はじまりの冷たい夜(4)
北賎。天壁以北に住む哀れな民。
そこに住む人々は獣のように毛深い肌を持ち、生肉を食い、犬のように四肢を土につけて山々を駆けるというが、少なくともノーチの皮膚は以南民と同じく細かい産毛が生えているだけでつるつるしている。背中を治すために服を脱がせたときに、碁式の女は絶対"生えっぱなし"にしないところにまでしっかり毛が生えていることを知り驚いたが、初めて見る栗色に輝く髪や体毛も気になって一つのことに驚いていられなかった。
硯が北賎の言語を知っているのは、第三言語枠として選択できる科目のうち一番試験が簡単だと言われていたのがこの『北土語』だったからだ。『北土語』は日常生活になんにも役に立たないが、科試を突破する為だけに勉強するなら楽な単元であると有名だった。それがまさか、本当に役に立つときがくるなんて――出奔してからというもの、思いもよらない生活が続いている。
どす黒い河から女をひきあげて、膨れ上がった水死体と思われたものが男と子どもだと気づいたとき、硯は急いで彼らをどこか雨のしのげるところに運んだ。水を含んでいるとはいえ、信じられないほど重かったので、力を振り絞りなんとか引きずって動かした。手当てしよう服を脱がせたとき、それが男ではなく女だと気づいた。
今まで女を持ち上げたことがないからわからないが、硯の兄の何倍も重かったと思う。足も腕も太く筋肉で膨れ上がっていて、灰色の毛皮に苔色の布を張り付けた見たことのない服を着こんでいた。女は背中の刺し傷から流血していただけでなく、背中が焼けたように腫れて足も骨折していてなんとか息をしている状態だった。子どもの方も、汚い水を吐き出し熱を出し、予断を許さない状況だった。
このまま子どもにだけ生き残られても困る。硯は左耳の石をまた一粒使った。河を渡ろうとしたとき使えなかった神術は、なぜか今度は使うことができた。
目覚めた女は、予想通り開口一番『北土語』を話した。
「しばらくここにいて、わたしを助けてはくれませんか」
ノーチにそう言われた時、やめてくれ!と叫んで頭を掻きむしりたくなった。
こんな人に頭を下げられては耐えられない。硯は地上にいたころよく音を聞いた。それは、これ以上なくなることがないと思っていた己の矜持が、ひとつ、またひとつと消える音だ。"消える音"がすることで、おれには矜持があったのかと気づく……そういう毎日を繰り返すのがいやだった。
死ぬ間際にもそんな惨めな思いをするのは耐えられないと思い、断ると、彼女は言った。
「わたしが上等な人間かどうか、あなたが下等な人間かどうか、それは今関係ない。わたしにはあなたの力が必要なんだ」
心が震える思いがした。幼い頃、はじめて神社で太陽神の像を見た時に感じた清澄な輝きが、彼女の全身から放たれているように感じた。どうしてこんな、いざ人生を投げ出そうと決心したときに、狙ったようにこんな人が現れるのか。
なぜ、わたしが父を殺す前に現れてくれなかったのか?
そうすればもしかしたら今も、わたしは、父を殺めたりせず、自暴自棄にならずに勤勉に慎ましい日々を送っていたかもしれないのに?
かっと熱く燃え上がる心臓と、そこからこみあげてくる湯気のようなものが硯の胸の中いっぱいに充満した。どうしてと叫ぶ声と、違うと否定する声が交互に耳をつんざく。このままではこの女に救われてしまうという焦燥がある。過去を忘れて楽になる、それだけは耐えられないが利用だけされるのも癪に思えて、ああいったいおれはどうしちまったんだ?入水の覚悟はできていたのに、今はたったこれだけの言葉で情けなく動揺している。父の頭を殴りつけたときに一度霧散したはずの鬱憤が、思い出したように湧き上がってきて硯は無性に腹立たしくなった。
だから、「何か欲しいものはないか」と聞かれてうっすらとした優越感に満たされた。なにを要求したら一番面白いか、下卑たことを一瞬脳内で考えた。
今がいい機会じゃないか?つんと白い頬をみせて境内を歩く、高慢ちきな美しい女たちをいつか屈服させて、どうしても夫婦になってくれないのかと泣かせてやりたいと思っていたのだし……ノーチは絶体絶命の危機にあるというのに、傲慢で、頼みごとをする姿勢というものが全く見受けられず、まさにその役にぴったりだ。
だがあのとき、薄暗いじめじめした洞穴の中でノーチの菫色の瞳を前にしたとき、どうしてもそんなことは口にできなかった。
こんな救いようのない人間が、都合よく現れた怪我人を助けることで己の魂の無聊を慰めるなどあってはならない。だが、子どもを助けたいという思いを無碍にして乱暴することも、かといって捨て置くことも、やはり硯にはできなかった。
ノーチは力強く美しく、高潔で、たまに傲慢な女だった。
互いにここに来るに至るまでの事情を詳細に話し合っていたところ、硯の話に対して呆れたようにこう言った。
「思うに、おまえは甘ったれている。例えば上官に"あれをしろ"と命じられたとき、"わたしは心が弱く、そのような大命を拝するだけの器はございません"などと言ってみろ。"そんなことはお前が決めるんじゃない、わたしが決めることだ"と叱られるのがオチだぞ。あのときわたしの頼みを断った時もそうだ、救われるのは恥などという理由ではなく、せめてもっとマシな理由で断れ」
「なんだと?人にものを頼む人間の、それが礼儀か。だいたい、おまえはおれの上官でもないし、命令された覚えもない」
「あれは例えだ。今は断り方の話をしている」
「断り方に注文をつけられたくないね」
硯とノーチは、たまに言い争いになった。言い争いになるほど硯の北土語が上達したということもあるが、こんなろくに日も差さない断層の陰で黙々と作業していては気が狂ってしまう。
「まま、まま」
硯の膝の上で、湿気たせんべいを口に入れたり出したりしていたユトはその欠片をノーチに手渡した。
「ユト、ママ違う。"ノーチ"」
ユトは硯の初動が良かったのか、命に係わる重大な後遺症は残らなかった。ただ、河に落ちた衝撃で肩を打っていたようで、左肩が少し上がりにくい。反して、ノーチは足の骨が曲がったかたちで治癒してしまい、熱が下がっても歩行に支障をきたした。
硯たちは、ひとまず最初に避難した小さな洞穴を住処として使うことにしたが、真水の調達と栄養のあるものを食べさせることが難しく、最初の課題になった。
真水については、当初濁った川の水を飲むために硯がろ過装置を作りそれを沸騰させてみたが、完成した水を飲んだノーチが三日三晩下痢が止まらなくなったので諦め、北側断層最下層を散策しているときに見つけた井戸から調達した。地縫いが作ったとおぼしきその井戸は使うために物々交換が必要で、ノーチを通訳に挟んでも苦労した。食べ物も、この辺りには木の根もないし、生えているのは僅かな苔やシダ類、蔦、カビ、キノコばかりで蛋白質の補給に困った。
そうこうしている間に約束の七日はすぐ過ぎた。ろくな食べ物がないことでノーチもユトも回復が遅れていたので、硯は方々を探し回りやっと地中で食料を売り歩く"地底の行商人"芽農の存在を知った。二人が回復してからも硯はその場に留まって、気づけば一年が経とうとしていた。
ある日の夜、洞穴の中で乾燥させた汚泥と少ない木材を燃やして、とりとめのない話をしながらユトを寝付かせていたおり、ノーチが聞いた。
「神術とはなんだ?」
硯は茣蓙をめくって、地面に石で簡単な図を描きながら説明した。
「神術とは、太陽神と大地の神から力を借りて使う術、またはその力そのもののことだ。まず、神術を使うための修行をすることで基礎的な術は使えるようになる。例えば、方角を知るとか、水脈を感知するとか、雨がいつ降るかを察知する……といった具合だ。予備試練を修めるとはじめて己の言霊を授かる。言霊は、生まれた時に誰しも持っている、その人間の神術のかたちだから、むやみに他人に教えてはいけないとされている」
ノーチの横顔が、ときおり橙色の光で揺らめいている。
「不思議な世界だ。生まれた時から持っているだなんて、まるで人の命にその力が組み込まれているようだな」
「そうだ。俺たちの国では、人は死んだら全ての命の本流に帰っていくとされている。それを輪廻転生と呼ぶ。新たに別のなにかの命としてこの世に生を受けるという意味だ」
ノーチはひたすら感心した様子で「ほお」「すごい」としきりに呟いた。
「わたしの国は違うよ。ってうか、わたしの国はそういう……宗教が幾つかあるんだ」
「宗教?」
「命の考え方のことさ。死んだら皆神の元に帰ると言う人もいれば、天国という死者の楽園があるとも言われている。悪いことをした人は地獄に行くとも。ただ、ジーマは帝国主義で、独裁政権みたいなところもあるから元帥が神みたいなものかな。死ぬ直前に祈られたりしないけど、最高権力を持っているし」
ノーチは、ジーマの軍の状況、国の成り立ちなどを話して聞かせた。硯とノーチは違うことばかりで、飯の食い方からうんこの仕方、婚姻のやり方、死に方などどんなに話しても話し足りない。
「不思議だな、わたしたち全く同じに見えるのに、全然違うようにも思える」
ノーチは、手持無沙汰に地面を弄っていた硯の手を突然掴んで、しげしげと眺めた。硯はむずむずと奇妙な気持ちになって、「やめろ」といつもの調子で振り払おうとした。でも、よく考えると敢えて振り払う必要もない気がする。
ノーチには大事な人がいる。ユトが子どもであるというだけでなく、ユトの親が大事な人だからノーチはユトを助けた。
硯はすこし切ない思いがして「同じに見えるかよ。おれなら断層の上から転げ落ちて無事では済まない」と言ってそっと手をひっこめた。
「言霊とは魂のかたちでもある。だからよく、言霊を知ればその人間のすべてがわかる、と言われている。どのように生きどのように死ぬかまで……」
「ほお。で?おまえの言霊は?」
「さっきの話を聞いてたか?この筋肉頭」
「別に、おまえとわたしの仲じゃないか」
ノーチはにへへ、と笑う。硯はため息をついた。
「言霊って、例えばどんなものがあるんだ?」
「おれが知っているのは、"消失"とか"隆盛"があったな。中には炎とか、現象を表すものもあるというが出会ったことはない」
「へえ。わたしがそっちの人間なら、なんていう言霊だったんだろう」
「"傲慢"とかじゃないか?」
「その力、どういうふうに使えるんだよ」
ノーチはひとしきり笑うと、すこし笑みを決して「嘘つきかな」と言った。
硯は沈黙をもって先を促した。
「わたしはこの子をちゃんと育てられるか不安なんだ。わたしの大事な人……一度は想いを交わした人、ディアナの子どもだからここまで頑張れたけど、これから大きくなっていくこの子をちゃんと一人の人間として育てられるか心配だ」
硯は頷きながらも首を傾げて、微妙な相槌をうった。ノーチの心配していることは、経験はないにしろ状況として理解できる。ただ、今の話がどういうふうに嘘つきに繋がるんだ?その疑問は口には出さなかった。
ノーチは咳払いして、腕を後ろについて背中を反り返りながら「そういえばおまえの親父さんのことだけど」と切り出した。
「本当に死んでいるのか?この前の話じゃ、殴ってすぐに家を出たんだろう」
「……死んでいなくとも、タダでは済まない。親に手をかけるなんて余程の理由でなきゃ……同じことさ」
「同じなものか。死んでいたら殺人だが、生きていれば傷害だ。罪の重さが違う」
硯はノーチを見た。菫色の透き通った瞳が焚火に照らされて緋色みがかって、相も変わらずまっすぐと硯を見ている。硯は力なく答えた。
「同じさ」
それから幾日後、硯はノーチが寝ている合間に洞穴を出た。そして、瘴気の立ち込める断層最下層南側から地下を通り五日間かけて碁式の国に入り、一年半以上逃げていた実家に戻った。
こっそり墓所に行くと、一家の墓に父の名前が刻まれていた。街の人間の話では、あの直後おれの殴打で頭を損傷した後もしばらく生きていたが、治療の為寝た切りになってから急速に老いてしまいそのまま足を悪くして死んだらしい。硯は重罪人として人相書きが出回っていたので長居はできず、実家の生垣きに咲いている梅の花だけ遠くから見て、また地下に潜った。
このあと、硯が碁式の国に戻ることは二度となかった。