小さな教会の聖護師①
空は青く澄み渡り、心地よい風がエスカの頬を撫でていた。
周囲の草花は、彼の鼻腔を刺激する香りと、風が強く吹くたびに波のような旋律を奏でていた。
「あれ?」
草地に身を横たえていたエスカは、ゆっくりと状態を起こした。
振り返ると彼の背後には、植物に埋もれかかっている倒壊した女神の石像があった。
いつの間にか視野の右上にあったはずのタイマーや、ランキング情報を伝える数字が消えていた。
「イベント……してたよな」
彼の最後の記憶は、奥義スキルを連発した途端に魔人と目が合い、一瞬で光の中へと叩き込まれたような、そんなところで終わっていた。
「闘技場の女神像……だよな」
女神像には長年風雨に晒されていたような、風化によるものと思われる亀裂が無数に入っており、ゲーム世界とは全く異なる様相を呈していた。
闘技場のあったはずの場所は、樹木が生い茂る原生林へと姿を変えていた。
「みんなはどうなったんだ?」
エスカは討伐戦の記憶を辿った。
魔人はあり得ないほどの強さを見せ、プレイヤーすべてを圧倒的な火力でねじ伏せ蹂躙していた。
プレイヤー達は倒されるたびに女神像の元で復活し、再び挑みかかるというゾンビアタックを繰り返していた。
指を振ると空中にコントロールパネルが表示されたので、エスカにはゲーム世界が未だに続いているとしか思えなかった。
「フレンドリストは反応なし、アイテムリストは……なんだこれ、数がすごいことになってるな。装備とスキルは使えると……」
細かく指を動かしながら、表示された項目を次々と確認していった。
「バグなのか?いや隠しステージなのかも」
深い森の中は薄暗く、時々鳥の鳴き声だけが聞こえていた。
冷気が感じ肌寒くさえあったが、リアルすぎる視覚情報が引き起こした錯覚なのだとエスカは思っていた。
「とりあえずここにいても様子が分からないな」
エスカは翼を広げると、静かに空へと舞い上がった。
「見たことのない場所だな。まさかReに飛ばされたとか?」
何気に頬に手を当てた瞬間、彼の背筋に悪寒が走る。
「VRモニターが無い?」
両手で顔を触ってみても、ゴーグルの感触が感じられなかった。
しかも頬をつねると、痛覚がある。
「本当に異世界なのか??」
俄かに混乱を始めた彼の耳に、声高な女性の叫び声が飛び込んで来た。
耳を澄まし、声が聞こえる方角を見定める。
「あっちか」
自分と同様に、ここへ飛ばされたプレイヤーなのかもしれない。
そうエスカが思いつつ空から声の主を探していると、少し開けた草原に森から飛び出た人の姿が見えた。
白い神官服を着た人物は、途中足を取られたのか、地面に顔を盛大にぶつけながら転がっていた。
その後を追うように、森から現れたのは肉食竜に似た大型のモンスターだった。
「あんなのゲームにいなかったよな」
逃げていた人物は怪我を負っていたのか、そこから一歩も動こうとはしなかった。
やがて観念したのか両手を組むと、神に祈りを捧げるような仕草を見せた。
戦えるのかどうかなど考えている余裕などなかった。
「氷結縛鎖!」
モンスターが人物へ襲いかかろうとした瞬間、エスカは反射的にスキルを発動させていた。
「真核爆散!」
一瞬で氷漬けになったモンスターは、体内の内側から光を放ち、氷の破片を撒き散らしながら爆ぜた。
他にモンスターが現れないことを確認してから、エスカは地面に舞い降りた。
動けなくなった人物は、微かに体を震わせながら固く瞼を閉じていた。
よく見ると、服は転んだにしてはかなり汚れが目立っており、所々に縫い直した箇所があった。
相手が落ち着くまでの間、エスカは様子を見守ることにした。
万が一に備え、翼は広げた状態にしておいた。
倒したモンスターがいた場所の草は爆風でなぎ倒されており、その中心には車のタイヤほどの大きな魔結晶と素材として使えそうな骨や牙が落ちていた。
エスカがそれらに触れると、ゲーム世界と同様に回収を確認するアイコンが目の前に現れた。
「現実ならモンスターの亡骸が残るはずだよな。どうも理解に苦しむ……」
ゲームシステムが使えるのは仮想世界だけであり、現実で使用出来るようになるにしても、遥か遠い未来の話だ。
現実と仮想の境界が見えてこないだけに、エスカは頭を悩ませていた。
「か、……神様、ありがとうございます」
振り返ると涙目になった人物がこちらを見ていた。
小柄で金髪の、年の頃は高校生くらいだろうか。
「神様?違いますよ」
「では精霊様ですね」
「それも違います」
「じゃあ……どちらさまなのでしょう?」
「僕はエスカです」
相手に勘違いをさせた原因は、エスカが翼を広げていたからなのだろう。
即座に翼をしまい込むと、エスカは人物の元へと歩み寄った。
「助けていただきありがとうございました」
改めて相手は深々と頭を下げた。
「私はセシアと申します。森で薬草を取っていた時に魔物に襲われてしまいました」
「怪我をしたみたいだけど」
「大丈夫です、自分で治せますから」
彼女が服の裾を捲り上げると、白い素足の膝には擦り傷が出来ており、そこには血が滲んでいた。
セシアは手を傷口にかざすと、呪文を唱え始めた。
「ヒール」
淡い光が傷口に向けられたのだが、治り方がずいぶんと遅く見えた。
「回復呪文が使えるんだ」
「はい、聖護師を目指していますので……まだ駆け出しですが」
ブレイブスキルオンラインでも、初級の回復呪文としてヒールは存在していた。
だが彼女の魔法はゲーム世界のそれよりもどこか力強さに欠けていた。
「これを使ったほうがいいかも」
アイテムリストから回復薬が入った小瓶を取り出したエスカは、それをセシアに手渡した。
「これは?」
「回復用の飲み薬さ。味は……ともかく効果はあると思う」
「色が葡萄酒みたいですね、では遠慮なくいただきます」
恐る恐る薬を飲み干したセシアは、途端に目を丸くする。
「とても美味しいです、それに何だか体が軽くなりました。傷口も……すごい消えてます」
「それは甘かった?」
「すっきりとした甘味がありました。喉越しがとても心地よくて、体が少し熱くなりました。飲んだことが無いんですか?」
回復薬をもう一本取り出すと、エスカは液体を自ら口に含んだ。
確かに彼女が言った通りの味覚が感じられる。
こうなると最早ゲーム世界であるとは言い難かった。
「これはその……高価な物ではないんですか?」
「薬草から作ったものだから、それほど高くはないよ」
「薬草からですか?」
「作ったことは無いの?」
「はい。薬草は乾燥させて煎じて飲むか、磨り潰して傷口に当てる以外の使い方を知らないので」
回復薬は消耗品である。
いずれ補充の手立ても考えなくてはならないのかも知れない。
だが今のエスカには、その手立てですら見当もつかない。
「ここにいてもまたさっきのような奴に襲われるかもしれないな。君さえよければ家まで送ろうか?」
「本当ですか、ありがとうございます…………でも」
「でも?」
セシアは顔を紅くしながら俯いた。
「迷っちゃいました」
苦笑いを浮かべた彼女は、気まずそうに首を傾けた。
その仕草にエスカは心をくすぐられたような気分になった。
「空を飛べばすぐに分かるさ」
再び翼を開いたエスカは、セシアを立たせると、そのまま抱きかかえた。
ずいぶん軽いんだなと思いつつも、エスカは人生初のお姫様抱っこをしていることに気づいていなかった。
セシアは顔を赤らめたまま、少しだけ無言になった。
空中へ舞い上がると、ひゃっ!っとセシアが驚きの声を上げた。
「どっちに行けばいいか分かるかな?」
「えーと、あっちです」
セシアが指さす方向へ、エスカはゆっくりと移動を始めた。