はじまりの冷たい夜(3)
背中の痛みで目が覚めた。
むかし派兵先の山岳国境で隣国の兵士に槍で腹を突かれ重傷を負い、高熱にうなされ制止を彷徨ったことがある。ノーチは、今度はどこで怪我したっけ、と思いながら身体を起こした。
周囲を見渡すと、見慣れない小さな洞窟の床に外套を敷いて横になっていた。左手から差し込む明るい日差しが眩しくて目を背ける。吐息が熱い。頭が鈍く朦朧としていて、身体全体がなまりをつけたように重く、痛い。
ここはどこだろう、としばらくぼうっとしたあと、腹にあるはずのものがないことに気づいた。
「ユト……ユト、ユト――!!!」
我に返って大声を出すと、背中の傷に響いて酷く痛み、思わず目をつむって呻いた。
あのとき、上から男が走ってきてノーチの背中を鞄越しに何度も刺してロープを切り、蹴落とした。墜落する前、剣の鍔にロープをまいて断層に向かって投げたことで一瞬墜落が止まり、壁に張り付き逆棘杭を壁に差したが出血が激しく力が出せず、ロープを結んで下に降りている途中に杭が抜けた。なんとか最下層が見える位置まで素手で降りてきたが、河のようなものが流れているのを見たところで気を失ったのだ。
ノーチは最悪の事態が脳裏をよぎり絶望的な気持ちになった。今でさえ十分出血していてただでさえ貧血状態だったが、心臓のあたりから血が引いていく思いがした。
「……信じられんな。さすが北賎はつくりが違う」
人の声がして目を開けると、左手から男が何かを抱えて出てきた。
「ユト……?」
「子どもならここにいる。ほら………あーほら動くな、生きてるから」
男がノーチのそばに近寄ってユトを差し出す。ノーチは痛む身体を押して上体を起こしユトを受け取って、規則正しく息をして、目を覚ましてぐずる暖かな身体を抱きしめた。そうしてしばらく、涙を流しながらユトを抱きしめていた。
「すこし……背中が痛い」
そう呟いた途端、いきなり胃が痙攣し強烈に気持ち悪くなって床に吐いた。咄嗟にユトを避けることはできたが、今更高熱を出していることを思い出し「よこせ」と言われて素直にユトを預けた。
「背中を何度も刺されていたから当然だ。河の水から傷口に菌が入ったのか、水を飲んだのか……足も腕も骨折しているし、熱もあるし、いくら生きているからってまだ油断ならない状況だ。今は寝たほうがいい」
男の言葉はその通りだったし、ノーチもここが病室だったら気絶するように眠りについたはずだ。だが、ノーチは洞窟の壁に背中をつけて、荒々しく息をしながら首を垂れた。
「助けて頂いて、ありがとうございます。感謝してもしきれません……わたしの思い上がりと目論見の甘さで、あやうくこの子を殺すところでした。本当に、なんとお礼を言っていいか……」
男はノーチの気迫にうろたえたように「ああ、まあ」と言ってノーチの頭から足の方までをじろじろ見た。
男は、ノーチがまだ会ったことのない独特な容姿をしていた。見たことのない光沢をもった紺色の長い詰襟羽織に、黒っぽい下履きと綺麗に編まれた靴だけでも十分斬新だったが、なにより目を引くのはその髪だ。男の髪は、年嵩の人間がなる白髪まじりの髪にも、東の国に多い黒髪にも似ていたが、明るいところをよく見るとわずかに青みがかっていることがわかる。満点の夜空のような髪をもつ人間は、ノーチの国では見たことがない。
ただ、異国の男であることを鑑みても、彼の顔色はあまりよくなかった。男ののっぺりした黒い瞳は落ち窪み、頬骨が下がり、晴れない顔をしている。断層以南の人間がもともとそういう顔つきなのだろうか。
如何にせよ、彼がどんな見た目であろうと、わたしとユトの命を助けたのは揺るがぬ事実だ。それだけで、ノーチには十分だ。
「わたしはノーチ・ヤシモフ、ジーマ帝国の元軍人です。この子はユト。あなたはなんと仰るのですか?」
「おれは硯……、今英硯だ」
男の黒い瞳が揺れ、ちらりと左下の方を見た。
「スズリ、このご恩は決して忘れません」
スズリはなおも晴れない表情で、それどころかノーチの感謝のことばを聞くと余計に眉をひそめた。
「それで……おまえ、一体なんであんなところを流れていた?しかも子連れで……こんな最底辺を」
「最底辺?」
ノーチは聞き返した。
「ここは天壁の最下部だ。正確には最下部から少しあがったところになるが、殆ど最下部といっていい。文字通り、世界の最底辺さ」
「天壁?」
「世界の亀裂のことだよ。ああ……呼び方が違うのか、そっちではなんていうんだ?」
「わたしの国、ジーマでは中央断層と呼びます」
それから、ここの洞窟の周囲の状況や己が何日眠っていたのか、といったことを聞いたりした。スズリの言葉はたまにジーマの隣国の単語が混ざったり、発音が怪しく聞き取りにくかったりして、話を聞けば聞くほど、この男が断層以南からやってきた異人であることは疑いようがない。
そういえば、この男はなぜこんなところに居るのだろう。スズリも誤って落ちてしまったのか?それを聞こうとしたとき、一手早くスズリが口を開いた。
「あんた……これからどうするんだ?上に戻るのか?まあ、おれには関係のない話だが」
「上には戻れない」
ノーチは俯いた。
「わたしは上から落ちてきました。本当は断層をロープで釣りながら降りようとしましたが、途中でロープを切られ、蹴落とされ……背中を刺されたのは、この子を殺そうとした男が勘違いして荷物を刺したためです。わたしはこの子を腹に抱いていたので」
「落ちてきたって……刺されたって……」スズリは狼狽え、呆れた。「なんでそれで生きてんだ。あの高さから、不死身か?」
「それはあなたが助けてくれたからですよ」
ノーチはスズリの眼をはっきりと見て、言った。
「いや、そうじゃなくて……」
「お願いします、スズリ」
スズリの表情が、いよいよ歪んだ。ノーチは構わず、強い口調で心を込めて訴えた。
「ここからどう生きていくにしろ、この子には食べ物が必要です。わたしはまだこの傷だし、体調も戻らないので、ここから不眠不休で地上に戻ることは叶わない。しばらくここにいて我々を助けてはくれませんか」
「……それはできない」
「なぜ?」
彼の、妙に晴れない表情の理由がまさにそれらしい。今まで、かなり訛りの強い言葉をそれでも淀みなく話していたスズリがそこでしんと黙り込み、口を開けたり閉じたりした。
「おれは……あんたにそんな風に助けを乞われるような人間じゃないからだ。おれは……おれは……父親を殺してきた」
その瞬間ふっとスズリの顔から表情が抜け落ちた。少し蒼白な肌に、ただ見開いた黒い瞳がふたつ並んでいるだけの、生き物とは思えないような表情でスズリは話した。
「おれは最低で、救いようのないどうしようもない人間だ。救いようのないというのは、つまり、おれは善くなろうという気がないんだ。善くなろうと思うことに疲れてしまった……勿論言い訳にはならない……だから……………だから、あなたのように、命を呈して子どもを守ろうとするような軍人に、頼まれるような上等な人間ではないのです。あなたを助けたら、わたしは己を少しでもマシな人間だと思ってしまう。しかしわたしが生きる価値のない恥ずべき人間だということは間違いないことだ、だからやめてください」
スズリは、ここがまるで告解部屋であるような勢いで声を悲壮に滲ませて言った。
なるほど、事故でもなければこれだけの高等な医療技術を持つ人間がこのような場所にいるはずがないと思っていたが、訳ありか。ノーチは床に横たわるユトを見た。
もし今のわたしが無傷だったら、仮にユトを抱いていたとしてもこの貧弱な男に負けることはないだろう。だが今はこんな這う這うの体で、更にこの男が彼のいう通り"善くなろうという気がない"本物の悪人だったら……ユトを守り切れる自信がない。それに、スズリはあの以南民だ。奇妙な力を使って人を操り、人知を超えた技を使われたらノーチにはどうしようもない。
しかし仮に、この男の言っていることが本当だとして……これが演技でないとして……。ノーチはしばし強い口調でこう言った。
「わたしが上等な人間かどうか、あなたが下等な人間かどうか、それは今関係ない。わたしにはあなたの力が必要なんだ」
「なぜ、なぜそんなことを言う?」スズリは反発した。「なぜ殺したのか、聞かないのか?」
「他人の家の事情など、説明されたところで理解るものでもない」
ノーチは、瞼を伏せた。スズリは納得できないという風にぶつぶつと「お前の魂胆はわかってる」とか「おれを利用するために、聞き分けのいいふりをしているんだろう」とか不満げに呟いている。ノーチはあちこち痛む熱っぽい身体を動かして前のめりになり、スズリにもう一度強く訴えた。
「わたしはどうしてもこの子を生かさなければならない。この子は……わたしの大事な人の子で、絶対助けると約束したんだ……どうしても……何に代えても……。頼む、わたしは傷が癒えるのが早いから、七日もあれば十分だ」
「やめてくれ。おれにはできない、できないんだ」
「対価は?なにか、欲しいものはないか?国には帰れぬ身だが、できる限りのことをする」
構わず畳みかけると、スズリは黙り込み、そして突然はらはらと泣き出した。
ノーチはぎょっとして口をあけたままポカンとした。しばらくスズリは、胡坐をかいた膝の上に肘をのせて顔を覆ったまま泣いていて、そばで寝かされているユトの吐息だけが洞の中で聞こえていた。
「ふざけた女だ、全く。こんな状況でなにができる?……ああ、もう、いい。その子どもを助けたところで、父を殺した罪が贖えるわけじゃないということはわかってる。でも、どうせ死ぬ命、最期に人助けをしようと誤差だろう」
「死ぬ?なにか病気なのか?」
「いや……元々、死地を探してここまで来た」
スズリは洞窟の外を見た。先程まではそれでも明るかった灰色の大地が、今は対岸の影が落ちてあっという間に薄暗い。
「ノーチ。あなたの傷が癒えるまで、その子どももろとも生き永らえることができるよう尽くそう。だから今は寝て傷をいやしてくれ。おれは慣れない子どもの看病で手いっぱいだ」
「ああ……スズリ、ありがとう。ありがとう」
ノーチはもう一度「ありがとう」と言うと途端に気絶するように目を瞑った。意識を失う前に見た、ふわふわと拠り所のない男の表情が気になった。
その後二度目を覚ました。三度目に目を覚ました時には、傷は痛むものの熱は下がり、ある程度出歩けるようになっていた。