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中央断層  作者: 白森錆
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はじまりの冷たい夜(2)

「別におれはなりたくてこうなってんじゃない。本当はこんな人間じゃない。おれはずっと努力してきた、そこらへんにいる怠惰な連中が考えられないほどずっと努力して来たんだ」

 日の当たる大通りの真下、日陰者がたむろする地下街の一角で男が酒を煽っていた。男は、睫毛に縁どられた黒い瞳をかこむ白目に血管が浮き出て、紺色の髪は微妙に無造作にのびて、身の回りのことに頓着できない余裕のなさが現れている。目元や肌にはまだハリがあり、よく見ればまだ年の若い二十代の若者であることがわかるだろうが、顎の無精ひげと下がった頬が彼を年齢不詳のゴロツキに見せていた。

 震える指でつまんだお猪口を何度も煽りながら、男は時折ちらちらと人目を気にしてブルッと震えた。

「似たような話を五万回くらい聞いたよ」

「本当なんだよ……本当におれは、頑張ってきたんだ。あれはさあ…あれは、運が悪かっただけなんだ」

「見苦しいなあおめえは。まあ、自分に正直なのはいいことだがね」

「お前などにはわかるまい、おれの苦労が……辛さが……ここの連中などには」

 コの字がたの客席を挟んで三角形のおでんを煮込みながら、壮年の店主がため息をつく。酒を煽る男は上級術師(神術の上級過程を修めた者が与えられる職級)を示す”紺羽織り”を着ていたが、頬骨に差す朱の染め抜きもなく、羽織に使われる紫蔦の光沢のある繊維も土埃で汚れて擦り切れていたので誰もそれに気づかないほどだった。

「おい、黄酒をもう一本」

「金はあるんだろうな?」

 店主は強い口調で聞きながら、水を満たした桶から徳利を出した。硯は「いざとなったら言霊を売るさ」と言って耳飾りを触った。


 

「墨も筆も皆立派に役目を務め、三つ下の文も碁法院で頭角を現しているというのにお前はいつまで経ってもぱっとしない。広い世界に出ていこうとせず、すぐに弱音を吐くから良くないのです。お前も父上に認められたいでしょう?お父上は見ていますよ、あなたの努力もあなたの怠惰も」

 男、今英硯こんえい・すずりの実家はこのあたりではそこそこの名家で、五人きょうだいの三男として二十余年を生きてきた。男は父に認められたくて、母に褒められたくて、他のきょうだいと同じように努力したし、夢もあったし、その為に修行と勉学を頑張った。だが、人と競争することに心が砕けてしまい、貶されたりひとより劣ることを恐れ、いつしか勝てる相手しか選ばなくなった。

 代々医療職に就く家系だったが何度も試験に落ち、夢も叶わず、希望した職にもつけなかった。勝てる相手を選び続けたせいで、何者にも精通しない中途半端な技術だけが手に残った。なまじ実家に金とツテがあり高等教育を受ける機会に恵まれたため、"あれだけの名家にありながら"と陰口もたたかれた。なにより、貧乏ながらに大成した人の輝かしい物語を聞くたびに、己の心が己を情けない奴めと叱咤した。

 硯の自室は黄土色の土壁と木材で囲われた四畳一間の小さな書院(書院とよぶのは憚られる規模であるが)だ。まだ学生だった頃の硯は、障子灯りをつけない真っ暗な部屋の中で、窓から差し込む月の光だけをたよりにぼんやりするのが癖だった。硯は陶器を鑑賞するのが好きで、よく陶器の花瓶に梅の花をさして土壁のそばにおく。空色を指し色にした灰色の陶器に、黄土色の土壁が似合うと硯は思っていた。

 それを肴にじっと耳を澄ませていると、神職の仕事を終えた父が土間に腰を下ろす音が聞こえる。

「あいつはダメだな。だがどんな作物にも枯れる花がある、特別なことではない」

 硯が、黄色い土壁の亀裂から父親の話を漏れ聞いていたことに母は気づいていたらしい。母は"尊敬すべき"父上に見捨てられつつあった硯を勇気づけようとしたのか、はたまた硯の未来を真に考えての行為か不明だが、湯浴みの最中猛烈な勢いで押しかけてこう言った。

”巫女に好かれることも、仕事で一旗あげることもすべてではないわよね。神属近衛兵になる手もあります。気を落とさないで”

 母は成人した息子の全裸を前に精一杯の笑みを浮かべて、硯の股間をしげしげ眺めながら言った。

 神属近衛兵とは、天壁を守護するカイチの社にて祠と鳥居を守る神のしもべだ。そこに勤める者は、決して家庭を持たず、異性と通じず、情報漏洩防止のため舌を抜き、全ての煩悩を捨てこの命を神にささげることを誓った者たちである。女ならば割礼し不妊薬を飲み、男は宦官であることが条件となる。

 本来なら、神術碁法院で優秀な成績を収めた術師がその輝かしい未来を捨ててまで拝命する栄誉ある役職であり、決しておれのように、嫁を迎えることも仕事で大成することもできない人間が消去法で選ぶ仕事ではない。ただ栄誉を、栄誉だけを家に寄与するためにその職を選ぶことのなんとさもしいことか………硯はそのことがよく理解できていた。母の空虚な笑顔と父の無関心、そしてなにより己の不出来に心が千々に乱れた。

 ある夜、酒に酔って帰った硯は暗い自室に戻り、いつもの癖で灯りをともさずぼうっと座り込んだ。月明りがいい塩梅に差し込んでいたが、生憎その日は花瓶になにも挿していなかった。

 そして、硯はからっぽの花瓶を持って部屋を出て、玄関で靴を脱ごうと屈んでいた父の頭に思い切り振り下ろした。



 どうやらかなり酔っぱらっていたらしい。

 気づくと、なじみのおでん屋ではなく見知らぬ地下の道端に座り込んでいた。あのおでん屋からどれだけ離れた場所かもわからぬし、そもそも地下街とはとても呼べないほど店がない。もはやただ灯りのともる洞窟だ。

 硯はよろよろと壁を伝って起き上がり、あてもなく歩きながら”父は死んだだろうか”と考えた。もし死んでいたら、おれは親殺しの殺人犯……どう解釈したって、親殺しが許されるはずがない。もう終わりだ。いや、おれはもうとっくの昔に終わっていてそれが確定しただけか。

 硯はもうすっかり酔いがさめていたが、冷静な頭に戻っている現実を認めたくなくてなおもよろよろと気が触れたふりをして歩みを進めた。しかし本当にここはどこなんだ?

「もし。其方のかた、そっちはもう天壁ですよ」

 びくっと肩がとびあがった。硯はきょろきょろ首を回し、その声が足元から響いていることに気が付いた。

 道の片端に掘られた側溝の、上に敷き詰められた四角い岩の隙間から声がする。硯は、「おい、なんだってそんなところにいる?」と聞き返した。

「ここも道なんですよ。まあかなり、ときどき、湿りますが」

 あの狭い側溝に小人が潜んでいるわけではないらしいと分かって硯はすこしほっとした。どうやら、この道の斜め下にもう一つ道があり、その小窓から誰かが声をかけているようだ。

「ああ……えーっと、さっきなんて仰いました?」

「その先は天壁です。行き止まりです、もし上を目指しているなら引き返して、二番目の曲がり角で左にあがると良い」

 天壁……もうそんなに北に来ていたのか、と思った。この際天壁から身を投げるのも一興、とふと思ったが少しだけ天壁をじっくり近くで見てみたい気持ちも湧き出た。

「そうですか。ご丁寧に助言頂き申し訳ないのですが、自分はもっと下を目指しているので」

 考えてもいないことがすらすら口から出る。硯は、いや、これが自分の今の道行きかもしれないと思った。酒からは冷めたが、自己陶酔にはまだどっぷり浸っていた。

「下へ……ならばその先の曲がり角を右にいくと下へ続く細い穴があります。下っていくとそのうち地縫いに会うだろうから、まず蓋布を買いなさい。これより地下は天壁より立ち昇る瘴気で呼吸もままならぬ」

「地縫いとは?」

「地下に穴を掘って暮らす民です。"蟻の巣"も彼らが掘った痕ですよ……彼らはろくに喋れないし、不気味だし、あまり関わらないほうがいい」

「はあ、ご丁寧にどうも……」

 硯は側溝に向かって頭をさげ、ふたたび歩き出し、はっとなって足を止めた。

「あなたは……」

 どなたですか、と聞こうとしてやめた。聞いてどうなるというわけでもないし、そもそもこんな最北地下深くのそれも側溝の中にいるような人間、どうせろくなやつではない。地縫いなんて初めてきいた言葉だし、蓋布ってなんだ?瘴気とは?なぜそんなことを知っている。

 まあおれはどうなったって構いやしないんだ。どうなったって。

 硯は細い穴の中へ歩みを進め、ただ、下へ下った。



 "側溝の小人"の言葉通り、下へ進んでいくと比較的大きな竪穴に出て、そこから真下へ続く昇降機を見つけた。昇降機は神術を動力源としているようで、上にも下にも穴が開いていてどうなっているのか暗くて見えない。。

 昇降機を支える太い鎖には巨大な滑車と上に伸びる穴が開いており、そのそばに光が点々としていた。階段があったのでそこをくぐって昇ると、小さな備え付きの小屋が壁にめり込んでおり、婆と男が中から出てきた。

 こんなところに店を出すということは、この昇降機にそれだけ利用者がいるということだ。きっとろくでもない奴らに違いないと硯は思った。あの、大通りの真下の地下街の片隅で、おでん屋にくだを巻いていた自分なんかはただ落伍者を真似ていただけのへそ曲がりだったのだ。ここから下に進むことが少し恐ろしくも思ったが、手持ちの食糧と水も尽きていたので水と饅頭とせんべいを買った。元々持っていた水筒に水を入れてもらい、更に一袋の水を鞄に入れて硯は昇降機で下に降りた。

 竪穴は地下から地上に向かう風が吹いていて少し蒸し暑く、下から上にむかってたまに灯りが通り過ぎていく。

 このような地下に人が生活していたことが驚きだ。そもそも、あれもこれもカイチの社の取り仕切る十戒に反するのではないのか?

 昇降機はしばらくして止まり、そこからは幾つか横穴が分岐している。硯は神術を使って方位を探り、北へ伸びる横穴を選びさらに下へ降りた。

 途中、謎の襤褸を纏った集団に出会った。彼らはろくに言葉を喋らず、恐ろしいほどに汚くて、糞便とカビと土としょっぱい匂いが混ざり合った強烈なにおいを発していた。きっとこいつらが"側溝の小人"が言っていた"地縫い"だな、と思いながら、硯は興味本位で「蓋布を売ってくれ」と言った。

 集団の中から、女か男か老人か若者かもわからぬ一人が進み出て、荷物の中から一枚の布を出して硯に突き出し、もう片方の手を開いておなじように突き出した。硯は小銭を出したが、「チガウ」とそいつは言った。

「ちがう?何を対価に払えばいい」

 それは泥まみれの人差し指で硯の左耳を指した。

「本気か?そんな一枚の布ごときを……だいたい、これがなんだか分かってるのか?」

 "それ"は尚も左耳を指して「対価」と言った。

 チッ、目ざといな。硯はヤケクソになって左耳の石を一粒取って、「一番下のやつでいいな?」と言ってその汚らしい掌の上にのせた。"それ"は一枚の布を硯に押し付けると、集団の中に戻り無言でもぞもぞとどこかに消えていった。

 布は、一見ただの灰色の木綿だが光にかざすと俄かにきらきらと光って、桃色だとか、水色だとか、石英のような光沢をみせる。両手に乗せた肌ざわりも、柔らかいような気もするし樹木をはがしたときのような硬い感触もする。不思議な布だ。

 しかし……布を貰ったはいいが、これをどう使うか聞いていない。硯は布を人差し指と親指でつまみながら更に洞窟を下った。だいたい、見るからに臭そうだ。硯は布に鼻を近づけたが、あの集団のまき散らしていった匂いが強烈で鼻が鈍っていたため、布の匂いがいまいちよく分からない。

 酔いつぶれて、思いつくままに天壁を目指してから、もう何日経ったことだろう。

「ああ、今更後悔してきた」

 硯はため息をつき、布を荷物の中に押し込んだ。

 後悔が嫌だった。後悔したくないと思って、己の選択を後悔していないふりをして、他人からの評価に平気な顔して生きてきた。

 だが………それでも………もう…………。


 

 周囲の土の層が明らかに変わってきて、黒いチカチカした鉱物と茶色いボロボロしたものに囲まれ始めたころ、鈍くゴロゴロという音が聞こえはじめた。遠い山間の落雷を、家の障子窓から聴く夕暗がりのようなそんな音だ。

 硯は蓋布の上から口を押えた。使い道がわからないなどと考えてから半日も経つと、これ以上足を進めることができないような強烈な匂いがして思わず鼻と口に巻き付けたのだ。上級術師のはしくれとして、硯はある程度の清濁を感じ取ることができる。矢も楯もたまらず適当に巻き付けたが、ふしぎとこの布越しに吸い込む空気は匂わない。

 次第に洞窟の息が詰まるような蒸し暑い空気に、冷たい新鮮な風が流れ込み、硯は思わず駆け足で風を追った。途中で獣の住処らしきところも通り過ぎ、岩と岩の隙間に人工的につくられた木材の出口が見え、ついに外に出た。

 外は夜で、雨が降っていた。思わず駆け足で躍り出てると下の方に河が見えた。川幅は広く、河口付近を流れているようなゆったりとした大河だ。硯が立っているのはそこから少し上がった場所にある河川敷のような台地で、靴が地面にめり込みそうになるほど粘土質だ。思わず上を仰ぎ見たが、雨の降る夜には空を東西に走る天壁の裂け目を明瞭に見ることはできず、しかしこれ以上下があるとも思えないのでここが最下層でほぼ間違いない。

 硯は蛇行する河のそばをなんとなく東に向けて歩き出した。天壁最下層は想像していたものとは少し違って、河の河口のような平坦で巨大な大河もあればでこぼこと大きな岩が重なり合った小高い山のようなところもあった。長い時間をかけて地表付近の壁が削れ、崩れ落ち、風化した痕だろう。しばらくすると水たまりが細くなり、向こう岸に渡れるようになったので神術を使って土を埋めて足場を作ろうとした。しかしなぜか使うことができず、よろけて河の中に落ちた。

 雨のせいで匂いは多少マシではあるが、どう見ても清らかではない水の中に頭から沈み込んではたまったものではない。硯は我武者羅に泳いでなんとか岸にのりあげ、岩の上で座り込みながらぼんやり河を見つめた。

 一体なにをしているんだろう。せっかく足を滑らせたのだから死ねばよかったのに。

 ああそうだ。もう、十分だ。あんなことをしては生きてはおれない。ここで死ぬしかない。ここで死ねば、おれはもうあの月明かりの下で梅の花を眺める必要もない。

 もう一度、濁った河の中に足を踏み入れようとしたそのとき左側からぷかぷか流れてくる白いものをみつけた。

 驚いた。人だ。

 腹が空気で膨れているからきっと水死体だろう、もう生きてはいまい。

 そのとき、砂利をかきまぜるような縦横無尽の雨音の隙間から声が聞こえた。硯は慌てて顔に叩きつける雨をぬぐって目を凝らした。

 子どもの声だった。

 

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