はじまりの冷たい夜(5)
中央断層。
それはこの世界を南北に分かつ巨大な裂け目のことである。中央断層は、底が見えないほど真っ暗で深く、向こう岸が見えないほど巨大で、両岸を行き来できる人間は"渡りの使者"のみだ。
南北に別れた土地にはそれぞれ幾つかの国がある。
断層以南に住む人々は、神術という特別な力を持つことができる。神術とは大地の神々の力をわが物とする術のことで、人を殺すことも助けることもできる。南部は暖かく緑豊かな山々に恵まれ、そこに住む人々は太陽を信じ神として崇める。
断層以北に住む人々は、特別な力はなにも持たない。北部は、北に近づけば近づくほど寒く荒涼とした大地が広がっている。そこに住む人々は身体が丈夫で、バネのような筋肉に包まれた足腰で険しい山々や氷に閉ざされた大地を駆ける。
……というのがノーチと硯の話だけど実際の話、中央断層は幅1キロ強、高さ8キロ強なので底も向こう岸も見える。だって底に住んでるもんね。
竹を割った筒から、ろ過したての水がしたたり落ちてくるのを待ち構えて、ユトは真下に舌を伸ばした。水が流れてくる音がする……水が……いま…………落ちる!
「ユト!」
ろ過部屋の隣から硯の声がして、ユトは「はぁい!」と返事して勢いよく地面から立ち上がり、ろ過器具を支えている木の天板に頭をぶつけ盛大に呻いた。くそ、ここいっつも頭ぶつける。苛々する……でもお水おいしい。
ユトは絞り終わった洗濯物を籠に入れて、入り口に立てかけてある木の筋で編んだ茣蓙を押しのけて外に出た。正午だ。
太陽がユトたちの家のほうまで差し込むのは一日でたったの五時間くらいしかない。ユトの住処は、中央断層と呼ばれている世界の切れ目の最下部で、それ以外の二十時間は一キロくらい離れた対岸にそびえる南側断層の陰になって薄暗く、寒い。それでも、北側に住んでいれば臭い河もないし少しだけど太陽も見えるし住みやすいんだと硯は言う。
ユトは籠を背負って家の真上に天高くそびえる断層に向かって走り出した。傾斜が緩やかなのは最初だけで、すぐ地面と垂直くらいになってしまうので、さすがにそのあたりで腕を使って杭を掴む。大事なのは勢いとリズムだ。ふりこのようなリズム、バネを使って杭と杭を交互に掴んでよじ登る。
「このへんでいいかな」
あっという間に家より何メートルも上の方に来ることができた。ユトは得意げになって鼻を擦り、その後ノーチの雷を思い出して真面目に杭にロープを渡した。ここに干すと、太陽が当たる時間が下よりも長いから洗濯物が良く乾くのだ。次々と洗濯物をひっかけていき、最後の一つ、靴下を干し終えて家に戻った。
「あっ、こらぁ!ユト!」
「あ、ノーチ帰ってきた」
帰宅するや否や遠くからノーチの怒鳴り声がして、家の天井の補強をしていた硯が「おまえまた上で干したのか……」と零す。
「ユト、あんな高いところに干さなくていいっていつも言ってるでしょうが。そもそも、つっかえ棒をつかって楽に干せるっていうのに……」
「だってその方がよく乾くじゃない。わたしできるもん、落ちたりしないもん」
「それに赤い印より上に行くときは安全ロープを使えと」
「わかってる!わかってる!」
ユトは床に敷いた食卓用の布の上から木の実を二、三粒ふんだくって、まだ何か言いたげなノーチの脇をすり抜け家から出た。
確かに、硯が作った洗濯物干し機は便利だ。ユトでも手が届く位置に二本、そこからずっと上の方に二本ぞれぞれ崖に向けて滑車替わりの杭を打ち込み、下の杭にひっかけられているロープに洗濯物を干し、全部干し終わった後杭からロープを外して右端で固定されているロープを下に引っ張ると、上の杭に洗濯物を持ち上げることができる。
しかしユトは、文明の利器を使うよりも素手で断層を駆けあがることを好んだ。ユトは、茣蓙の隙間から見える岩と土と僅かな太陽だけの世界が嫌いじゃない。ノーチと硯はユトの本当の親じゃないとかなんとか言ってるけれど、そんなのユトにとってはどうでもいいことだ。ユトは、ノーチに崖のぼりや戦い方を教わるのが好きだったし、硯に神術の話を聞くのが楽しかったし、二人もユトのことがきっと好きだろうと――大好きと断ずるには言いよどむくらいの引っかかりはあったが――思っていた。
高いところに登ると、心がわしづかみにされるような、それでいて風の中に身を任せるような奇妙な心地になる。ちょっと上ったくらいじゃ地上ははるか上の彼方だけど、東西に蛇行して伸びる断層を眺めるといつも言葉では言い表せないような興奮と不安を抱く。ここから出ていきたくなんてないのに、永遠に二人のところに居たいのに……。
それは地響きに似た振動だ。心の奥深く、この断層のもっと下のほうから鳴り響く熱い血潮。ユトはノーチから聞く寝る前のおはなしに出てくる"火山"を想像する。この地面の真下でごうごうとながれるマグマのように、胸の下、薄皮めくった骨と筋肉の隙間で震える心臓が、ユトに駆けろと嘶くのだ。
「崖のてっぺんに行きたいな~四肢で野山を駆けたいな~」
即興で作った謎の歌を大声で歌うと、前を歩くノーチは後ろを振りいて「なに?」と聞いた。今日はいつもより早くから崖に用事があるので、朝食の干し肉とお茶と豆を煮たやつを食べた後すぐ家を出た。スズリは目農が近くの巣穴だまりに来るという情報をどこからか仕入れてきたので、一緒に家を出て南側に向かっている。
中央断層最下層では太陽の位置を確認できないので大抵ユトは空の色で時間を測るのだが、曇りの日や雨の日もあるのであまりよく分からない。ユトは朝が苦手で、まだ真っ暗な外の景色を見て「本当に今は朝なのか?二人は何か勘違いしているんじゃないのか?」と怪しく思うのだが、硯は神術が使えるので間違いないと笑う。ユトにとっての朝とは頭上の空が薄明るくなるまでを言い、ユトにとっての昼は太陽が強烈な光の矢を放つ正午の一時間だけだ。
ユトは目覚めの時間が嫌いだったが、朝早くの空気は気持ちがいいので好きだった。夜と見分けがつかないくらい暗いのに、嫌じゃないつめたさが鼻孔に流れ込んでくるとなんとも晴れやかな気持ちになった。
「崖の上の方に登るとね、ちょっとどきどきするの……なんだろうなー、ごうごう、どくどくってマグマみたいな感じがする」
ノーチはため息交じりに笑った。
「……走りたくなる?」
「そう!」
「それも、なるべく高いところに登りたくなる」
「そお~!」
「そうかあ。血は争えないな」
「……ノーチも?」
ノーチも、と口にしたのと殆ど同時に、ああノーチとわたしは血がつながってないんだったと小さくがっかりしたが気づかなかったふりをした。ユトはたまに、自分の失言に自分で気づいていないふりをして、誤魔化してノーチたちの反応を見る癖があった。しかしそのときもノーチはそれには反応せず、「うーん、どうかな。わたしはお淑やかな女の子だったからなぁ」とわざとらしく腕組みした。「ジーマの子どもは猿と見分けがつかないってよく言われるんだ。すぐ木や山に登りたがるからね」
「ノーチもでしょ?」ユトは間髪入れずに聞き返す。
「だから、わたしは違うって」ノーチはにやにや笑って言う。ユトは芝居がかった風に口元に手を持ってきて、
「またまたぁ~のーちさん、スズリさんが言ってましたよ。ノーチは小さい頃から高慢ちきでおてんばで力持ちな女の子だったって」
というと、さすがのノーチも慌てて「おい!それ嘘ばっかりじゃないか」とスズリのほうを振り返るそぶりをした。
今日は二人とも植物採取をする日だけど、もうユトは1人で高いところまで登れるようになっていたので最近はそれぞれ別の離れた場所で登るようになっていた。
ノーチは「ベルトのチェックは?」と聞き、ユトが「できてる!」と己のフックをガチャガチャ揺らすところを見ると満足そうに頷き、
「じゃあわたしはあっちの方で採ってるから。いいか、調子に乗ってあんまり上に行き過ぎるな」と念押しして別れた。ノーチはいつまでも心配性だ。
「もうわたし、昔みたいに背中から落っこちたりしないもの」
昔、少し走れるようになったからと調子に乗って背中から地面に墜落したことがある。二人が目を離している隙に、ユトは最近覚えた芸当を披露したくてたまらなくなり走って崖登りをして、途中で足が離れ、崖に捕まることもできず地面に落ちた。
あれは確かに怖かったけど、ちょっと面白かったなあと今になって思う。そのときは確かノーチが上で作業していて、約束を無視して駆けあがってきたユトを見つけるや否や怒涛の勢いで崖を駆け下り、案の定途中で落ちたユトの腕を寸でのところで掴み、また下ではろ過装置から出た汚泥からレンガを作っていたスズリが転がるようにしてノーチを抱きとめた。
スズリはユトを抱きとめた衝撃でユトの後頭部に鼻を強打し鼻血が出て、一緒に足も捻挫してしばらく歩けなくなった。初めて死の恐怖を感じてびっくりした上に、ノーチに大目玉を食らったユトはすっかり縮こまってしょげてしまい、「スズリ、ユトの下敷きにして、ごめんね。身体弱いのに、わたしのせいでけがしちゃって、ごめんね」と泣きながら謝ると硯は「いや!おれは身体弱くないから!」と憤慨したものだ。硯の呆れ笑いは、ノーチのいたずらっこのような笑みと同じくらいユトは好きだった。
そんなことを考えながら、ユトは安全ロープ沿いに所定の場所まであがり、黄色い目印の少し下あたりを陣取ると、崖にびっちりとしがみついているツタに指を引っ掛けてぼりぼりとツタをむしろはじめた。この蔦毟りは、先端の方からべりべり壁から引きはがしていくのが気持ちいい。しばらく集中して作業しているうちに、黄色い目印よりもっと上にさらに葉っぱが大きく繁ったツタの一群を見つけた。
「なんだ、もっと全然大きいのがあるじゃない」
黄色い目印より多少上の方にはなるが……ユトは安全ロープから命綱を外して、崖の凹凸に手をかけてもっと上へ上へと昇った。真下を見ると、見慣れた地面は細長く暗くみえたが怖くない。ユトは、ノーチは自分を少し見くびっているのだと常日頃抱いていた疑問を確信に変えつつあった。ノーチは確かに筋肉が凄くて、信じられないような滑らかな最小限の動きで崖をよじ登るけど、左足がちょっと悪いからその分わたしの力をも過小評価しているに違いない。
ユトは軽やかに上に駆けあがった。標高が高くなればなるほど、崖の表面は硬くてさらさらとした手触りに代わり、生えている植物も増えていく。アオサメ蔦は下の方でみる茶色っぽいものとは違って緑色で、蔦の両側に生え揃っている葉っぱは丸いのではなくギザギザと扇状に広がっている。芽農からしか買えないクロシダも、雨きくらげもニセトウヒも生えている。
なんだ、こんなところに生えているならここで採ればよかったのに。
ユトは下を見て、家の玄関に張り出した屋根と外の焚火がまだギリギリ見えることを確認してまた上を目指した。ここまできたら行けるところまで行ってみたい。なにより、ノーチの目を盗んで知らない場所に行く行為が楽しくてユトは夢中で登った。知らぬ間に太陽はすっかりのぼって、壁をよじ登り駆けあがるユトの姿を白く照らした。
「汗が出てきた……」
次第に背中が暑く感じるようになり、ユトは後ろを見上げた。
そうか、太陽の暑さか。太陽って長くあたると暑いのか。
このあたりはほぼ日の出から日の入りまで毎日日があたる階層だったので、湿り気のある地衣類に覆われた下層とはなにもかもが違う。下から吹き上げる風が涼しい。
少し疲れたし転落する前に帰ろうか、と思ったとき、上から砂のようなものが降ってきてユトは顔をそむけた。断層は表面の方がもろくなっていてたまに崩れることがあるから気を付けろと硯に言われている。ユトは目に土やごみが入らないよう、右手、右足、左足で壁に張り付いて左手で眉の上あたりに傘をつくって、上を見上げた。
人がいる。たぶん……黒い人影が4、5人くらい、ユトと同じように壁に張り付きながら下ってくる。ユトは驚き呆けた。断層で作業するときに、まさかトカゲやカエルやヘビや羊類以外の生き物を、それも自分たちと同じ人間を見たのは初めてだった。
ユトが驚くよりも早く、彼らは滑るような速さで下に降りてきて、一人がユトの斜め上の岩に足を乗せて着地した。ユトはびっくりしたまま固まって、その男と眼を合わせた。
男の右腕には耳がぐるぐるの動物の表象が描かれていて、口元には筒が二つついた妙なものを着けて、青緑の瞳を見開いていた。青緑……まるで瞳の中に"森"があるようだ。青緑とは、ろ過した後の汚泥を乾かして分別して植物の汁を加えたり加熱したり色々な工程を加えた後のゴミの中で見かけることがない、空より青く蔦の葉っぱより鮮やかな貴重な色だ。スズリはその小さな欠片をつまんで、「森がいちばん元気なときの色」と言ったし、ノーチは「深い洞窟に光が差したときにだけ見える、湖の色」と言った。
男は、自分から降りてきたくせに虚を突かれたような顔でユトを見ると、「バグ1、子どもだ!」と叫んだ。ユトはびくっと震えると、反射的に両足を壁から離した。落下しながら蔦にしがみつき、茎が細い蔦が、茎が太い親株の方まで剥がれながらふりこのように弧を描く。ふりこが一番下まできたら蔦から手を離して素手で降りていく……そのとき、なにか鋭利で重い衝撃が来て身体がびくんと震えた。
今、なにかが腕にバンッときた。左腕を見ると肉が抉れてみるみるうちに真っ赤になっていく。茫然とした。痛みはない。「ユト!!!そのまま落ちろ!!」下からノーチの怒号が聞こえて、ユトは呆けたまま蔦を握っていた右手を外し、落下した。
「ノーチ、あの、腕が」
「安全ロープの最上フックに繋がってる、落とすからね!」
ノーチに抱き留められた、と思ったとたんにまた落とされる。腕が今更思い出したように激しく痛んでユトは泣きだした。安全ロープ最上フックに……安全ロープ最上フックに繋がっているから……そこから下に降りて…。ノーチの言うことはわかった。でもユトは腹のベルトに繋がっているロープを無視して、鞄にひっかけていた杭を右手に持ち、両足をふんばって壁にへばりつこうとした。上手く杭を土に差すことができず、岩にぶつかって身体が弾み、顎と頭を打ちながらごろごろ転がったがなんとかしがみつく。安全ロープはまだ下だ。
上を仰ぐと、ちょうど黒い人影ひとつ背後を落下していくのが見えた。ノーチではない。ノーチは何人かを相手に、命綱なしで壁にはりついたまま戦っている。
「ノーチぃ……!!」
声が裏返った。ノーチが、なにかされる。あの人たちになにかされてしまう。青緑の瞳の男から反射的に逃げたときと同じ、雷のような直感が心臓を貫いた。
「ユト!逃げろって言っだろうが!!」
黒い影が舞っている。赤黒い水滴が頬に落ちる。
ユトは動かない左腕を垂らしたまま右腕と両足で崖を登った。遠くでパシュン、パシュンと音がして、次の瞬間腹と太ももに強い抉るような衝撃が走り、右手が凹みから滑り落ちた。




