あれ!?、あの女性客…、どっかで見たなぁ…?」
それを見た彼が言った。
「マジッすかぁッ!?、どういう関係ですかぁッ??」(驚くヤス)
「人間関係だ…(笑)」(彼)
※スペイン坂にある喫茶店
「つまんないですよ…」(冷めた表情のヤス)
「うッ…!」
絶妙のギャグをカマしたつもりだった彼が、たじろぐ。
「どういう関係なんですかッ!?」(ヤス)
「ま…、まだ確実じゃないが、たぶん知り合いだ…、ちょっと近くで見て来る…」
そう言うと彼は、ドカチンと女性客の方へと歩いて行った。
「もしかして…、伴さん…?」
オーダーを取る、ドカチンの背後から、その女性へ確認する様に尋ねた彼。
「あれ?、もしかして、こーくん!?」
その女性が彼を見て言った。
「やっぱり伴さんだったかぁ…(笑)」
彼はそう言うと、微笑むのであった。
彼女の名は、伴 茉莉乃
年齢は彼より4つ上の25歳
去年の12月、当時大学1年(※一浪してるので…)だった彼のバンドが、初めてライブをやった時のブッキング担当者であった。
ロッキンSの誌面で、対バン募集をしていた彼女が務める、イベント企画事務所。
アマチュアを対象とした、小さなその事務所は、渋谷の東口にある雑居ビルの中にあった。
彼は初めてのライブを、その事務所が主催するクリスマスライブに出演する事に決めた。
場所は新宿のライブハウスJIMで、クリスマスイヴに行われ、当日には全部で5バンドが出演した。
彼のバンドは2番手に出演した。
1番バンド目が10人程の観客しか居なかったのに対し、彼のバンドでは、一気に150人もの観客が雪崩れ込み、入りきれない観客の行列は通路まで伸びてしまっていた。
彼はギターのカズと2人で、150人分のチケットを売りさばいていたのだった。
彼が初めて彼女と会ったのは、出演に際しての打ち合わせをする為、事務所へ初めて行った日の時であった。
当日、場所が分からない彼は、公衆電話から事務所へ連絡し、東口の駅前まで迎えに来てもらう事にした。
この日まで何回か電話でやりとりを交わしていた、担当者の彼女が迎えに来てくれた。
待ち合わせ場所は、渋谷警察の目の前の歩道橋の上であった。
時刻は19時
ネオンが照らされる夜の渋谷だが、歩道橋の上だけは少しだけ薄暗かった。
そこへ彼に向かって笑顔で歩いて来る、1人の美しい女性。
それが、伴 茉莉乃であった。
彼は当時の事を思い出しながら、目の前に座る笑顔の、伴 茉莉乃を微笑みながら見つめるのであった。
「こーくん、ここでバイトしてたんだぁ?」
笑顔の彼女が、自分を見つめている彼に言った。
傍ではドカチンが、「何ッ!?、オタクら知り合いなのッ!?」と言っている。
「うん…」(彼)
「あなた、あの後(※12月のライブ後)、何度、出演依頼しても出てくれないんだもん…」
彼女が言う。
傍ではドカチンが、「何でワシの事、無視して2人だけで話し続けてんのよッ!」と言っている。
※ドカチンは興奮すると、オネエ言葉になる(笑)
「バンドのメンバーが流動的で、ライブできる状態じゃなかったんだ。今もだけどね…」(彼)
「そうなんだ…」(彼女)
「伴さんの方はどうなの…?」(彼)
「伴さんなんて…、マリノで良いよ♪」
マリノがそう言うと、傍にいたドカチンが、「ワシもオタクをそう呼びたいッ!」と言っている。
「そうかい…、じゃあマリノ…、オーダーはもう済んだのか?」(彼)
「ううん…、まだ途中…」(顔を左右に振るマリノ)
「じゃあ、何にする?」
彼がそう言ってオーダーを取り始めると、傍にいるドカチンが、「何でオタクが、オーダー取んのよッ!」と言っている。
「うるさいなぁ…、もお…」
彼がドカチンに振り返り言う。
それを見てマリノが、クスクスと笑う。
「この人、店長のドカチン…」
彼がマリノに、ドカチンを指して紹介する。
「ドカチン…?」(何それ?と、マリノ)
「“ドカチン”はあだ名だよ。俺の1コ上で、まだ22歳だけど、ハゲてんだ」
「ドカチンは今までの人生で、若い女とほとんどしゃべった事がない、ヘンなやつなんだよ…」
「だから『ドカチン♪』って、女が笑顔で呼んであげるとコーフンすんだよ。怪しいやつだろ…?」
彼の無礼な紹介に、笑ってはいけないと思いつつ、つい、笑みを浮かべてしまうマリノ。
「ドカチン…、ほら!、『マリノ♪』って、ドカチンも呼んでみたいんだろ?、呼んでみろよ」
彼がドカチンに言う。
「ほらぁ…」(彼)
「うほほほほ…、マ…、マリノ…」(頬をピンク色に染めてドカチンが言う)
「ほら、マリノも…」(彼)
「な…、なあに?、ドカチン…?」(恐る恐る…、苦笑いで言うマリノ」
ポォォォォーーーーーーーーーーーーーーッ!!
次の瞬間、ドカチンの耳と鼻の穴から蒸気機関車の様な湯気が飛び出した!
「うほほほほーーーーッッ!!」
興奮するドカチンのゲーハーセンサーのメーターが、MAXを振り切った!
「やべッ!、ドカチンがまた発作を起こしたッ!、みんな取り押えろッ!」
遠巻きに見ていたタカが、ドカチンの発作に気が付いて、みんなに指示を出す!
ドカチンは発作を起こすと、30分は安静にしていないと仕事に復帰する事ができないのだった。
「うほほほほほーーーーーーーーッ!」
興奮して暴れるドカチンを、3人がかりで取り押えるバイトスタッフ。
「ドカチン!、ほら、おとなしくしろってッ!」(タカ)
「いい加減にしなさいよ!、ドカチンッ!」(ミマ)
「ああッ!、もお!、面倒くさッ!」(ヤス)
3人に、バックヤードへ引きずり込まれて行くドカチン。
店に訪れていた客たちは、何事か!?と、恐怖で蒼ざめた表情をして、その一部始終をただ見守るのであった。
「やっとヘンなやつがいなくなった…」
その光景を見つめてる彼が、ボソッと言うと、マリノが彼の名を呼んだ。
「こーくん…」(マリノ)
「ん?」(マリノに振り返る彼)
「さっき、私の近況を聞いたよね?」(マリノ)
「ああ…?、うん…」(彼)
「私ね、ライブBARのオーナーになるの」(マリノ)
「え!、ホントに?、どこで!?」(彼)
「渋谷…、神宮前6丁目…、神宮通りと明治通りが交差するとこあるじゃない?、あの近く」(マリノ)
「すごいなぁ…、渋谷で店構えてオーナーになるんだ…」(感心する彼)
「それで、今はその準備に追われてるの。毎日、仕事が終わったら、そのまま内装業者さんが工事してるお店に立ち会ってから家に帰るんだ」
「実は今から自分の店に向かうところ…。その前に晩ゴハンをここで食べてこうと思って、ここに立ち寄ったらあなたがいてビックリしたわ!」
「オープンは、いつなんだい?」(彼)
「6月中にはオープンしたいと思ってる。内装に色々こだわりがあって、業者さんには申し訳ないんだけど、ちょっと工事が滞ってる(苦笑)」(マリノ)
「そうなんだぁ…、おめでとう…」(彼)
「ふふ…、ありがとう。この店また来るね」(マリノ)
「是非…、待ってるよ(笑)」(彼)
「私のお店が完成したら、あなた出て(出演して)くれる?」(マリノ)
「勿論だよ!、約束するよ」(彼)
「じゃあこれで、出演者第1号は、あなたに決まりね♪」
マリノがそう言うと、2人はクスクスと笑い合うのであった。
「あ!、ジンさん、現れました!、あれが例の女です」
サドンデスの池田ジンが運転する、セダンの助手席に座っていたニトベが、店に入って行くマリノを見つけて言った。
彼らの乗る車は、マリノの店があるビルの反対側車線の路肩に停車していた。
地下1Fのテナントに降りて行くマリノ。
その姿を見つめる池田ジンが言う。
「あの女が、俺たちをブッキングから排除したやつか…?」(池田)
「ええ、あの女です!、あの女、出演手続きに来た俺を見るなり、一方的にサドンデスの出演を断って来やがりましてね…」
「それでそん時、ちょっと脅してやったんですが、あの女、一歩も引かないですよ。それでサドンデスのライブもパーとなりました」
ニトベが池田に経緯を説明する。
「そいつが、俺に断りもなく、渋谷でライブBARを始めると…?」
タバコをくゆらせながら、池田ジンが言う。
「はい…、メンバーたちに色々調べさせて、ここに店を出すって突き止めました」(ニトベ)
「なかなかマブイ女じゃねぇか…?」
池田ジンはそう言うと、クスクスと笑い出した。
「お前、そういう気が強い女、好きだろ…?」(池田)
「正直ムラムラしますよジンさん(笑)」(ニトベ)
「だったらイッパツヤッちまえよ…(笑)」(池田)
「え!?、いいんですかジンさん?」(ニトベ)
「構わねぇよ…、店破壊して、その後、あの女も犯しちめぇ…(笑)」(池田)
「ジンさんのお許しが出たというのなら…」
そう言うとニトベは、「ヒヒヒ…」と笑い出した。
「但し、捕まンなよポリに…」(池田)
「はい…」(ニトベ)
「あの店は、今は工事中で業者の出入りが激しい…、あの女を襲うのならもう少し後だ…」(池田)
「ごもっともで…」(卑屈な笑みのニトベ)
「工事が完了間近の時なら、電話回線もまだ繋がってねぇから、警察に電話もできんだろ…」
「内装工事が終りに近づいたその頃の、工事業者が引き上げて行ったタイミングだ」
「あの女が1人になった時に、お前とお前の舎弟らで襲撃しろ…、いいな?、それまではガマンだぞニトベ…(笑)」
「分かりました…」
ニトベはそう言うと、ニヤリと笑みを浮かべた。
それから数日後
マリノは、彼がバイトするダイニング“D”へ再び現れた。
「よお!、これから店の内装工事の立ち合いか?」
店に訪れたマリノに彼が言う
「ええ…、だいぶ仕上がって来たの♪、絶対、素敵なお店になるわ♪」
笑顔のマリノが彼に言った。
彼は、そう言った笑顔のマリノを見つめながら、ふと思うのだった。
女性はやっぱ、笑顔が1番なんだな…と。
例えば、2人の女性が自分の目の前にいたとしよう。
その2人は、どちらも自分に好意を抱いてくれている。
片方の女性は、自分のモロタイプで、文句のつけようがないドストライク!
だけど、感情をあまり表に出さない女性で、どう扱って良いものか、話掛けにくいタイプでもある。
一方、もう1人の女性は、いわゆる平均レベルのルックスだ。
決して美人ではないが、話しやすくて、笑顔が愛くるしい、愛嬌のあるタイプ。
どちらか選べと言われたら、僕は迷わず、後者の笑顔が愛くるしいタイプを自分は選ぶだろう。
それは、後者の方が気を遣わずに過ごせるからだ。
笑顔の絶えない女性といる方が、癒され、また幸せな時間を共に過ごせる気がするからだ。
彼はそんな事を思いながら、マリノのオーダーを取っていた。
「以上で良いかな…?」
オーダーを取り終えた彼が、マリノに言った。
「ええ…」とマリノ。
マリノのオーダーが済んだので、彼が戻ろうとした。
するとマリノが彼に言う。
「ねぇ、こーくん。今度バイトの帰りに、私のお店を覗いて行ってよ!」(マリノ)
「え!?」(彼)
「あなた出て(出演)くれるんでしょ?、だったら、どんなお店なのか気にならない…?」
笑顔のマリノが言う。
「そうだなぁ…」
上を見ながら考える彼を、見つめるマリノ。
「分かった…、じゃあ明日にでも寄るよ」(彼)
「場所分かる?」(マリノ)
「大体は…」(彼)
「じゃあお店の前で私、立ってる!」(マリノ)
「そうか、悪いな…、俺たぶん、10時半には着けると思う…」(彼)
「じゃあその頃に、お店の前に出てるね♪」(マリノ)
「ああ…、宜しく頼むよ…」
そう言って、彼は明日、内装工事中のマリノの店に顔を出す事になるのであった。
そして、その当日
彼は約束通り、バイト帰りにマリノのライブBARへ顔を出しに現れた。
彼を見つけたマリノが、道路の反対側から「こっち、こっち!」と手招きをしている。
彼は車が来ないのを確認すると、道路の反対側へと小走りで渡った。
「(内装工事の)業者さんは…?」
マリノの元へ来た彼が聞く。
「今、帰ったとこ…」(マリノ)
「そうか…」(彼)
「さぁ、こっちよ…」
マリノはそう言うと、地下への階段を案内した。
「どうぞ…」
2人が階段を降りると、エントランス前で、マリノはそう言って彼を店内へと入れた。
「へぇ…、だいぶ出来上がってんなぁ…」
店内を見渡しながら彼が言う。
店内は、エントランスから1番離れた場所にステージがあった。
ステージの中央にはパールのドラムセット。
左右にはマーシャルとジャズコのアンプが配置されている。
そしてスピーカーはBOSSが左右に設置。
そのステージを囲む様に、テーブル席が並び、ステージから見て右側には、1人客にも対応したカウンターバーがあった。
「どお?」(マリノ)
「スゴイな♪、カッコイイじゃん!」(彼)
「ふふ…、ありがとう…」(マリノ)
「しかし大したもんだな…。25歳にして東京の渋谷に店を構えて、オーナーだものなぁ…」
感心した彼が言う。
「私ね…。このライブBARを始めるのが、ずっと夢だったの…」
ステージを見つめながら、マリノが微笑んで言う。
「夢…?」(彼)
「ええ…」
彼に頷くマリノ。
そして続けて彼女は語り出した。
「こーくん、私ね…、東京へ来てから、ずっと独りぼっちだったの…」
「私ね…、高校卒業してから、すぐ東京で暮らし始めたから…」
「マリノは、どこの人なの?」(出身地を聞く彼)
「福島…」(マリノ)
「へぇ…、そうなんだぁ…」(彼)
「こっち(東京)の学校でも卒業していれば、友達も出来たでしょうけど、私は高校出てすぐ東京で働き始めたから…」
「最初は小さなラーメン屋さんでアルバイトを始めたわ。でも、そこには同世代のコとかは居なくて…」
「オジサンとオバサンしか居なかった?(笑)」(彼)
「そう!」(当り!とマリノ)
「私ね。ハタチになってから、今の仕事を渋谷で始めたの。でも、やっぱり職場では、学生時代の友達みたいに、本当に心を許せる友達って出来なったなぁ…」
※マリノの職場は、渋谷にある音楽イベント会社で、彼女は出演者のブッキング担当であった。
ノルマが常に発生し、同僚は全てライバルであったのだ。
仕事を通じて、常に利権が絡んで来る職場の同僚では、学生時代の様な、損得勘定を無視した友人を作るのは、難しいという事をマリノは言いたかったのであろう。
「そういうもんなんだ…?、俺は学生で、仕事もバイトだからよく分からないよ」
彼がそう言うと、マリノが話の続きを語り出す。
「それで今の仕事を始めて、元々、学生時代から音楽は好きだったけど、もっと好きになってね」
「いつか自分でライブBARを始めて、そこで音楽を発信したいと思ったの」
マリノの言葉を、彼は黙って聞いている。
「東京には、たくさんの地方出身者が暮らしているじゃない?、その中には、きっと私と同じ境遇の人もいっぱいいると思うの」
「だから私は、このお店を通じて、そういう人たちのコミュニティの場になればって考えたんだ」
「そして、そこで出演者やお客さんたちと音楽を通じて、気の合う仲間を作りたいと思う様になったの」
「それでライブBARを始めようと思ったんだ?」(彼)
「うん…」(マリノ)
「俺は、君はいつも笑顔で明るいから、周りにはいつも友達で溢れかえってるもんだと思ってたよ」(彼)
「こーくん…」(マリノ)
「ん?」(彼)
「いつも笑顔で笑ってる人って、実はまったく逆の境遇だったりするものなんだよ…」
「人に自分の寂しさや悲しみを知られたくないから、そういう境遇に負けたくないから、いつも笑顔を振舞うものなのよ」
「私は、辛かったり、悲しかったりしても、決して泣かないと決めてるの」
「涙って、悲しい時にだけ出て来るものじゃないでしょ?、嬉しさが感極まって、感動したりしても涙って出るじゃない?」
「だから私は、その時の為に涙を取っておくの…」
「だって勿体ないじゃない?、涙をそんなものに使ったらさ…。嬉しい時に出す涙が、足りなくなっちゃうじゃない?」
「だから私は決めたの。涙は嬉しい時に流すんだってね…」
彼はマリノの言葉を黙って聞いていた。
「座ろうか…?」
マリノがそう言って椅子に座ると、彼もその隣に座った。
「こーくん…、私の肩に触れてみて…」
マリノが突然、隣に座る彼にそう言った。
「え?」(彼)
「肩に手を置いてみて…」(マリノ)
「こうかい…?」
彼は恐る恐る、マリノの肩に両手を添えた。
「どう…?」(マリノ)
「え?、どおって…?」(彼)
「震えてるでしょ…?、小さく…」(マリノ)
「ああ…、そ、そうだな…?」(彼)
「私ね…、怖いの…」(マリノ)
「怖い?」(彼)
「今、私の夢が叶おうとして、これから先の人生が充実するんだと思うと怖いの…」(マリノ)
「え?」(彼)
「今、幸せすぎて、怖いって気持ち分かる…?」(彼を見つめるマリノ)
「いや…」(よく分からない彼は、首を傾げる)
「この充実した人生が、この幸せがもし急に無くなってしまったらと思うと、怖くて震えて、夜も眠れなくなる日があるの…」(マリノ)
「そんな事、心配する事ないよ…」(笑顔の彼)
「ん?、あなた顔に何、付けてるの?」
彼の顔を近くで見たマリノが、突然そう言った。
「顔?」(彼)
「うん…、瞼のとこ…」
そう言って、彼の顔を指すマリノ。
「瞼…?」
そう言って彼は瞼を擦る。
「違う、そこじゃない」(マリノ)
「え?」(こっちか?と、瞼を擦る彼)
「違う、違う!」(マリノ)
「ええ?」(困惑する彼)
「もお、じっとしてて、取ってあげる。目を閉じて…」(マリノ)
「ん…」(そう言って瞼を閉じる彼)
その時、彼の唇に感触が…!
「んんッ!」
驚いて目を開く彼。
唇の感触は、マリノからのキスであった!
「なッ!…、なッ!?」
状況が把握できない彼が、マリノから顔を離して言う。
「ごめん…、あなたとキスしたかったの…、ずっと前から…」
苦笑いでマリノが彼に言う。
「ずっと前…?」(彼)
「あなたのライブを初めて見た日からずっと…、いつかこいつとキスしてやるって、思ってた(笑)」(マリノ)
「まるで、男が言うセリフだな…?(苦笑)」(彼)
「仕方ないの…、あなたみたいなタイプは、こうやって強引に首根っこ引っ張りでもしなきゃ、言う事聞かないから…(笑)」(マリノ)
「びっくりしたよ…(苦笑)」(彼)
「怒った…?、軽蔑した私の事…?」(マリノ)
「そんな事はないよ」(彼)
「私にキスされて、嫌だった?」(マリノ)
「嫌じゃないよ。むしろ逆だよ(笑)」(彼)
「そう…、良かった…」
マリノはそう言うと、彼に微笑むのであった。
「ねぇ、こーくん。もうすぐお店が完成するわ。そうしたら2人で飲まない?、2人でお祝いのパーティーをしない?」(マリノ)
「いいねぇ♪」(彼)
「あと10日程で終わると思うの。そうしたら、こーくんのバイトが終わったらここに来て…」(マリノ)
「バイトが終わってから、飲むのか?」(彼)
「どうしたの?」(何か問題でも?と、マリノ)
「いやさ…、バイトが終わった日だと、終電があるからさ…、あんまり飲めないと思ってさ…」(彼)
「じゃあ私の家で飲もうか?、泊まっていっても良いよ…」(マリノ)
「イヤイヤイヤ…ッ!、そりゃまずいよぉ~ッ!」(彼)
「どうして?」(マリノ)
「君の家で2人っきりで飲んで、なんかあったらマズイよッ!」(彼)
「なんかって…?」(マリノ)
「酔っぱらっちゃって、キスでもしちゃったら…」(彼)
「キスなら、今したじゃない?(笑)」(マリノ)
「あッ、そっか…!(笑)」(彼)
「別に、何かされて嫌だったら、そもそも家になんか呼ばないよ…(笑)」(マリノ)
「俺が泊まって、寝れる場所あんのか?」(彼)
「あるよ…、ベッドが1つ…(笑)」(マリノ)
「それって、一緒に寝るって事だろ?、イヤイヤイヤ…ッ!、マズイってそれはツ!」(彼)
「マズイって…?」(マリノ)
「い…、いや…、だからさぁ…、酔っぱらってて、同じベッドで寝てさ、俺、何かしちゃいそうで、自信ないよぉッ!」(彼)
「別に、好きにしていいよ…(笑)」(含み笑いのマリノ)
「マズイって…ッ!、そんな、俺、隣でマリノが寝てて、良い匂いなんかさせてたら…、自信ないよぉッ!」(彼)
「だから、別にそうなって困るんだったら、家に呼ばないでしょ?(笑)」(マリノ)
「し…、知らねぇぞ俺!、どうなちゃっても!」(彼)
「ふふ…(笑)」(マリノ)
「ヤッちゃっても知らねぇぞぉ!、責任取れねぇぞぉッ!」(彼)
「ヤッちゃったら責任取んなさいよ…(苦笑)」(マリノ)
「あ!、そっか…!(笑)」(彼)
「ねぇ、こーくん、私をぎゅっと抱きしめて…」(マリノ)
「え?」(彼)
「不安なの…、今幸せな自分が…」
そう言ったマリノは、小さく震えていた。
「何も心配する事はない…」
彼はそう言うと、マリノを後ろから強く抱きしめて、マリノの身体の震えを止めた。
「俺が守るよ…、マリノを…」
彼女の肩に顎を乗せて彼が言った。
大人から見たら、彼のその言葉は、青臭くて、薄っぺらいものに聞こえるだろう。
だが、彼はこの時、心の底からマリノを守ってあげたいと純粋にそう思うのであった。
彼に振り返るマリノ。
そして誰に言われる事も無く、互いは顔を寄せ合い、またキスをした。
その頃、センター街のブリティッシュパブHUB店内では、彼を待つタカとヤスが2人で飲んでいた。
「遅っそいなぁ~、こーさん…」
ハイネケンのジョッキを手にしたヤスが言う。
「いろいろあんだろ…(笑)」
タカがボソッと言う。
「え!?、エロエロ、やってンすかぁ、こーさんはッ!?」(ヤス)
「ばか!、いろいろって言ったんだよッ!(苦笑)」(タカ)
「ははは…!、でも、ホントにエロエロだったりして…(笑)」
ヤスがそう言うと、タカも含み笑をした。
そしてこの夜、彼はHUBには現れる事はなかったのであった。
タカよ、ヤスよ、彼をどうか許してやってくれ。
男同士の約束も大事なのは分かっていても、彼はあの時、それどころではなかったのである。(笑)
そして、それから数日が経った。
5月末
ライブBARの内装工事最終日
ついにマリノの店の、内装工事が終わる日になる。
この日に工事が終われば、あとは諸般の手続きや、酒類の搬入、店の電話回線の設置工事など、簡単なものを残すだけとなった。
午後10時を少し過ぎた頃、彼はダイニング“D”のバイトが終わった。
今夜彼は、マリノのアパートに行き、2人でお祝いパーティーをやる事になっていた。
PM 10:10
「どうスかこーさん?、今夜これからハブリます?(笑)」
バイトを終えた同僚のヤスが、彼を飲みに誘った。
“ハブる”とは、センター街にある「ブリティッシュパブHUB」へ、一緒に飲みに行こうという事を指す、彼ら同士だけで使われるお決まりの言葉である。
「ワリィなヤス…、俺、今夜ヤボ用があってさ…(苦笑)」
ヤスの誘いを、済まなそうに彼が断わった。
「最近、付き合い悪いッスねぇ…。またマリノさんのとこですか…?」(ちょっと残念そうに言うヤス)
「ああ…、今夜は彼女の家に行くんだ…。泊まりになると思う…(笑)」
ニタニタとして、彼が言う。
「マジっスかぁ~ッ!?、もお、そんな関係にまで進んでるんスかぁッ!?」(驚くヤス)
「いや…、そんな大して進んでないよ、彼女とはまだ…(苦笑)」(彼)
「でも、もうヤッちゃってるんでしょッ!?」(ヤス)
「まだ、“A”までだよ…(苦笑)」(彼)
「なんスかぁ!、“A”なんて!、中学生じゃあるまいし…、“キス”って言って下さいよ!」
呆れたヤスから、そうツッコまれた彼は、「ははは…」と苦笑いをした。
PM 10:14
「へへ…、じゃあな!」
それから彼は、笑顔でヤスとタカにそう言うと、2人を残したままロッカールームを後にした。
「なんか、ウハウハですね?、こーさん…」
彼の出て行った扉を見つめてるヤスが、隣に立つタカに言う。
「ふふ…、さすがのこーさんも、ついに年貢の納め時だな…(笑)」(含み笑いでタカがヤスに言う)
「大丈夫っすかねぇ…あの人…。なんか順調に進み過ぎて心配になりますよ」
「マリノさんて、こーさんより年上で、ちょっと派手じゃないですか?、騙されてないですよねぇ…?」
ヤスがそう言うと、タカが微笑んでヤスに言う。
「大丈夫だ…、彼女は、福島(出身)の女だそうだ…」(タカ)
「それが何か…?」(ヤス)
「ヤス…、東北生まれの女は良いぞぉ…、中でも特に、福島の女は別格だ(笑)」(タカ)
「福島は別格…?」(ヤスが不思議そうに聞く)
「福島の女はなぁ…、温ったかいんだよ…。優しくて、真面目で、我慢強くてな…」(タカ)
「そうなんスかぁ…?」(ヤス)
「ヤス…、お前も将来、結婚相手を見つけるなら、絶対、福島の女にしとけよ…(笑)」(タカ)
「分かりました…。じゃあタカさんのカノジョも、やっぱ福島出身で…?」(ヤス)
「いや…、静岡…」(タカ)
「なんスかぁそれぇ…!?(苦笑)」(タカの言葉に、ズルッと崩れるヤス)
「静岡県も良いぞぉぉ~…、ヤス…(笑)」(タカ)
「もお、いッス…(苦笑)」
苦笑いのヤスがタカへ、手を制止しながら言った。
PM 10:16
「ありゃ…、なんだよぉ…、雨降ってんじゃん…」
店外の裏口から出た彼が、夜の渋谷の街並みを眺めながら、そう呟いた。
「しゃあねぇ…、コンビニで傘でも買ってくか…」
彼はそう言うと、マリノのライブBARとは反対側になるコンビニへと、雨の降る中、小走りで向かった。
場所変わって、マリノのライブBAR店内
PM 9:50
「ご苦労様ぁ~♪」
内装工事が完了し、引き上げて行く業者へ声を掛けるマリノ。
すると1番最後に店を出た、親方がエントランス手前で振り返る。
「いよいよだね?、マリノちゃん…(笑)」
笑顔の内装業者の親方が言う。
「はい…」
笑顔のマリノが言う。
「俺たちの出来る事は全てやった…。あとはマリノちゃん次第だ…。頑張るんだよ(笑)」
親方はそう言うと、地上への階段を上がって行った。
マリノは親方に、「ありがとうございました!」と深々と頭を下げて彼らを見送るのであった。
PM 10:00
内装工事もついに終わり、マリノは嬉しくて気持ちが高ぶっていた。
そして、これから彼がやって来る。
マリノは、この店を立ち上げる資金を作るため、収入のほとんどを貯蓄に回していた。
その為、外食など、ほとんどする事はなかった。
だが、お陰で料理は上達した。
今夜は彼に、自分の得意である手料理を振舞えられる。
マリノは、誰かが言っていた言葉を思い出す。
“料理が得意な女性は、結婚したら旦那さんに大切にして貰える”という話を…。
そんな事を考えていると、階段を降りて来る足音が聞えた
「今日は早かったじゃない…?」
マリノは笑顔でそう言うと、エントランスへ彼を出迎えに行った。
「え?」
マリノが言った。
それは、てっきり彼だと思っていた訪問者が違かったからだ。
「へへへ…」
インディアンの様に、両サイドを刈り上げた、モヒカンヘアの男が、薄気味悪い笑みを浮かべエントランスへと降りて来た。
そしてその後ろには、同じように髪を上に立て、ビスの付いた黒い皮ジャンを着ている男たちが4名程いるのを確認できた。
「誰!?、あなたたちッ!?」
マリノが先頭に立っている、リーダーらしき男に聞いた。
その男は、モヒカンの色をピンク、グリーン、イエローと三色に染めており、耳には安全ピンをピアス代わりに、耳全体にいくつも付けていた。
「ネーチャン…、俺のコト、覚えてるか?」
その男はマリノにそう言うと、ニヤッと笑った。
男は髭が少しだけ生えていた。
正確には残っていたという表現が、正しいのかも知れない。
髭を伸ばしているのではなく、単に2日ほど剃らないでいた様な感じの、伸び方だったからだ。
そして笑った男は、前歯の片方が欠けていた。
その歯は、タバコのヤニで真っ黄色になっており、歯石がたっぷりと付いているのが見えた。
清潔感のかけらもない男であった。
「知らないわ!、あなたたちなんかッ!」
少し後ずさりして、マリノが言う。
「そうかい…、そうかい…、へへへ…」
サドンデスのニトベは、そう言うと、(こいつ俺のコト覚えてねぇんだ…。こりゃあ都合がいいぜ…)と思うのだった。
「ネーチャン、ここでライブBAR始めんだってな…?」(ニトベが言う)
「そうよッ!、悪い!?」(マリノが蒼ざめた表情で強く言う)
「気に入らねぇなぁ…」
ニトベはそう言うと、仲間の1人に「おい!」と顎をしゃくって合図した。
すると指示された仲間の1人が、テーブル席からイスを1つ持ち上げる。
そしてそのイスをいきなり店の中央にあるステージに向けて投げつけた!
ガシャーンッッ!
物凄い音と共に、イスがマイクスタンドを倒し、その後ろのドラムセットにもぶつかった。
ドラムセットは衝撃で、無残にもバラバラに崩れてしまった!
そして続けて、他の男もイスを投げつける!
今度はBARカウンターのショーケースに当たった!
バリーンッ!
ガシャンッ、ガシャンッ、ガラガラガラ…。
ショーケースのガラスと、その中にあったグラスが粉々に割れた!
「やめてッ!、何するのッ!」
そう叫び、止めようと向かったマリノの腕を掴むニトベ。
腕を掴んだニトベは、そのままマリノを引き寄せ、強引にキスをした。
「ムグッ…、うううツ!」
ニトベのキスで口を塞がれるマリノ。
彼女はニトベの口髭が頬に当たった感触が死ぬほど気持ち悪く感じ、必死に引き離そうと暴れる。
マリノがやっとニトベから顔を引き離せた!
バシッ!
すかさずマリノは、ニトベの頬を、“汚らわしい!”と言わんばかりに、思いっきり引っ叩く!
「そうかい、そうかい…、そういう態度を取るかい…?」
ニトベはマリノに叩かれた頬を摩りながら言うと、「おいッ!、おめぇらぁ、この店メチャクチャにしてやれぇッ!」と指示を出した。
その指示を受けた4人のパンクスどもが、店を破壊し始めた!
テーブル蹴って破壊し、イスを振り回して、壁や入口をボロボロにする。
「ああ…、やめて…、やめてよぉ…」
マリノが目に涙を浮かべながら懇願する。
「なんでッ!?、なんで私が、あなたたちからこんな目に合わなくっちゃいけないのッ!?」
涙目のマリノが、ニトベに向かって叫ぶ。
するとニトベが言った。
「それは、おめぇが弱ぇえからだ…」(ニトベ)
「え!?」(マリノ)
「弱ぇえものは、強ぇえものに殺られる…、それが自然の摂理というモンだぁ…」
「お前、ライオンは何故大きな象を襲わずに、小さな子象を狙うと思うッ!?、何故、ジャングルの豹は小動物ばかりを狙うッ!?、それは、そいつらが弱ぇえからだッ!」
「そして、その事で、誰がライオンや豹の事を卑怯だと言うッ!?、そんな事を言うやつぁ誰もいねぇ、それは、それが自然の摂理だからだッ!」
「力が無きゃ自然界では生きていけねぇッ!、力が無きゃ、どの動物もメスを手に入れる事も出来ねぇッ!、人間だけだ!、ひ弱なやつが、勉強できて医者になったら結婚できるなんてボンクラなのはよッ!」
「動物も鳥も魚も昆虫も…、みんな生きるか死ぬかの極限状態の中で生きてんだよッ!、悔しかった強くなれッ!、恨むんだったら俺じゃなくて、おめえを弱い女に産んだ親を恨めッ!」
ニトベはそれだけ言うと、「ぎゃははははははは……ッ!」と笑い出すのであった。
「お願いッ!、やめてッ!、やめてぇッ!」
マリノが、ニトベの両袖を引っ張りながら叫ぶ。
「だったらお願いしろ…、人に何か頼むんなら、それなりの態度ってモンがあんだろがよ…」
冷めた目で、マリノを見つめて言うニトベに、マリノは「どうすれば…?」と困惑した表情をする。
「土下座しろよ…、それがお願いするやつの誠意ってモンじゃねぇのか?」
どうすれば良いか分からないマリノに、ニトベが言った。
マリノは無言で床に膝まづくと、ニトベに土下座をした。
「お…、お願いします…。私の店をこれ以上、壊さないで下さい…」
声を身体を震わせて、土下座をしているマリノが言う。
「この店は…、うッ…、うう…、わ、私の夢なんです…、お願いします。もう、許してください…、ううッ…ううッ」
どんなに辛い事があっても泣かないと言っていたマリノが、今、大粒の涙をぼろぼろと流しながらニトベに懇願する
その涙は、店の床の上にポタポタと落ちて、濡らすのだった。
ニトベは満足そうな笑みを浮かべながら、マリノの土下座する姿を見降ろしていた。
そしてニトベは、店を破壊している仲間たちに「おい!、ストップ!、ストップ!」と叫び、止めさせた。
「顔を上げろ…」
土下座をしているマリノの前に、しゃがみ込んだニトベが言う。
そう言われたマリノは、目を真っ赤にはらした顔を上げた。
「止めてやったぜ…。ふふふ…、お前の願いを聞いてやったんだぁ。今度はお前が俺の願いを聞く番だよな…?」
そう言ったニトベは、片方が欠けた前歯を見せながらニヤニヤと笑う。
「お願い…?」(どうすれば…?と、マリノ)
「ヤラセロよ…、てめえとイッパツ、ヤラセロよ…」(ニトベ)
「いッ…、いやッ!」
そう言って、その場から立ち上がろうとするマリノのTシャツを引き裂くニトベ。
マリノの胸が露わになった。
「キャァッ…、んッ…、ムグッ…」
叫ぼうとしたマリノの口を、ニトベは「騒ぐなぁッ!」と言って塞ぐ!
「ぎゃあッ!」
その塞いだ手を、マリノにガブッと嚙みつかれたニトベが叫んだ。
「このアマぁッ!」
ニトベがお返しに、マリノの頬を思いっきり引っ叩く!
バシッ!
「きゃあッ!」(マリノ)
「騒ぐなぁッ!」(声を出したマリノを続けて殴るニトベ)
バシッ!
「ああ…ッ!、あああああ…ッ!」(泣き叫ぶマリノ)
「黙れって言ってンだろがぁッ!」(ニトベ)
バシッ!
「きゃあ…ッ!、あああああ…ッ!」(泣き叫ぶマリノ)
「泣くなッ!」(ニトベ)
バシッ!
「きゃ…ッ!、わぁあああああ…ッ!」(泣き叫ぶマリノ)
「泣き止むまで殴るぞッ!」(ニトベ)
バシッ!
「あああ…ッ!。ああああ…ッ!」(泣き叫ぶマリノ)
バシッ!
ニトベは、泣き止まないマリノを執拗に殴り続けた。
そして、ついには観念したマリノが大人しくなった。
「やっと静かになったな…」
マリノに馬乗りになっているニトベが、笑みを浮かべて言う。
「ふぅうう…ッ、ううう…ッ」
マリノは恐怖で、ニトベから顔を背けて小さく震えている。
顔は痣だらけになり、鼻と口から血を流していた。
「おいッ!、お前らもういいぞ!、先に行っててくれ!、後で感想聞かせてやるよ!、俺の汚ねぇケツ見たくねぇだろ!?(笑)」
馬乗りのニトベは、仲間に振り返りそう言うと、「ぎゃはははは…ッ!」と、正気の人間とは思えない様な笑い声を上げた。
「じゃあ、ペンギンズBARで先に飲んで待ってます!」(仲間の1人がそう言った)
「俺が行くまで騒ぎ起こすなよぉッ!?、出禁になったら、もう飲むとこなくなっちまうからなぁ~!(笑)」
ニトベがそう言うと、やつの仲間たちは店からゾロゾロと出て行った。
「さぁ…、たっぷり楽しもうや、ネーチャン…」
ニトベは押さえつけているマリノに向かってそう言うと、不気味に微笑むのであった。
PM 10:20
空が泣いている
渋谷の夜空が泣いている
こらえ切れなくなった悲しみの涙が、今雨となって降り出しているかの様に…
予報では、どの局も今夜は雨が降る事は無いといっていた
今思えば、雨が振り始めた時刻を思い照らし合わせてみたとき、あの雨はマリノの涙だったのかも知れない…
PM 10:40
「ネーチャン…、思った通りだ…。最高だったぜ…」
ズボンを上げ、ベルトを閉めながら、ニトベが笑顔でマリノに言った。
その時のマリノは放心状態で、涙を流しながら無言で床に横たわっていた。
そしてニトベは、マリノにこう言った。
「ネーチャン…、俺を警察に捕まえさせてぇなら、一刻も早い方が良いぜ…」
ニトベのセリフを横たわるマリノは、うわの空で聞いていた。
「ネーチャン…、レイプはな…、正確な状況証拠と痕跡が重要なんだよ」
「だから早く警察に行くんだ。『私は、今さっきレイプされました!』とな…(笑)」
「すると警察のやつらは、アンタにいろいろと尋問して来るぜ、レイプが本当かどうかとな…(笑)」
「俺にどういう体位で、どの位の時間、責められ続けたか?、アンタはそれを受けて、快楽を感じなかったのか?と、アンタにその時の状況を鮮明に思い出させて、何度も何度も繰り返し聞いて来るんだよ(笑)」
※当時は、女性警官が少なかった為、男性警官が対応に当たった。
「でも、それをアンタは断れねぇ、どんなに思い出したくない事でも、アンタは俺を捕まえる為には、思い出してそれを話さなきゃならねぇんだ。ククク…(笑)」
「それでなぁ…、やつらは俺の体液を証拠とする為に、アンタに股を広げさせて、体内に残る俺の体液を採取するんだ(笑)」
「どんなに恥ずかしく、惨めでもアンタは警官の前で股を広げなきゃならねぇ…、やつらに、俺の体液を採取して貰わなきゃならねぇんだ…(笑)」
「最後は。いよいよ裁判だ。レイプ裁判ともなると好奇の目で傍聴人が、どっと押し寄せて来るぜ(笑)」
「アンタは、そんな野次馬どもの見つめる前で、レイプされた状況を思い出して、正確に再現しながら話さなきゃならねぇ…、どんなに恥ずかしくてもだ!(笑)」
「それから言っとくが、この事件が公になれば、この店はもう終わりだな…?、だってそうだろ?、誰が、女性オーナーがレイプされた店で、客として訪れるよ?」
「同時にアンタは、ここにはもう居られなくなるよな?(笑)、だってよ、アンタは周りから好奇の目で常に見られるんだ。恥ずかしくて恥ずかしくて、とても居られないだろぉ!?」
マリノの傷ついた心に追い打ちをかける様に、卑劣極まりない暴言を吐くニトベは、それだけ言うと、マリノを侮辱するかの様に、下品な笑い声を上げた。
※80年代当時のレイプ裁判では、被害者を囲いで隠して傍聴席から顔を観られない様にして証言をするという配慮などまだなかったのだ。
大半の女性は泣き寝入りか、または加害者側の担当弁護士により、刑事告訴を取り下げて、示談金で済ます様に持って行かれてしまうのだ。
「うう…ッ、うう…ッ」
破壊された店の残骸が散らばった床。
そこへぐったりと横たわるマリノが、悔しさを噛みしめながら、すすり泣く。
「じゃあな!、俺はもう帰るからよ!」
笑顔のニトベはそう言うと、破壊されたエントランスから地上への階段を上がって行った。
「ううう…ッ、ううう…ッ」
マリノが身体を震わせて、悔し涙をしていると、ニトベが再び階段を降りて来た。
「雨が降って来やがった…。おい!、この傘貰ってくぞ…」
ニトベがそう言って奪った傘は、先日雨が降った時にマリノがコンビニで買った薄いピンク色のビニール傘だった。
傘を買ったその日の帰りには雨が止んでいたので、傘はそのまま、店の置き傘にしていたのだ。
そしてニトベが、入口横の傘立てにあったそのビニール傘を持って、再びここから出て行った。
目茶苦茶に破壊された店内に、静寂が訪れる。
マリノは、ゆっくり身体を起こすと、そのまま壁にもたれかかるのであった。
PM 10:45
地下階段から地上で出たニトベ。
やつはポケットからハイライトを取り出すと、1本口に咥え、ライターで火を点けた。
ふ~~~~~~~……。(煙を吐くニトベ)
「さぁて…、あいつらのとこへ向かうとするかぁ…(笑)」
ニトベはそう言うと、咥えタバコをしながら、仲間たちの待つ、ちとせ会館のペンギンズBARへと歩き出した。
「ん?」
その時、道路反対側に立っていた彼が、地下階段から出て来たニトベを見て言った。
モヒカンの色をピンク、グリーン、イエローと、三色に染めたパンクスのニトベを見た彼は、『マリノの店には、似つかわしくない奴が出て来たな…?』と、訝し気に見つめるのであった。
その男は咥えタバコで、持ち手がピンク色のビニール傘を差しながら、彼が今通って来た神宮通りへと去って行った。
彼の方は、車が途切れたので道路の反対側へ小走りで渡る。
そしてマリノの店へと続く、地下階段を降りて行った。
店のエントランスの前に立つ彼。
「な…ッ!、なんだよぉ…、こりゃぁ…ッ!?」
店が滅茶苦茶に破壊されているのを、目の当たりにする彼。
その尋常じゃない光景に、驚きの声を上げた!
「マ…ッ、マリノツ!」
ざわざわとする、嫌な胸騒ぎを感じ、急いで店の中へ入る彼。
「マリノッ!、どこだぁッ!?」
店内を見渡す彼がそう言うと、すすり泣く声が、端の方から聴こえて来るのが分かった。
「マリノッ!?」(そこへ駆け出そうとする彼)
「来ないでぇッッ!」(その彼を拒絶するかの様な、ヒステリックなマリノの叫び)
「マ…、マリノ…ッッ!?」
壁際へ、うつむき加減にもたれる彼女を見た彼が、唖然として言う。
「み…、みないでぇぇ…、うう…ッ、ううう…ッ」
マリノは涙目で彼にそう言った。
彼女の痣だらけで血の付いた顔と、着衣の乱れを見た瞬間、彼はマリノがレイプされたのだと確信した。
(どおいう事だぁ…?、誰が一体…ッ!?)
彼が無言でマリノを見つめる。
「みないでぇ…、うう…ッ、そんな目で、私のこと、みないでぇ…、ううう…ッ、うううう…ッ」(マリノ)
(アイツだッ…!?、このタイミングッ…!、奴しかありえねぇ…ッ!)
彼はさっき見かけた、三色モヒカンの男を思い出す。
「くッ!」
血が逆流した彼が、店のテーブルを拳で“ガンッ!”と、叩く!
「ううう…ッ、ううう…ッ」(顔を伏せて泣いているマリノ)
「マリノ…、すぐ戻る…」
彼はボソッと言うと、踵を返し、そのままモヒカンを追おうとした。
「いかないでぇッッ!」
間髪入れず、マリノが叫ぶ。
彼が振り返る。
「うう…、行かないでぇ…、怖い…、怖いの…、1人にしないでぇ…、うう…、ううう…」(マリノがすがる様に彼に言う)
「マリノ…、俺は、君をこんな目に合わせたやつを、今見たんだ!、だからやつを追う!」(彼)
「いかないでぇ…、1人にしないでぇ…、うう…、ううう…」(ガタガタと怯えるマリノ)
「俺はやつを許せねぇ…ッ、アイツをこのまま見逃すワケにはいかねぇ…ッ」(彼)
「嘘つき…」
すると涙目のマリノが、突然ポツリと言う。
「え?」
その言葉に彼が困惑すると、次にマリノは堰を切った様に叫んだ!
「嘘つきッ!、嘘つきッ!、嘘つきッ!…うう…ッ」(マリノ)
「マリノ…?」(困惑の彼)
「ふぅぅ…、うううッ…、私のこと守るって言ったじゃないッ!?、私がいかないでって、頼んでるのにッ、こーくんの嘘つきッッ!、うう…、うう…ッ」(マリノ)
「くッ…、マリノ…。すまん…、すぐ戻るッ!」
彼はそう言うと、階段を駆け上がった。
彼の背後から、マリノの絶望した泣き叫びが聴こえる。
ああああああ…ッッ!!、うう…、あぁぁああああああ…ッ!
すぐ引返し、マリノを抱きしめてあげたかった彼。
だが、それよりも、犯人を取り逃がす事が、彼にはどうしても我慢できなかった。
こんなとき、あなたなら、どうするだろうか?
彼はマリノを店に1人残して、出て行ってしまうのだった。
PM 10:55
(ヤロウ…、どこ行きやがったぁ…ッ?)
外に出た彼は辺りを見渡すと、そのまま傘も差さずに雨の中を走り出した!
10日ほど前
彼はマリノと初めてキスをした、あの夜の事を思い出していた。
唇と唇をゆっくりと離す2人。
どこか気まずそうな、照れくさい様な雰囲気で見つめある彼とマリノ。
少し経つと、その沈黙を破るかの様に、マリノの方から彼に語り始めた。
「ねぇ…、こーくんは私の事、好き…?」
マリノが少し微笑ながら彼に聞いた。
「好きだよ…、たぶん…」
彼がマリノにそうポツリと言う。
「たぶん…?」(マリノ)
「あ…、いや…ッ、その…」(少し慌てる彼)
「ふふ…、正直なのね…?」(マリノ)
「すまん…」(彼)
「いいの…、だって、さっき初めてキスしたばかりなのに、そんな事、急に言われても困るわよね?(笑)」
そう笑顔で言うマリノを、彼は黙って見つめている。
「こーくん…、良い事、教えてあげるよ…(笑)」(マリノ)
「良い事…?」(彼)
「ええ…、良い事…」(微笑むマリノ)
「何だい?」(彼)
「自分が今、気になってる人が分かる方法…、というか、自分が今、1番好きなのは誰なのか知る方法…(笑)」(マリノ)
「へぇ…、どんな方法で…?」
そう彼が聞くと、マリノは話し出した。
「あなたは、毎日朝起きてから、学校や仕事に行くとき髪を整えて、服に着替えたりと、支度をするじゃない…?」
マリノが微笑んでそう言うと、彼は「ああ…」と頷いた。
「あなたがヘアスタイルを気にしているとき、誰の顔が浮かんだ?」
「服に着替えて鏡の前に立ったとき、誰の事を思い出した?」
「その時に浮かんだ異性が、あなたが今、1番気になっている人よ…」
「あなたは、その人に良く見られたいと思って自分の髪型を気にし、その人に気に入ってもらえそうな服を無意識にチョイスしてるの…」
マリノの話を聞いていた彼は、「そうなんだぁ…?」と、感心する。
「私はね…、ずっと前から…、あなたと初めて会った時から、こーくんだった…」
「朝、会社へ向かう支度をしている時、いつも思い出すのは、あなただった…」
「だから今日のキスも、気まぐれなんかじゃないの…、ずっとずっと、想い続けて来た“キス”だったの…」
「ねぇ…、あなたは今朝、誰の顔が浮かんだ?(微笑)」
マリノにそう聞かれると、彼は言う。
「君だ…。今朝は君だった…、というか、君と再会してからは毎日、君の顔が浮かんできてた…」
思い出す様に、彼がゆっくりと話し出した。
「ふふ…、そう?、良かった(笑)」
「じゃあ私たち、両想いなのね?(笑)」
「そういう事になるな…(笑)」(彼)
「じゃあ訂正して…、あなたは私の事、好き?(笑)」(マリノ)
「うん…」
彼はそう言って、マリノに微笑んだ。
「あ~あ…、このまま、ずっと一緒に居れたらいいなぁ…」
そう言って、彼にマリノがもたれ掛る。
「そうだな…」
そのマリノの肩を、両手で抱く彼。
そして彼は、またマリノの肩が小さく震えているのに気が付いた。
「あれ…?、また震えてる…」(彼)
「また嫌な事、考えちゃったのかな…?(苦笑)」(マリノ)
「何も心配する事はない…」(彼)
「うん…」
彼に抱き寄せられたマリノが、小さく頷いた。
「君に哀しい思いはさせない…、俺がずっと傍にいて守るから…」
彼がそう語り掛けると、彼女は「ありがとう…」と言って、彼の胸に顔を埋めるのであった。
PM 11:07
雨の降り続ける東京渋谷
彼はサドンデスのニトベを探し回っていた。
ファイヤー通りからオルガン坂方面へと走る中、ビニール傘を差して歩くパンク風な男を、彼がやっと発見した!
その男は、先程見かけた男と同じ、両サイドを刈り上げたインディアンの様な、モヒカンヘアーだった。
男はビニール傘を差していたので、やつのヘアスタイルを彼は確認できたのだ!
その男を追う彼。
モヒカンはオルガン坂手前で左に曲がり、公園通りへ折れた。
男の姿が視界から消えた!
彼は全速力でモヒカンを追う!
彼が公園通りに曲がると、モヒカンは、パルコ前のペンギン通りへ入って行った!
その差、距離にして30m弱、そしてモヒカンの姿がハッキリと視界に捕らえられた!
インディアンの様なモヒカンをピンク、グリーン、イエローと、三色に染めた、黒い皮ジャンのパンクス。
耳には無数の安全ピンのピアス。
咥えタバコに、薄いピンク色のビニール傘。
いかに渋谷に人が多くても、これだけ特徴のあるやつは、他には1人としていやしない!
(※その差は、距離にして15m!)
(やつだッ!…、間違いねぇ…ッ!)
彼はペンギン通りに入って行ったモヒカン目がけて、更に加速した!
咥えタバコをしながら、上機嫌のニトベは肩で風を切って歩いていた。
もうすぐ仲間たちが飲んでいる、ペンギンズBARに到着する。
マリノをレイプした話を自慢できると思うと、ニトベはニタニタと微笑むのだった。
そこへ背後から誰かが、ニトベに声を掛けた。
「おい、アンタ…」
その声に誰だ?と思ったニトベは、「あ!?」と、口を半開きにして、ガンをくれる様な表情で振り返る。
すると振り返ったやつの顔の前には、既に拳が飛んで来ていた!
ガッ!
「ぅあッ!」
突然、顔面にストレートを喰らったニトベが、ドスンと尻餅を着いた!
「つ~~~~……ッ!」
鼻を押さえながら、ニトベが険しい顔をする。
微かに見えた相手の足元は、デニム(501)に、ウェスタンショートブーツ。
「てめぇぇ…、何すんだいきな…」
ガンッ!
「ぐふぅッ!」
不意討ちを喰らわせて来た相手に、またもやイキナリの蹴り!
顔にブーツの踵が思いっきり当たったニトベは、しゃがみ込んだまま。後ろにひっくり返った!
「オメェ…、俺を誰だか…」
ガンッ!
「ぶッッ!」
手を付いて身体を起こすニトベに、またもや容赦ない蹴り!
喋る間も与えず、一方的に攻撃する相手に、ニトベが、キレた!
「てめッ!」
ニトベはそう言って、相手の脚、目がけてタックルッ!
ゴンッ!
ドンピシャのタイミングで、彼がニトベに膝を喰らわしたッ!
「ふぅぅ…んん…」
顔面にモロ、カウンターで膝蹴りを喰らったニトベが、軽い脳震盪を起こして、その場に沈み込んだ。
ザーーーーーーーーー……ッ(雨音)
ぐったりしているニトベを無言で見下ろす、冷たい表情の彼。
彼は、ニトベの背後に回ると、革ジャンの襟元を掴む。
そして、そのままニトベを引き上げると、ブンッ!と、ニトベを放り投げた!
バシャーーーーンンッ!
ビルとビルの間の狭い路地に、投げ捨てられたニトベが、水たまりの上に落ちた!
「うう…、てめぇは誰だ…?」
水たまりから身体を起こすニトベが言う。
「分からねぇか…?」
冷めた目でニトベを見下ろす彼が言った。
「もしかして、昨日、代々木公園で襲ったカップルの片割れか…?」
地面に手を付き、身体を支えているニトベ。
「違うッ!」
そう言って、ニトベの顔面をガンッ!と蹴る彼!
「がぁッ!」
ニトベが仰け反った!
「ぐぅう…、じゃあ、先週コンビニで万引きした俺らのグループを、とがめてボコしたサラリーマンのツレか…?」
体勢を立て直し、口から流れる血を、ぬぐいながら言うニトベ。
「違うッ!」
そう言って、またニトベの顔面をガンッ!と蹴る彼!
「ぶぅッ!」
ニトベが今度は、蹴りの勢いでひっくり返った!
「はぁはぁはぁ…、じゃあ、この前、俺に出禁喰らわせた居酒屋のやつかぁ…?、はぁはぁはぁ…」
手を付いて身体を起こしながら、痛みの苦しみから、肩で息をしながらしゃべるニトベ。
「違うッ!」
彼が容赦なく、ニトベの顔面を再びガンッ!と蹴る!
「がッ!」
ニトベが再度、蹴りで倒された!
「うう…、分からんッ!、それ以上前は、古くて思い出せねぇ…、へへへ…(苦笑)」
額に汗をかき、鋭い目つきで、彼をニヤケながら見つめるニトベ。
「このクズがぁッ!」
彼はそう叫ぶと、先程にも増して力強く、ニトベの顔面をブーツの踵でガンッ!と蹴った!
バシャーーーンンッ!
ニトベが水たまりの中に、再び仰向けで倒れた!
「うう…、おめぇは知らねぇだろうが、俺はサドンデスのニトベってモンだ…、俺にこんな事しておいてただじゃ済まねぇぞ…」
雨空に向いて、ニトベがそう言った。
「サドンデスだとぉ!?」
その言葉を聞いた彼が驚いた。
「はぁはぁ…、なんだぁ?、オメー、サドンデス知ってンのか…?」
顔を持ち上げて、彼を見ながらニトベが言う。
「これでも一応、バンドマンなモンでな…」(冷めた目で彼が言う)
「バンドマンかょ…?、ただの小僧かと思ってたぜ…、はぁはぁ…、なら、俺たちの事、よく分かってんだろぉ…?」(ニトベ)
「どうしょうもないクズだって事しか知らんがな…」(彼)
「はぁはぁ…、じゃあオメェは、バンド狩りの仕返しで、俺を襲ったんじゃねぇのか…?」(ニトベ)
「俺は、おめぇらに襲われた事などない…」(彼)
「はぁはぁ…、じゃあ何だってんだよ?、なんで俺を襲う?、なんで不意討ちなんて卑怯なマネしやがった?」(ニトベ)
「卑怯だと…?、てめぇの口から、そんなセリフが出て来るとは驚きだな…?(苦笑)」
彼はそう言うと、またニトベの顔面をブーツの踵でガツッ!と蹴った!
ザーーーーーーーーー……ッ(雨音)
彼の蹴りで仰向けに倒れたニトベが、全身に雨を浴びながら言う。
「ぐぅぅ…、はぁはぁ…、てめぇ…、俺を殺す気か…?」
「そうなっても、構わないと思ってるよ…」(冷めた目の彼)
彼がそう言うと、ニトベは素早く上体を起こし、懐からバタフライナイフを取り出そうとした!
カチャカチャ…ッ!(慌ててバタフライナイフを開こうとする音)
ガンッ!
「がぁッ!」
バシャーーーンッ!!
すかさず彼に、顔面を蹴られたニトベが、ナイフを握ったまま、水たまりに仰向で倒れた!
バキッ!
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛…ッ!」
続けて、ナイフを持つ右手首を彼のブーツの踵で踏みつけられ、骨の折れたニトベが悲鳴を上げた!
カンッ!
カラカラカラ……ッ
ニトベの右手から落ちたナイフを彼が蹴ると、ナイフは路地の奥まで回転しながら滑って行った。
ザーーーーーーーーー……ッ(雨音)
「ぐぅぅぅ…ッ、ふぅぅううう……ッ」
左手で手首を押さえながら、痛みで小刻みに震えるニトベ。
それから彼は、ニトベの背後に回ると、やつの左腕を後ろ手にねじ上げた!
「ぐッ!、なにしやがるッ!?、ぐぅぅううう…ッ」(ニトベ)
そう言ったニトベに耳を貸さない彼は、やつの後ろで立膝を突いてしゃがんだ。
続けて彼は、ニトベを這いつくばらせると、ねじ上げたやつの左腕をピンと張って、自分の膝の上に置いた。
そして彼は躊躇なく、ニトベの肘関節目がけてエルボーを落とした!
バキッ!
「あがががが…ッ!、あがががが…ッ!」
左肘が逆方向に曲がったニトベが、地面にのた打ち回る。
やつの左肘は脱臼と、靭帯断絶となった。
「どうだ…、怖いか…?、恐ろしいだろう…?」
仁王立ちの彼が、冷たい表情でニトベに言う。
「や…ッ、やめろッ!、やめてくれッ!」(ニトベ)
「お前は、そう言って許しを乞うた者たちを、今までどんな目に会わせて来た…?」
「どんなに詫びても容赦ないお前らに、やられて来た者たちの、涙と、絶望と、恐怖を、今度はおめえも味わう番だぁッ!」
彼はそう言うと、続けざまにニトベを蹴り続けた!
ドカッ!、ドカッ!、ドカッ!……
「がぁッ、ぎゃぁッ、ぐぅぅッ、がぁああ…ッ!」
蹴られ続けるニトベが断末魔の悲鳴を上げる。
その時、彼の背後から声が聴こえた。
「おい…、あれ、やばいんじゃないか…?」
「やられてる方は、殺されちまうぞ!」
「おい、誰か警察呼んで来いよ…」
裏路地を見つめる野次馬たちが集まり出していたのに、彼が気づいた。
「ちッ!」
舌打ちした彼が、ニトベの攻撃を止めた。
それは、ここで警察に捕まるわけにはいかなかったからだ。
店に1人残した、マリノの元へ戻らなければならなかったからだ。
ぐったりしたニトベが、はぁはぁと息をしながら横たわっている。
彼はやつをそのままにして、この場から離れようと踵を返す。
すると背後からニトベの声が…。
「おい…、行くのかよ…?、へッ…、へへへ…」(ヨロヨロと身体を起こすニトベ)
その声に彼が立ち止まり、冷めた表情でニトベに振り返る。
「てめぇは、大変なコトしちまったなぁ…、へへへ…、なんせ、サドンデスを敵に回しちまったンだからなぁ…、はぁはぁはぁ…」
ニトベがギラギラした目つきで、彼を睨みながら苦しそうに喋る。
そして彼は、無言でニトベを見下ろしている。
ザーーーーーーーーー……ッ(雨音)
「てめぇのツラ…、よぉ~く覚えとくぞぉ…」
「俺たちサドンデスはなぁ…、てめぇがどこに潜んでいようとも、必ず見つけ出してやるからな…、へッへッへッ…」
「ここで…、俺のとどめを刺さなかったコトを、一生後悔させてやるぜ…、はぁはぁはぁ…」
「必ず…ッ!、必ずてめぇを見つけ出し、ギッタギタの、バラッバラッにしてやるからなぁ…、へ、へへへ…、はぁはぁ…」
「てめぇなんかなぁ…、ジンさんに掛かりゃぁ…、簡単にひねり潰されるぜ…、へッ…、へへへ…、ざまぁみろぉ!」
ニトベは、無言で自分を見下ろしている彼に喋り続ける。
「はぁはぁ…、てめぇはもお、お終いだぁ…、ジンさんに殺されるぜ…、へッへへへ…、ざまぁみろぉ!」
「ひゃぁはははは…ッ!、ざまあ…、ざまぁみろぉ!、ひゃははははは…」
「ざまぁみ…」
ドカッ!
彼がイキナリ、やつの顔面をブーツの踵で蹴り倒す!
ニトベは「うぅ…」と唸り、失神した。
ザーーーーーーーーー……ッ(雨音)
彼は、前のめりに崩れ落ちたニトベを数秒間、無言で見つめると、踵を返して路地裏の出口へ歩いて行った。
「どいてくれ…、見世モンじゃねぇ…」
彼は、かたまっている数人の野次馬たちにそう言うと、野次馬は彼に道を開けた。
表通りに出た彼は、左右をチラッと見回すと、そのまま雨の中を走り去って行った。
PM 11:47
彼がマリノの店の前まで戻って来た。
そして階段を小走りで降りて行く彼。
「マリノ…」
彼が、荒らされた店内に入ると、彼女の名を呼んだ。
だがマリノの姿が見当たらない。
「マリノッ!?…、マリノッ!?…、どこだッ!?、マリノッ!」
彼が急いて辺りを探し回るが、マリノの姿は見当たらない。
彼は階段を急いで駆け上がる!
そして表通りに出ると、左右を見回した。
辺りにマリノが居ないのを確認すると、彼はまた店の中まで戻って来た。
店内で立ち尽くす彼。
破壊された店の中に静寂が走る…。
マリノは姿を消した。
彼女にとって、ニトベへの報復など、どうでも良い事だっだのだ。
マリノは、あの時、ただ彼に傍にいて欲しかったのだ。
こんな風になってしまった自分を、彼が受け入れてくれるのかどうか、あの時のマリノは確かめたかったのだ。
だが彼は、あの時、マリノを置いてニトベを追った。
絶望したマリノは泣き崩れ、彼が戻るのを待つことなく姿を消した。
「うう…ッ、く…ッ、くそッ…」
やるせない気持ちが込み上げてきた彼が、つぶやく。
彼はうつむき、身体を震わせ泣いた。
目から出る大粒の涙は、彼の足元の床にポタポタと流れ落ちるのだった。
それから彼は、何度も何度もマリノの自宅へ電話をするが、彼女が出る事はなかった。
ただ虚しく、毎日が過ぎて行った。
あの悲惨な出来事から1週間後、彼はマリノの店がテナントを解約しているのに気が付いた。
彼は、マリノの職場にも電話をかけてみる事にした。
だがマリノの職場の同僚の話では、彼女は既にイベント事務所を辞めており、住んでいたアパートからも引っ越していた。
彼女が現在どこに行ってしまったのか、誰も分からないという事であった。
こうしてマリノは、心に深い傷を負ったまま、この街からひっそりと、身を隠す様に去って行ってしまった。
しかし事態は、これで終わりではなかった。
あの日を境に、彼とサドンデスとの因縁が始まったのである。
…… to be continued.