はじまりの冷たい夜(6)
中央断層の真ん中に立って西、または東を見た時、きっと両側に聳える断層に挟まれた隙間がずうっと遠くまで伸びて線対称に見えるのだろうなあと子どもの頃は思っていた。しかし、遠目から見れば真っすぐで平坦に見えても、実際最下層を歩いてみるとかなり蛇行していて線対称どころかそんない視界はよくない。そもそも汚い河が最下層の真ん中をうねうねと通っているのでど真ん中に立つことができる場所が少ないし、南北どちらかの壁に寄ってもぼこぼこ穴が開いたり崩れた土砂が溜まっているので、やはり何キロ先まで見通せる視野とはいかないものだ。
巣だまりは家から少し遠かったので、硯が芽農との取引を終える頃にはもう太陽が真上を少し過ぎていた。家の近くまで歩いてきたとき、崖の上のほうからロープが一本垂れていることに気づく。その下にぶらさがっているものは土砂のかたまりで見えなくて、硯は、ユトが植物採取に行ったとき使った安全ロープをそのままにしたのかなと考えた。
「あぁ……あ……」
ロープの先端に、腹のベルトから海老ぞりになったユトが括り付けられていることに気づいて、硯は躓くようにして走り出した。ユトの身体の下にはてかてかした水のようなものが広がっていて、それが血だまりだと分かったころには首をうしろにかくんと倒して気絶した白い顔が見えた。
「ユト?!ユト、ああうそだろ、ユト!」
ユトの元に駆け寄って抱き留めようとしたとき、彼女の後ろに転がる4つの死体が目に入った。後頭部から血を流す知らない男、胸に短剣が突き刺さった知らない女、首があらぬ方向を向いた知らない男、首から腹にかけて血で染まり、逆棘杭が足に絡みついている知らない男。洗濯物干し機のあたりに赤い線が三本見えて、その線を北壁の上に向かって辿った先のなだらかな傾斜にうつ伏せになった栗毛が見えた。
「ノーチ!ノーチ……ああ、ああ………」
硯は籠を後ろに脱ぎ捨て、震える腕でまずユトの腰を支えながらロープを切り、ずしっと両腕にかかった体重を持ち上げて動かした。両腕の上にのせて持ち上げようとしたが、腰に滴っていたさらさらした血が手についてすべり、一度地面にずり落ちる。もう一度抱えて、「ユト、頼む……頼むから……」と呼吸まじりに囁きながらノーチのそばまで運んだ。ユトはぼんやり目を開けたまま瞬きもせず、息もしていなかった。
ユトをノーチのそばに横たえると、硯はノーチの身体を仰向けにした。相変わらずずっしりと俵のように重い身体は、服の腹と胸に金貨大の大きさの穴が幾つも開いている。
「なんでだ……ノーチ……」
あの夜を連想させる青い唇に血の気の引いた頬。しかし、今の硯が持つ石は一つ分。ユトとノーチのどちらかにしか使うことはできない……。硯はふと、昔指導教諭から教わった話を思い出した。己の命と引き換えにすることで、同等の力を得ることができると。
この傷を見た様子だと、一人につき石ひとつでも足りるかわからない。だが……なんとか踏ん張れば、おれとこの石で二人、助けることができるのではないか?
すると、ノーチの黄金色のまつげに縁どられた瞳が開き、僅かに口を動かした。
「スズリ……ユトが……」
「ノーチ!気づいたのか?」
「大丈夫だ……見てるから……わたしがちゃんと見てるから」
その言葉を聞いたとたん、硯は大きく目を開いて、肩を震わせ嗚咽した。
ノーチは、ユトがまだ碌に立てない頃からよく「ちゃんと愛せるかわからない。わたしは自分勝手だから」とぼやいていた。ユトが少し大きくなり言葉を解すようになると、「ディアナも小さい頃よくそうしたらしい」「ディアナと同じ琥珀色の目だ」と言って喜んだ。それを聞いていた硯は、ユトにこう言った。
「ユトは、お絵かきが得意なところがノーチに似ているもんな?」
するとユトは「うん!うん!」としきりに頷いて、ノーチに自分の描いた絵を見せようと外に連れて行った。
「ユトはこの前お前の真似して木の小刀を研いでいた。本当の母親の話も悪かないが、あいつはお前にそっくりだって言われたいんじゃないのか?」
そういうと、ノーチは少し悲しそうに驚いて「気づけなかった、ユトに悪いことをした」と言ってそれ以降あまりディアナの話をするのをやめた。
硯がこんなことをわざわざ言ったのは、兄と姉がよく父と母に似ていると褒められるのに対し、自分は母と仲が悪い伯母さんに似ていると言われることが多かったからだった。硯は、自分が殺されたくないというよりも、ユトには自分のような人間になって欲しくないと思ってユトとの関わり方に怯えていた。おれになるくらいならせめてノーチにというと、ノーチは「悲観的なところはいつまでも変わらないな」と笑ったが。
当初は七日間だけのつもりが、再びここに戻ってきてからというもの硯はユトの父親としてあの子の健全な将来を願ったし、可愛くて仕方ない。そしてノーチにも同じくあの子を愛してやって欲しい。
だというのに――それでも――――あろうことか硯は、ユトよりノーチに生きてほしかった。子どもは半ば無条件に親を求める。親の愛を、親の理解を……それは親が親として子どもと接するからだ。ユトがノーチや硯を求めるのは当然のことであるし、ユトが求めるのは親としての硯だ。
だがノーチは違う。ノーチはきっとユトなしでは硯を求めないが、今やこの世界でたったひとり、本当の自分を見せることができる相手だった。例えノーチが真に誰を愛していても……ユトの先に誰を見ていても……。
硯はユトを仰向けにして、その身体の前で胡坐をかいて手を組み、首をたれた。神術、とくに言霊を行使するときには、太陽か地面のどちらかにより近接していればいるほどその恩恵を最大限に発揮できる。三回呼吸し、口上を述べ、左耳から最後の石を外して口に入れて飲み込む。
「……父なる太陽を、母なる大地を讃えます。我が言霊を、我が魂をここに授けます。『補填』せよ。我が魂を『補填』せよ。この者、我が子ユトの魂を呼び戻し、傷ついた身体を癒やせ」
硯の身体がほのかに明るくなり、額に汗が滲み、胡坐をかいている地面の下が熱くなった。ノーチは、顔を横に傾けて浅い息をしながら硯の様子を見ている。
身体の中で石が昇華されていくのがわかる。やはり、ユトを治すのに石ひとつでは足りなかったのだ。
「スズリ、すまない。ありがとう」
横たわっているノーチがかすれた声で呟いた。硯はノーチを見た。
「信じて貰えないかもしれないけど……愛してる。本当だ、硯」
「嘘つくな!」
身体の奥が熱く煮えたぎる。燃え上がる。
「ほんとうだよ」
ノーチは、土気色の顔で柔らかく目を細めた。
「お前のこころを埋めるものに、わたしがなりたい」
ノーチの声が上ずった。硯はたまらず慟哭した。
「ああ、神様!願わくば、輪廻の輪で再び相まみえんことを」
今わの際で口から出るのが神術なんぞの挨拶なんて、あまりに無粋でなんと気が利かないことだろう。淡く発光する硯の身体にてらされて、彼女の瞳が菫色にひかっている。彼女も泣いている。
しばらくして硯の身体から力が抜けて、地面に倒れた。ノーチは硯の手を堅く握って目を閉じた。
「輪廻の輪で再び……」
ノーチは最期に呟いた。
音が聞こえる。
高くそびえる断層を吹き抜ける風、洞窟の軒先に垂れる簾のはためき、遠くはるか彼方から響く馬の嘶き、冷たい地面の真下から轟くマグマ、岩盤でぶつかり軋んで割れる岩、その中から、ユトの心臓が命の鐘をうつ音が、聞こえる。
ユトが目を覚ましたのは夜だった。
あまりにも寒く、身体を縮めようとして服が湿っていることに気づき目を開けると、細長い夜空に月が見切れていた。身体を起こして、すぐそばに硯とノーチが倒れているのを見つけて、それから昼間の出来事を全て思い出した。
ユトはまず二人を必死に揺り動かして、二人とも息がないことを確認するとノーチに教わった人工呼吸と胸部圧迫を試した。怪我の治療の仕方を硯に教わったことを思い出して二人をそれぞれ家の中に引きずって、ランプに火をつけて焚火を少し燃やして部屋を暖めた。水を湧かしてお湯にして、ノーチに教わった傷薬を作って、タオルを布で湿らせて二人の身体を拭こうとして、ノーチの服を脱がし身体に空いた六つの穴を指で触った。
ユトはそこで声を上げて泣き出した。すぐ泣き止んで、それから二人のそばでずっと座り込んでぼーっとしていた。次の日も、のろのろと備蓄のご飯を食べて死体のとなりで座り込み、暇になったので家の外で洗濯物を干したり汚泥を乾かしたりした。ご飯はずっと二人の死体のそばで食べた。何もしない日があったり、何かする日があったりしたが、誰も話し相手がいないので死の間際の記憶を何度も何度も繰り返し思い出した。そして、記憶の中の二人の言葉、二人のにおい、二人の手触りを思い出して、また泣いた。
それを何日か繰り返した後、ユトは家の外に穴を掘った。ノーチの国では死体はそのまま埋めるけど、硯の国は焼くらしいという話を以前硯から聞いていたので、それぞれ別のお葬式方法にしようかと思ったけどやめた。ユトは、二人に仲良く同じお墓の中で眠ってほしかったのだ。
ユトは油をいっぱい使って二人を焼いた。焼くのに物凄く時間がかかり、ひどい匂いがして泣きながら吐いたが、骨になるまでうまく焼けなかったのでそのまま穴に埋めた。埋める前に、ユトの髪の毛を一本入れた。
ノーチの大きな掌が、よくできたなと言って揺らした頭。硯が、長い髪も似合うなといって撫でた髪。
埋め終わったときは夜になっていた。ユトは11年暮らした家を出て、崖を登り始めた。




