はじまりの冷たい夜(1)
土砂降りの雨の夜だった。
一人の女が、頭から足先まですっぽり覆うような灰色の合羽を着て、背中には革袋と刀を背負って地下の用水路を走っていた。深くかぶったフードの下では、後頭部で結った栗色の髪は雨で顔に張り付き、ぴりりとした緊張感を湛えた菫色の瞳がせわしなく周囲を伺っている。彼女のいるそこは中央断層の傍に建てられた監獄の地下であり、冷たい雨水がそこらじゅうから流れ込み、排水の勢いは普段にも増して激しく流れている。
ジーマ帝国に面した中央断層ではよく囚人が死刑になる。断層南壁に向けて十分に伸びた死刑台に囚人を立たせ、後ろから突き落とすのがジーマの伝統的死刑方法だ。しかしつい数年前のある強風の日、突き落とされた囚人が奈落の底に落ちる前に風に煽られ岩壁にたたきつけられ、”足場杭”が深々と胸に刺さったまま一週間も死体がさらし者にされたことがあった。それ以来、死刑台に大掛かりな改築が行われ十分に断層中央に伸びた先端から突き落とされるようになったが、最も、中央断層の黒々とした陰の中に落ちてから生きて帰ってきた者は有史以来一人もいない。
女は時折方位磁石を確認し、網目のように掘られた暗い地下通路を右へ、左へと進んだ。一つの灯りもともさずに、ただ己の夜目と耳だけを頼りに先に進んだ。滲んだ雨水を踏みしめて、時折パシャパシャと足音が響く。
しばらくそうして走ってると、上に向かって伸びるはしごを見つけて立ち止まった。辺りを見渡して梯子に手をかけ、地下水路から地上に向かって伸びる穴をよじ登ると岩で塞がれた出口の手前で耳を澄ませる。
「西棟へ向かえ!」
鈍くリズミカルな雨音の中でかすかに軍人の声がするが、壁一枚隔てた外にいるようだ。女はじめじめした石造りの壁からそっと一つ分の四角い石を引き抜いて辺りを見渡した。
「どうすりゃいいんだ?俺たちも中央に加勢した方がいいのか?」
看守の声がする。女はもう一つ、慎重に石を外して足元に起き、首をぐっとつっこんだ。石の一つ一つが黄色いランプで照らされた通路の奥から物音がするが、こちらに近づいている様子はない。
「ほっとけほっとけ……どっちが勝つかもわからんうちはな。余計なことをして、お前が房に入ることになってもしらんぞ」
「まあ、そうだな……万が一猿羊勢が勝つことになったらどえらいことだ」
「それよか、お前鼻で吸うヤニを知っているか?」
「鼻でえ?」
「そうだ。いい気分にもなれて、鼻炎もなおると噂だぞ?」
女はぐっと歯を食いしばって素早くあと二つの石を取り外し、まず背負っていた革袋とさやに入れた刀を通路に出して、次に合羽の首元から服の中を覗き込み「大丈夫?静かにね……」と話しかけ、仰向けになってしなやかな身体さばきで通路に出た。女は荷物を背負いなおすと、壁際に身体を寄せて看守たちの声とは反対方向に向かってまた走った。
ここより南側には、死刑になる囚人とその看守のみが通される贖罪の道がある。今クーデターで慌ただしい軍部と看守たちは、死刑予定もないのにそんなところに人がいるとは思うまい。
女はそれを狙っていた。女の向かう先は中央断層だった。
"贖罪の道"へさしかかる十字路まで来たとき、右手通路から物音がして素早く短剣を構えた。
「ああ……ディアナ!」
そこには、ぐったりと衰弱した女――ディアナが壁にもたれかかるようにして立っていた。
「ノーチ……」
ノーチと呼ばれた女はディアナに駆け寄って震える両手で痩せた身体を受け止めた。ディアナの、嘗て秋の小麦畑のように輝いていた髪は泥と血で濡れて、凛々しい目元は落ち窪み、唇の端は切れてなにかよだれのようなものが垂れている。士官学校で出会ってから十年、共にしのぎを削って研鑽を重ね、馬で雪山をかけたときのたくましい彼女の身体についていた筋肉も、脂肪も、右手の中指と薬指も、今はなくなって見る影もない。
ただひとつ目だけが、彼女の力強く誇り高い瞳だけが今もじっと据わって此方を見ている。
「そんな、ああ、こんな……ディアナ、」
ノーチの、菫色の瞳に涙が浮かんだ。心臓が引き絞られるような心地がして、恐怖が腹の底から湧き上がる。ディアナの冷たい腕を取り、囚人服をめくると肘の裏に点々と赤黒い注射痕があった。ノーチは、これがディアナとの最後の会話になるだろうということが分かって涙を流した。
「ノーチ、なぜこんなところに」
ノーチは合羽の合わせを解いた。ディアナの眼が、あっ、と大きく見開いた。
ノーチの身体の前面には、おんぶ紐に括り付けたまだ1歳前後の子どもがじっとしがみついていた。ディアナは、鋼のように硬く張りつめていた瞳を緩ませて「ユト……」と泣いた。
「どういうつもりだ、ノーチ……」ディアナはユトとノーチを見比べて「まさか」と呟く。
「なぜこんなことを?無理だ、どうやって……そもそもお前までこんな危険を冒す必要はないのに」
「だめだディアナ、どんな理由であっても子どもが殺されることはあってはならない。わたしに任せて、必ず連れて逃げるから」
「どうやって?この先は中央断層しか」
「そうだ、そこから降りる」
ディアナは狼狽してまだ何か言おうと息を吸い込んだが、血を吐くような咳をしてぐったりと壁に頭をつけて目を瞑った。度重なる薬物投与と激しい尋問が、彼女の体力を奪っていた。
どこかで水音がしてノーチは後ろを振り返り、慎重に辺りを見渡す。
「ノーチ……わたしは覚悟ができてるんだ。夫を殺されわが身が投獄された瞬間から、この子もろとも命を捧げる覚悟が。例え国賊と罵られようと、魂まで傷つけられはしない」
ディアナは最後の最後まで”らしい”ことを言ったが、ノーチは、その言葉が自身のための言葉なのではないかと思った。ディアナは、ノーチの好きなディアナがどういうディアナなのかを分かっている。だからこんなことを言うんじゃないのか?
「ディアナ……そんなこと言わないで。痛いだろう、苦しいだろう……本当は、この子と生きたかったろう」
ノーチは、ディアナの身体を抱き寄せて、彼女が痛くないように力を抑えながら抱きしめた。ディアナは腕の中で一度ぶるりと震えて、しばらくじっと動かない。
「この子をきっと守ってみせるから。逃げて、二人で生きるから……だから」
「お前はあんなに強いのに、どこまでも帝国軍人に向かないな」
腕の中でディアナが静かに呟く。ディアナはノーチの胸で静かにじっとしている子どもの顔を見つめて、まだ髪が生えそろわない頭を撫でた。その瞬間、今の今まで静かに寝ていたユトが火のついたように泣き出した。
「ああユト、しぃ、しぃー………」
そういえば、ユトはまだ一歳六か月なのに、ノーチの逃走中驚くほど静かで、走っても仰向けになっても泣き声をあげなかった。たまに泣き出しそうになっても、ノーチが「よしよし」と言うだけで静まり返った。何か特別な病気か、それとも口が効けない子どもなのではないかと疑うほどユトは不気味な子どもだったが、この緊迫した状況はユトに対する疑惑を相対的に小さく見せていた。
「ユト……許してくれ。わかってる、わたしは母親失格だ。自分の誇りを証明するために、お前の命を尊ぶことができない人間なのだ」
ディアナは喉を震わせて涙をはらはらと長し、ユトの頭を掻き抱いた。ノーチはディアナにユトを抱かせてやりたかったが、どんなに走っても絶対に落ちないように強く複雑に結び付けた紐をほどくのはあまりに危険だ。
ディアナはノーチを見上げて、まるで満点の星空を見るような光を湛えて言った。
「もし、逃げ延びることができたら、ユトはお前の娘として育ててくれ」
「なにをいう。この子はあなたの子じゃないか……」
「すまない、こんな役目を背負わせてしまって」
ディアナが震える手でユトの頬を撫でた。もう一度、今度ははっきりと水たまりを跳ね上げる音が聞こえてノーチははっと身体を引きはがした。
「ディアナ!愛してる、ずっと……ずっと」
最後に見たディアナは薄く目を開けて僅かにほほ笑んでいた。
「さよなら、ノーチ。我が親愛なる友」
ノーチは走り出した。親友の冷たい肌の感覚が残る指を握りしめて、雨の降りしきる贖罪の道をひたすら走った。
中央断層付近に好き好んで近づきたい人間はおらず、滑落の危険があるため民間人の立ち入りは禁止されているのでこの南部監獄と軍の監視棟以外に建物はない。ノーチは合羽のフードを被って贖罪の道をひた走り、処刑施設の脇をくぐって、今は無人の看守詰所の窓から外に出た。
「ユト、シィー……シシシ…」
しかしやっと軍人に見つからずにここまでこれたというのに、ユトがぐずり始めている。今までずっと大人しかったのに、母親を見て緊張が切れてしまったのだろうか?ここで見つかるのが一番まずいというのに……ノーチは高鳴る心臓を抑えて、監視塔でゆらめく炎に異変はないか、誰か追いかけてきてはいないか、目を凝らし耳を澄ませながら走った。
中央断層の真ん中の方に伸びた死刑台は、北壁から伸びた木造の骨組みによって支えられている。骨組みは横から見ると三角形のようになっていて、一番下の断層から伸びた二つの丸太の更に下の岩壁に、足場用の杭が突き出ているが見える。
「アァアアー……アァアー……」
「ユト、お願いだから泣き止んで。見つかっちゃうから……ユト、シィーだよ。シィー……」
ノーチはユトを泣き止ませようとしたが、それよりとにかく先に降りた方がいいと判断し、詰所の壁から骨組みに移動し、木にしがみつき、滑り、飛び降りて下に下っていく。雨で濡れた木材は滑り、顔にしたたかに打ち付けて視界も悪かったが、ユトの鳴き声を誤魔化してくれていることだけが幸いだ。
軍隊で培った筋肉だけを頼りに最下層まで降り、下を見下ろすと壁に点々と杭が打ち込んであるのが見える。杭は監視部隊が断層を下るときに使うというが、驚いたことに金属でできているらしく、Uの字に曲がって壁の中に深くめり込んでいる。ノーチは荷物の中からロープを取り出し、予めハーネスにつけていた金具に二回くぐらせて、先端を壁に打ち込んである杭にくぐらせてもう一度腰の金具に通し強く結びつけた。
その時、パシュウと妙な音がして、パッとあたりが白く光った。
照明弾で照らされていると気づいた途端、ノーチはためらいなく足場を蹴った。ロープを少しずつ送っていく余裕はない、ロープを制御する革手袋が擦り切れそうな勢いで下に下る。
照明弾がゆっくり下降し燃え尽きて、辺りがまた暗くなる。ノーチは腕に万力を込めてロープの動きを止め、僅かな足場を探して壁に張り付き、一度へその前で結んだロープの結び目を切った。残りを猛烈な勢いで引っ張って回収し、先程と同じ要領で近くの杭に通してへその前で結ぶ。
ノーチはそこで奇妙な音を聞いた。トン、トン、トン……足音のような音だ。ノーチは近くの杭を握りしめた。この杭……いや、この壁自体から振動がする。監視部隊が下ってきている音だろうか。
そのときまた照明弾が放たれる。今度は3発、だがここを乗り切ればもう監視部隊が使う杭はない。残りは自前の逆棘杭で降りていけるはずだ。
「残念ですよ、ヤシモフ中尉」
誰かの声が雨音にかき消された。人の気配を感じて上を見上げると、数段上の杭の上に誰かが立っている。
”立つ?”
照明弾の白い光が男の姿を白く照らしていた。腰にさがった飾緒が見え、上の男が監視部隊の人間だと知ったと同時に、ノーチはナイフを投げた。男はノーチがナイフを投げる予備動作をする前に倒れるように飛び降りると、落ちながら杭を握ってぐるりと一回転し、そのままノーチにけりを入れた。
北部の人間は身体能力に特に優れている。ノーチはその北部でも特に強い軍事国家として名をはせていたジーマの軍人だ。ノーチはナイフを飛ばすと同時にロープを送り出し、男が自分が使っている杭からロープを切ったと同時に壁に逆棘杭を打ち込もうと両手に準備した。以前、山岳警備中に隣国と戦ったときは、成人男子を背負ったまま同じことをして見せたのだ、仮に腹にユトを抱いていても、この両腕の力だけで壁にしがみつくことはできる。
だがなかなかロープが切られない。男は自分とユトを殺しにきたはずだが、奇妙だなとノーチが思った瞬間に、上から何か土のようなものが落ちてきてはっと上を仰いだ。
あの男が、壁を走って降りてきた。そこからは一瞬の出来事だった。ノーチは無意識に、逆棘杭を持ったままユトを抱きしめ、頭を屈めた。男は縮こまったノーチの肩に飛び乗ると、ノーチの"背中"めがけて何度も短剣を突き刺した。剣はノーチが背負っていた荷物を貫き、肩や背中に深々と突き刺さった。
男はノーチの頭を蹴り上げた勢いで壁に張り付き、二人が落ちていくのを見守った。照明弾の光がすべて消え、あたりは雨と闇に包まれた。